俺の大切な人
『駅についた』
『わかりました! 自転車気をつけてくださいね』
仕事を終えて22時。俺が到着したと菜穂に連絡をした。
夏の夜、昼間の熱を飲み込んで少しだけ優しい。
風が心地良くて俺は深呼吸をしながら歩いた。
菜穂と結婚してから、心の奥のほうに根が張ったような……気持ちが落ち着いた気がする。
いつもどこか、何か欠けているような気がして常に必死だった。
働いて認められても満たされなくて、そもそも本当に欠けているのかも、何もかも分からず、ただ必死だった。
どこが欠けているのか分からず、ただ生きていた日々。
でも今は、欠けていないと、それだけは分かる。
仕事をするのは菜穂や仁菜と暮らす家のお金のためだ。
俺が食事をするのは、健康で居続けて、家族で過ごすため。
ただ生きていた日々が、温かい形になって目の前に現れた。
自分のためだけじゃない人生に、これほど価値を感じると知らなかった。
「帰ろう」
俺は自転車のペダルを踏み込んだ。
早く菜穂に会いたい。
玄関横に自転車を止めた。
家には電気が付いていて、大好きな人が菜穂が家にいる……その事実が外から分かるのが嬉しい。
俺は自転車置き場横に溢れかえっている段ボールを少しまとめて移動させた。
段ボールを出せるのは月曜日だから、土日でしっかり縛ろう。
先週の土曜日に引っ越しをして、今日は金曜日……一週間弱経過した。
菜穂と俺の家から荷物を持ってきて、正直一週間はバタバタだった。
毎日届けられる荷物に、片付けていくのを繰り返して、やっと落ち着いてきた。
玄関横に置いてある自転車は、じいさんが引っ越し祝いに仁菜に買ってくれたものだ。
リュウとお揃いで、家の横の車が入ってこない空間でふたりで練習してると聞かせてくれた。
「しかし、いつも落ちてるな」
俺は地面に落ちていたヘルメットを前籠に戻した。
昨日までは何も貼ってなかったのに、ヘルメットにシールが大量に貼られていて笑ってしまう。
仁菜は毎日一緒に朝ご飯を食べながら色々と話をしてくれる。
仁菜が学童に行くのはもう少し遅い時間で、俺たちは電車に乗らなきゃいけないのでかなり早起きをしている。
もう少し寝ていてもいいし、夏休みなのに、毎日起きて俺と朝ご飯を食べている。
「パパに聞いてほしいの!」と笑顔で言ってくれる娘を、本当に可愛いと思う。
夏休みと言っても俺たちは仕事だけど、三人で旅行に行きたいと言われているのでお盆に予約をした。
今からそれが楽しみだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
玄関を開けて中に入ると、菜穂が顔を出してくれた。
俺は思ったより、家に誰かがいて声をかけてもらえるのが嬉しいみたいだ。
菜穂は俺に向かって、
「すぐにご飯出しますね」
「ありがとう」
そう言って俺は菜穂を抱きしめた。
菜穂は嬉しそうに俺にしがみついて、
「おかえりなさい。今日も大変でしたね。倉庫がトラブってるって聞いてます」
「みんな言い分が違って地獄だ」
「おつかれさまでした。ご飯にしましょう」
そう言って菜穂は俺の頬にキスしてくれた。
仕事の愚痴をいうのはかっこ悪いと思っていたけど、菜穂は俺が弱いことをもう知っている。
それに同じ会社で働いて長いから、愚痴を「言っているだけ」だと分かっていて流してくれる。
それがこんなに気楽だと知らなかった。
菜穂と一緒に台所に入って畳の部屋にカバンを置き、スーツを脱いだ。
帰ってきてすぐに楽に出来るようにリビングの一部を畳の部屋にした。
新しいイ草の香りが心地良くて、ここで横になるのが好きだ。
菜穂は台所でご飯を準備しながら、
「あ、畳の部屋で晩ご飯食べますか? 私もたまにしてますよ」
「いや、そっちで食べる。でも冬になったら鍋とか、こっちのがいいな」
「! こたつを買いますか?」
「……いいな。でも眠くなるんだよな、あれ」
「でも透さんと仁菜が一緒に寝てるの、ちょっと見たいかも」
そう言って菜穂は笑顔を見せた。
何か提案すると、その先に続く未来を楽しそうに描いてくれる。
菜穂が思い描く未来に、当然のように俺がいて、それがなにより嬉しい。
でもこんな幸せな家に仕事が忙しすぎて遅くにしか帰れないことが淋しい。
「……仁菜は……寝ちゃったか」
「はい、さっき。明日はお休みだよって伝えたら、じゃあ明日遊ぶって」
「今週は二回しか会えなかったな。来週には落ち着けそうだ」
「良かったです」
そう言って心底安心したようにふにゃりと笑った。
俺は気持ちが溢れてしまい、笑顔で話している菜穂を抱き寄せてキスをした。
菜穂は嬉しそうにしがみ付いてくる。
柔らかくて甘い香り。もう我慢できない。
俺は菜穂の頭にコツンと自分の頭をぶつけて、
「明日休みだし……今日、菜穂を抱きたいんだけど、良いかな?」
そう伝えると菜穂は俺に抱きしめられた状態で「!」となり耳を赤くして、
「! ……あ、はいっ……、大丈夫、です……」
「良かった」
俺は菜穂の頬にキスをした。
宣言するつもりなんて無かったけど、今までずっと我慢してきたから、ふたりで大切にしたかった。
正直今までも菜穂を抱けそうなタイミングはあったけど、菜穂は仁菜を大切にしている。
俺は仁菜の母親をしっかりしている菜穂が好きだから、そこから完全に切りわけられたほうが良いだろうと思った。
菜穂はどっからどう見ても動揺していて、一度洗った皿を二度洗っている。
動揺させただろうか……と思ったけれど、正直その姿を可愛いと思うし、もう触れたくて仕方が無い。
いや……せっかく作って貰ったんだから、しっかり食べよう。
俺はフライパンの取っ手まで磨き始める菜穂を見ながら、必死に自分を抑えた。
「お風呂に入ります!」
そう言ってエプロンを椅子にかけて慌ててお風呂に向かう時、椅子に服が引っかかった。
「!」
「大丈夫か」
「大丈夫ですっ……!」
そう言って菜穂は慌ててお風呂に消えて行った。
本当に小さな声で「(わーー!)」と言っているのが聞こえて頭を抱えた。
そこまで動揺させるつもりはなく、本当に菜穂が可愛くて思わず宣言してしまったけど……本当に俺の嫁が可愛すぎる。
風呂から上がって寝室にいくと、菜穂がいなかった。
自室にいるんだろうか……ドアをノックすると、そこに菜穂がいた。
俺は言葉を失った。
さっきまでいつも通りの部屋着だったのに、菜穂はパジャマに着替えていた。
そのパジャマは、俺が今着ているもので……つまり前に菜穂が俺の部屋に泊まった時に着ていたものだ。
正直俺のパジャマを着て眠っていた菜穂を見たときは、もう会社なんてしったことない、なんとでもなれ、俺は菜穂と居たいんだ! と心の奥から思った。
本当にギリギリなんとか理性を保った(いや強引にキスをしてしまったから保ててなかったかもしれないが、会社に行った時点で俺は保った)。
そのパジャマを菜穂が購入して着ている。可愛くて可愛くて……何よりそれを買って準備して、今日したいと伝えたら、それを着て待っている。
……とんでもなく可愛い。
それに、さっきまで部屋着で走り回って慌てていたのに、俺とお揃いのパジャマを着て、ものすごく色っぽい。
そのギャップがすごい。
「……おいで」
俺は菜穂の小さな手を握ってベッドサイドに連れて行って座らせた。
ベッドサイドの少しくらい光で、菜穂がいつもより美しく見える。
菜穂は恥ずかしそうにパジャマの胸元を引っ張り、
「透さんとお揃いが良くて。こっそり……今日のために買ってました」
「可愛い、菜穂……本当に可愛い」
もう可愛いしか言えない。
社員旅行で意識してから、菜穂のことを見てきた。
家族思いで、会社の人間にも分け隔てなく接するその姿。
その後に知ったつらい過去。それでも前向きに受け入れて、まっすぐに進む心に惹かれていった。
優しい気持ちが俺の心に触れた時、菜穂のことを世界で一番大切だと気がついた。
柔らかくて薄い唇を食べ尽くすようにキスをすると、
「……んっ……」
と漏れ出すように息を吐き、ベッドに崩れ落ちた。
菜穂の香りを追うように耳元にキスをする。
菜穂は恥ずかしくなると、いつも耳が赤くなる。
それを見て、あそこに触れたい……そう思っていた。
耳にキスをして舐めると、菜穂が切なそうに俺をみて名を呼ぶ。
この声が、この表情が、この全てを、俺は欲しかった。
真っ赤に染まった耳元で「菜穂」と呼ぶと、
「……はいっ……」
と消え入るような声で答えてしがみ付いてくる。
耳たぶにキスを落として、そのまま柔らかい首筋に唇で触れるとビクリと身体を震わせて、
「……透さん」
と、吐息のように俺の名を囁く。
ゆっくりとパジャマのボタンを開くと、はずかしそうに目を伏せている。
こっちを見てほしくてキスをすると「!」と俺を見て、そのまましがみ付いてきた。
可愛い。パジャマを脱がして柔らかい肌にゆっくりと唇を這わせる。
「っ……!」
ビクリと動いてそのまましがみ付いてきた菜穂を抱き寄せた。
菜穂は俺がどこに触れても吐息のように俺の名を呼び、その甘い声に痺れる。
首も腕も肩も背中も、すべてキスをして菜穂が崩れ落ちるが動きを止めない。
まだ足りない。
俺にしがみ付いてくる菜穂の顔を上げさせて深くキスをする。
肩も腕も腰も指先でさえ、俺から離れることを許さない。
菜穂を愛している。
「……透さん……エッチです……ものすごく……思ったよりエッチです……」
「好きな女に対してエッチじゃない男なんていないだろう」
俺はベッドの中で裸の菜穂を引き寄せた。
心地良い疲れと、残る気持ち良さと、菜穂の柔らかさ。
どうしようもなく幸せで仕方が無い。俺は菜穂の髪の毛を分けて首筋に唇を這わせて、そのまま耳にキスをした。
くるんと菜穂が振り向いて俺の方を見る。
「! 透さん、すごく耳にキスします」
「菜穂、恥ずかしくなると耳がいつも真っ赤になるの、気がついてるか?」
「えっ……わかりません」
そう言って菜穂は両耳を手で隠した。
それでも顔は真っ赤で……なにより他の部分が全部見えていて可愛い。俺は唇にキスをして抱き寄せる。
すると耳を隠していた手が離れて、俺の肩に置かれる。
俺は唇を離して、開放された耳に再びキスをする。
「ほら、赤い」
「! 知らないです、はじめて知りました。あっ……」
俺が耳にキスをして、耳たぶを甘噛みすると、菜穂はビクンと再び俺に抱きついてきた。
可愛い。もうこんなのどうやって眠ればいいんだ。
菜穂が可愛すぎて、止まれない。
触れれば触れるほど菜穂の弱い所、好むところが分かってしまって、ひたすら菜穂を愛してしまう。
何度も菜穂を引き寄せて抱いた。
「……ちゃんと着せるところが……また……なんというか……」
「正直、このパジャマを着て待っていた菜穂を見たとき、倒れるかと思った」
「……それは透さんのマンションでのことですか?」
「あの時もそうだ。あの時俺は、会社に行きたくなさ過ぎて辞めることさえ考えた」
「透さん、それはちょっと」
そう言って菜穂はケラケラ笑ったが、俺は脱がせたパジャマをもう一度しっかりと菜穂に着せた。
すごく似合っていて、俺と同じで……嬉しい。
着せて布団の中で菜穂を抱き寄せる。
そして甘くキスをして、
「正直眠るときにこれを着ていたら、我慢できる気がしない」
「……じゃあ毎日着ます」
「菜穂……もうダメだ……もうどうして……可愛い……」
俺は可愛いことばかり言う菜穂を抱き寄せた。
菜穂は俺にしがみつき、
「……私が透さんだけを見られる時まで、待ってくれてありがとうございました」
「でもふたりの部屋ができた。もう待たない」
「はい。透さんが私を好きなの……すごく分かって、気持ち良くて……幸せでした」
そう言って胸元にいる菜穂が可愛くて仕方が無い。
俺はお揃いのパジャマを着た菜穂を抱き寄せて、深く深く眠った。
柔らかくて温かくて、どうしようもなく幸せで、でもその幸せを怖いとはもう感じてなかった。
俺のことを大切に思ってくれる菜穂が、ずっとここにいると心の奥底から信じられるから。




