広瀬の秘密、お茶碗の過去(広瀬視点)
「……まさかこの茶碗で、海野とお茶を飲むことになるとは」
俺、広瀬透は海野が洗ってくれたお茶碗を見て呟いた。
俺の両親は俺が小学生の時に離婚して家を出て行った。
正直トラウマばかりで、この家が好きではない。
電子レンジひとつ見ても、昔の電子レンジを買ってきたのは母だった……そんなことを思い出してしまう。
でも、じいさんが倒れたんだ。そんなことを言っている場合ではない。
俺はさっき使った茶碗にもう一度お茶を入れた。
実はこの茶碗は、海野が慰安旅行で買っていたのを見て、俺も買ったのだ。
数年前の慰安旅行で伊豆に行った。
その時に海野が「家族みんなで使うお茶碗。古くなってるからほしいんですよね」と七つ購入したのだ。
俺はそれを見て「七人家族なのか」と聞いた。
すると海野は「お父さん、お母さん、私、亡くなった姉、娘の仁菜。それにおばあちゃん、亡くなったおじいちゃん。七人です」と言ったのだ。
当然のように亡くなった人を家族と呼び、使わないであろう茶碗まで買う。
俺には全く無い感覚で驚いた。
海野は頼れる部下だが、このお茶碗のことがずっと頭にあった。
あのあと、俺とじいさんと彩音の分として、茶碗を三つ買った。
それまではどこか「自分を置いていった親」に執着があったが、あの時から「俺の家族は三人だ」と完全に切り捨てて忘れた。
この茶碗は俺にとって自由の象徴、これで海野とお茶を飲むことになった。
それがなんだか嬉しく、海野が隣家だったという奇跡に少し感謝している。
「……どうして俺はここで寝てるんだ……?」
起きると布団から完全に押し出されて、真ん中にリュウが寝ていた。
彩音の部屋に布団が二組あり、並べて寝ればよいだろうと使ったが……起きたら窓際に追いやられて布団をふたつ使ってリュウが寝ていた。
俺は布団と壁の僅かな隙間に挟まるように眠っていたようだ。
……首が痛い。今日はもう少し布団を離して眠ろう。
横で眠っているリュウに声をかける。
「リュウ、朝だ。起きてくれ」
「……」
リュウは全く動かない。
とりあえず自分の準備をするかとスーツに着替えて、冷凍庫にあった焼きおにぎりを食べる。
髪の毛を整えて歯を磨いてリュウの所に戻ると、リュウは全く動いていない。
俺は横に座り、
「リュウ、もう準備をして家を出ないといけない」
「……」
リュウは『……うん……』といった反応すらしない。
まさか……と思って思わず口元に手を持っていったが、普通に息をしている。良かった。
俺は「リュウ!」と叫んで横で身体を揺さぶる。これで起きるだろう。
しかしリュウはグデングデンと身体を左右に揺らすだけだ。
なんだこれは……。俺はこの前ネットのニュースで見た何かを思い出していた。
「トド……か……?」
いやそんなことを言っている場合ではない。
俺はリュウを抱えて一階に降ろす。これでさすがに起きるだろうと思ったが、床にそのまま転がったまま動かない。
嘘だろう。さすがに手荒くなり、リュウをソファに座らせる。これで起きるだろうと思ったら、そのままズルルルと横になった。
まさか体調が悪いのか?! 俺は慌てて体温計を取りに行こうと立ち上がったら玄関がノックされた。
「海野です、おはようございます。広瀬さん、大丈夫ですか?」
「海野おはよう。ちょうどよかった。リュウが全く動かない、体調が悪いのかと思って体温計を探したいんだが、どこだか分かるか」
「失礼します」
海野は家に入り、リュウのおでこに手を一秒おいた。
そして顔を上げて、
「熱はないです。たぶん眠いだけです。彩音さんも言ってたけどリュウくん朝弱いんですよ。全然起きないみたいで。いつもは8時45分に叩き起こして口にアンパンマンスティックをねじ込んで着替えさせるって聞いてるので、この時間は絶対に無理だと思いました。広瀬さん着替えてください、あと13分で家を出ないとアウトです」
「あと13分?!」
「はい、私がリュウくんを見るので、広瀬さん準備してください」
「分かった」
俺は慌ててコンタクトをしようとカバンを開けたが、見当たらない。
カバンのどこかに予備があるはずだが……もうそれを探す時間がない。
ネクタイを締めて上着を着てスマホを見ると、まったく充電されていなかったことに気がつく。
家にあった彩音の充電ケーブルを借りたのだが、断線でもしてるのか?!
電池容量5%……目覚ましが鳴ってくれたことに感謝するレベルだ。
持っていた充電器を挿したが、ほとんど電池がないようで、ため息をついた。
もう時間がない。全てカバンに投げ込んで上着を羽織って玄関に来た。
「出ましょう、ギリです」
海野が片腕でリュウを抱き、もう一方の手にこども園のリュックを持って立っていた。
俺は慌てて海野からそのカバンを受け取り、海野の自宅に向かった。
そして玄関でリュウを渡して、父親に頼んだ。
「お父さんゴメン、リュウくんのお弁当と水筒もお願いしてよい?」
「ああ、任せとけ。あ、広瀬さん……ですか。おはようございます」
「ご挨拶が遅くなって申し訳ないです。隣家に住む広瀬です。あ、お弁当と水筒が必要でしたか、すいません」
「いいってことよ。突然こんなことになって大変だろ。上司さんだって? 俺は駅前で居酒屋してるから朝飯は俺担当でさあ」
「お父さんもう時間ないの! もう出るね、よろしく!」
そう言って海野は家から飛び出した。
玄関で海野のお父さんが俺に向かって手を振っているので会釈した。
明日は土曜日だから、しっかり挨拶しよう。
俺は持ってきた彩音の子乗せ自転車に乗り、海野の後ろを付いていく。
海野も子乗せ自転車で、二台の子乗せ自転車で駅に向かって走っている……しかもこの見慣れた景色を……と少し思ってしまう。
信号で止まると、前を部活に向かう中学生が歩いてきた。
海野はそれを見て、
「広瀬さんは、こっちの中学だったんですか?」
「そうだ。今の子たちと同じ中学校だった」
「広瀬さんは中学生の時、部活に入ってたんですか?」
「いや……入ってなかったな」
中学の時は、良い高校に入るために必死に勉強をしていて、将来のために英検や漢検を取ろうと勉強もしていた。
駅前には学習塾があり、教師からは「そのレベルの高校を目指したいなら入ったほうが良い」と言われたが、じいさんのお金を使いたくなくて断った。
だから独学で、あの辺りで一番偏差値が高い高校に入った。
この角にあるスーパーで、よく安くなったおにぎりを買って夜食にした。
海野はそのスーパーを見て、
「このお店。ここだけチョコエッグがあるんです」
「チョコエッグ?」
「卵の形をした……もうちょっと常軌を逸したレベルで甘いチョコの中にオモチャが入ってるんです。リュウくんも仁菜も大好きで。この信号長いじゃないですか。そのたびに買わされて……げんなりです」
そう言って海野は両肩を上げた。
チョコエッグ。そういえばそんな商品が昔からあった気がする。
海野は自転車を走らせながら、
「広瀬さん甘いものお好きですよね」
「……そうだが、なんで知ってるんだ」
「会社のお土産の甘すぎるチョコ。広瀬さんだけが食べてました。だから今度またふたりがチョコエッグ買ったら広瀬さんが食べてください。私はもう無理です」
そう言って海野は笑った。
もう俺はあの店で安売りのおにぎりじゃなくてチョコエッグを買うのか……と思ったら少し心が軽くなった。
自転車を停めて中央特快に飛び込む。
海野は胸元の服をパタパタさせて空気を送りつつ、
「良かったです。これでセーフです」
「助かった。いや、でも驚いた。これを彩音は毎日してるのか?」
「いつもはもっと遅いんです。だから余裕があると思います。リュウくんは朝すっごく弱いみたいなので、6時台なんて絶対無理だと思ったんです」
「そうか。もう少し遅ければ動くのか……? 毎朝あのトドみたいな状態じゃ、どうにもならないだろ」
「トド」
そう言って海野は笑うが、笑い事じゃない。本気で呼吸を確かめたというと、海野は更に笑った。
そしてカバンからスマホを取り出して、
「バタバタしてて、個人の連絡先を交換し忘れてました。今日広瀬さん、インテックさんとお食事ですよね」
「……そうだ。駄目だ、飛ばすか」
こんなことになるとは思わず、今日は仕事で食事会があるんだった。
海野は首を振り、
「いえ、私が家でふたりとも見てます。インテックさん……今日話しておかないと、テストに間に合わないと思います」
「そうだな。その通りだ。……申し訳ない」
「困った時は助け合え。助けてほしいと言え。それを言えるのも強さだと広瀬さんが新人研修で言ってました」
その言葉に俺は目を丸くする。
確かに俺は新人研修でそれを必ず言う。
困った時に何も言わず抱えられるのが一番困るからだ。
だけど海野にそれを言ったのは4年ほど前だと思う。そんな言葉を覚えていてくれるのか……と嬉しくなる。
「……覚えがいいな」
「広瀬さんが言った言葉、ずっと新人たちに伝えてるんです」
「そうか、じゃあそれを今使おう。助けてくれ海野。俺はスマホを充電したつもりができてなくて、私用スマホの電池が5%を切っている」
「なるほど。ではこれを使ってください」
そう言って海野が取り出したのは、黒い充電器だった。
それには海野と仁菜ちゃんのプリクラが張ってあった。
それに気がついた海野は、
「あ! あんまり見ないでください。それちょっと加工できるので、仁菜がやりたい放題して」
そこに張られていたプリクラの海野は肌が白く、目が想定外にぱっちりしていて、頬に大量のチークが塗られている。
仁菜ちゃんの頭には王冠が載り、周りにキラキラと光や、ハートが飛び交っている。
『になちゃんとなほちゃん』という太い文字に、二人とも星形のスティックを持っていて、
「可愛いな。今はこんなことが出来るのか」
「! ……仁菜が全部したんです。私はこんなに化粧とかしないです」
「知ってる。海野はこんな風に化粧しなくても十分に綺麗だが、化粧するとこんなことに……?」
俺がまじまじと見ると、そのプリクラを海野がギュッと握って隠した。
「すいません。あんまり見ないでください、恥ずかしいです!」
「いや。俺も撮りたいなと思って。イケメンになるのか?」
「っ……イケメン。いえ男性は不自然にキラキラ男子になります。こう王子様みたいに」
そう言って海野は楽しそうに笑った。
俺はプリクラの海野より、それを楽しそうに話してくれる目の前にいる海野のほうが、全然可愛いと思うが、黙って話を聞いた。