完璧上司の素顔は、台所で
「つ……疲れた……もうマジ無理……」
私は布団からズルズルと抜け出して一階に降りてきた。
仁菜は絶対ひとりでは寝ない。私の寝かしつけが必要だ。
だから横になってたけど、もうあのまま寝たくて仕方なかった。
でも広瀬さんに報告しないと……!
降りてくると奥の部屋のテレビが付いていた。おばあちゃんは帰ってきたようだ。
私は少し襖を開いて、
「おばあちゃん。私、隣の広瀬さんのところ行ってくるね。色々説明してくる。仁菜寝てるからよろしくね」
「了解。聞いてるよ。大変やったね。源太郎さん大丈夫かね」
「わかんない。聞いてくるよ」
私はサンダルを履いて家を出た。そして庭の横の道を歩き、広瀬さんの家に入った。
上着を羽織ってくれば良かった。四月の夜はまだ寒い。
それに広瀬造園の一帯は、突然気温が下がるのだ。
木の力って本当にすごいと思う。石畳を登り、母屋の引き戸を軽くノックする。でも中から反応はない。
リュウくんが寝ていることを考えるとチャイムは鳴らしたくない。
じゃあスマホで……と思うけど、横に置いていたら音で起こしてしまうかもしれない。
でもそれしか手段はない……と思い、番号あてにメッセージを送った。
これでどうかな……と待っていたら、玄関の引き戸が開き、そこに広瀬さんが立っていた。
「……すまない、寝ていた。リュウが一緒に寝てくれないと駄目だというから横になっていたら、そのまま」
広瀬さんはスーツのパンツを穿いたままで、髪の毛は乱れていて寝癖が付いている。
いつも会社でピシッとしたスーツ姿しか見ていないので新鮮すぎる。
でもとりあえず寒いので、
「寝てしまうのはよくあることです。すいません、入っても良いですか?」
許可を得て、私は玄関でサンダルを脱ぎ、家に上がった。
そして右側にある台所に向かう。後ろを付いてきている広瀬さんを確認しながら、台所にある棚に触れた。
「ここの棚から勝手に保険証を出しました。マイナンバーカードとかも入ってます。あの私、リュウくんのママ、彩音さんとママ友で、リュウくんを病院に連れて行ったことも何度かあるので場所とか知ってるんです、勝手に入って出してすいません」
「いや、本当に助かった。申し訳ない」
「いえ……」
私は促されるまま椅子に座ったが、広瀬さんの状態が気になって仕方がない。
私は椅子を引いて座り直して、
「あの……スーツを脱いだほうが良いと思います。皺が付いてしまいます」
「……そうか。そうだな。このまま寝たから大変なことになってそうだ。着替えてくる」
そう言って広瀬さんは横の部屋に向かい、たぶんおじいさんの服だろう……Tシャツとパンツに着替えてきた。
そしてそのまま台所に入り、棚を開けたが、そこにはお皿があるだけだ。
お茶を探しているように見えたので、私は立ち上がって戸棚からお茶を出した。
「お茶だったらここです。すいません、私、彩音さんと一緒に育児をしてるので、何度もこの台所でご飯を作っていて」
「そうなのか、すまない。この家を出て10年くらい経つから、どこに何があるのか、全く分からない」
広瀬さんはティーバッグを取り出し、お湯を注いでお茶を淹れてくれた。
私は受け取り、
「同居してなきゃ当然だと思います。私の家……来ていただいたので分かると思うんですけど、広瀬造園さんの奥なんですよ。それにリュウくんも仁菜と同じ年齢で同じこども園に通っていて。いつもこの庭で勝手に遊ばせてもらってるんです。だから色々させていただいていて」
「知らなかった。え、あの子がお姉さんの?」
「そうです。姉の子どもです。私が見てます」
「そうか。それは聞いてたけど、家が隣だったのか。あそこ……そうか、民家が一軒だけあったな」
「元々祖父と祖母が住んでいて。私たちはここには10年前に引っ越してきました」
「俺が家を出た頃だ。そうか……そうだったのか……助かった、本当に助かった」
広瀬さんは何度も「助かった」と呟いた。
そして机の上に置いてあったお饅頭をひとつ手に取って、私に「食べるか?」と見せてくれた。
私はもう夕飯を食べたあとだったので首を振ると、広瀬さんはそれを二口で食べて、まだお腹が空いているのか、立ち上がって冷蔵庫の前に立った。
そして冷凍庫を開けて、中から彩音さんがいつも作っている焼きおにぎりを出して電子レンジに向かった。
それを中に入れながら、
「電子レンジが新しくなったんだな」
「あ、はい。半年前にツマミの部分が取れちゃって」
「そういえば正月に来た時もツマミの部分がフラフラしてたな、ついに壊れたか」
とつぶやきながら、焼きおにぎりを温め始めた。
自然と台所で動く姿を見て、ここは本当に広瀬さんの実家で、昔は古い電子レンジを使っていたんだな……と思う。
広瀬さんは焼きおにぎりをお皿に出して一口食べて、
「……同じ味だ。これを彩音が作ってるのか」
「あ、はい、そうです。ご飯が余るといつも焼きおにぎりにしてます」
「俺がこの家に居た時によく作ってたんだ。今はそれを彩音が作ってるの、なんか面白いな」
そう言って焼きおにぎりを食べた。
彩音さんがいつも「ご飯はこうしちゃえばいつでも食べられる!」と大量生産している焼きおにぎり……昔は広瀬さんが作っていたんだ。
昔から家事をしてた人なんだな……と全く知らなかった一面に驚く。
広瀬さんは私のコップにお湯を注ぎ足し、
「俺はここに10年前まで住んでたんだ。両親はふたりとも死んでいる。彩音は離婚してひとりでリュウを育ててるんだけど……ダンスの仕事が増えたのか? 教師をしてるのは知ってたけど、家を数日離れるような状態だとは知らなかった」
「出産前に参加していたコンサートチームに呼ばれたんです。三ヶ月前から練習に参加されてました」
「知らなかった。そうか、やっと戻れたのか、良かったな」
そう言った広瀬さんの表情は、部下の活躍を喜ぶ上司のようで、やっといつもの広瀬さんになった……と私は少し思っていた。
広瀬さんはお茶を飲み、
「元気にしていると思って、連絡もまともにせず、正月に手土産持って顔出す程度だった」
「広瀬さん……ご自宅ってどこですか?」
「会社から二駅離れたマンションだ」
「微妙に近いから、逆に来ないですよね」
「そうなんだ。電車で一時間、いつでも来られると思ったら、来ないんだよな。じいさんが落ちるなんて……驚いた」
そう言って広瀬さんは目を閉じて首を静かに振った。
会社からは中央特快で1時間かかる。駅まで自転車で15分かかるので、ドアtoドアで2時間見て私は会社に行っている。
遠いけど、私は実家のこの環境と仁菜が大好きなので、全く苦じゃない。
でもおじいさんが元気なのはよく知っているし、私が広瀬さんなら同じような頻度でしか顔なんて出さないと思う。
私はお茶を飲んで、
「おじいちゃんの状態はどうですか?」
「骨盤の骨折で、退院までに早くて二ヶ月かかるみたいだ」
「! 痛そう……骨盤……」
「ただあの年齢にしては骨密度が高いみたいで、コルセットさえ作ってしまえばすぐにリハビリに入れそうだ。問題は目眩がして脚立から落ちたみたいで、それは明日以降検査になった」
「そうです。おじいちゃんはいつもすごく長い脚立に乗って軽々と作業されてるんです。だから今まで転落事故なんて一度もなかったんです」
私がそう言うと広瀬さんは俯いて、
「……俺はじいさんが仕事してる姿なんて10年まともに見てないな」
「いえ、私は仕事されてる姿を見ていたわけではなく、仁菜は本当にこの庭が大好きで、勝手に遊ばせてもらっているだけなんです、こちらこそお世話になっていて」
「……海野がいてくれて、本当に助かった」
「いつもなら彩音さんが完璧に対応されたと思います。偶然いらっしゃらなかったから、対応しただけですから」
私がそう言うと、広瀬さんは少し安心した表情になり、
「病院に到着したとき、海野が冷静に話してくれたから、俺も落ち着けた」
「広瀬さんに言ってもらえなかったら、私……けっこう動揺していたことに気づけませんでした」
私は病院の冷たい椅子と、無機質な空気、殺伐とした空気を思い出して自分を抱きかかえるように腕を組んだ。
もう3年以上経っているのに、まだ救急病院は苦手だ。
広瀬さんは立ち上がって自分が羽織っていた上着を私にかけて背中に手を置いた。
じんわりと広瀬さんの掌の温度を背中で感じる。
その温かさを、ゆっくりと私の芯に届けるように静かな声で、
「大丈夫か? 病院でも顔色が悪かった」
「……いえ、もう大丈夫です」
「それなのに冷静に対応してくれて助かった」
広瀬さんは私の背中をトンと軽く触れて、席に戻った。
かけてもらった上着はおじいさんの物で、ほんわりとおじいさんの香りがする。
同時に広瀬さんのコロンのような匂いがする。広瀬さんの掌の温かさで気持ちが落ち着いてきたのか、急に泣きそうになりうつむき、
「……おじいさん、きっと淋しいですね。急に病院でひとり」
「検査しながら『もう大丈夫だ。俺は帰る』ってずっと言ってた」
その言い方が、おじいさんを真似ていて、どこか私を元気付けようとしていて、それより広瀬さんのほうが大変なのに……。
私は顔を上げて、
「ちゃんと検査してもらわないと駄目ですね」
「二ヶ月入院になる。俺もここに戻って手伝う。海野に色々聞くことになると思うが、よろしく頼む」
そう言って広瀬さんは私に向かって頭を下げた。
広瀬さんは立場も何も関係なく、仕事を頼むときは真摯に頭を下げる人だ。
私も丁寧に頭を下げて、
「私に分かることでしたら、なんでも」
「優秀な人材が近くにいるほど心強いことはない、ありがとう」
これは仕事じゃないんだけど、上司に褒められるとやはり嬉しくなってしまう。
かけてもらった上着の前を合わせていると、後ろの扉がスルスルと開いて、そこにリュウくんが立っていた。
「おしっこ」
「……なんでもうパジャマを脱いでいるんだ?」
「おしっこ」
「こっちだ」
そこに立っていたリュウくんはもうフルチンで、そういえばパンツを履かせてなかったことを広瀬さんに伝えるのを忘れていた……と私はお茶を片付けながら思った。そして明日の朝は大変なので、一緒に会社に行きましょうと約束した。