はじめての
「帰ろうか」
「……はい」
私は広瀬さんの手を握って歩き始めた。
今日は土曜日で、朝から緊張していて、何も食べられなかった。
歩き始めたら、私のお腹がきゅうう……と鳴った。
広瀬さんは私のほうを見て、
「何か食べて帰るか」
「……いえ、この時間ならお昼に間に合うし、帰って家でゆっくり食べたいです」
「そうだな。俺もスーツを脱ぎたい」
そう言って両肩を上げた。
私も珍しく上下スーツなので、正直この服装で外食は避けたい。
なにより早く仁菜に会いたかった。
電車に乗ると広瀬さんは私の方をみて、
「今仁菜ちゃんの親権は誰が持っているんだ」
「お母さんです。すぐに後見人を決めてたほうが良いと言われて、お母さんに。でも……私にしようと思っています」
それはずっと考えていたけど、このまま結婚もしないで家にいるなら別に良いやと思っていた。
でも……私は横の席に座る広瀬さんを見た。この人と歩んでいきたいと今日強く思ったから、もうちゃんとする。
「今日……お母さんたちに、この話をします。だから……横にいてほしいです」
「分かった」
広瀬さんは私の手を優しく握ってくれた。
心の奥にずっと重くあったことが消えて、どうしようもなく安心して、私は広瀬さんの手を握って目を閉じた。
「菜穂ちゃん、すごーーーい! お仕事の人だねえ」
「仁菜、おはよう」
「おはようじゃないよ、おはようしたら菜穂ちゃんもういなかったの。リュウくんも透くんいないって怒ってたから、ひょっとしてデートだった?」
私は仁菜がデートなんて言葉を言うので少し笑ってしまうが、
「そう。デートだった」
「え~~~?! あまーーーーーーーい!!」
仁菜はものすごく古いギャグを全身で言った。
古すぎるけど、どうやら今も子ども達の間ではたまに叫ばれている。
デートと呼ぶには、あまりにハードだったけど……とりあえずもう終わった。
私はスーツを脱いで部屋着に着替えて、一階に戻った。
庭には彩音さんがいた。
「おかえり~~~。……なんか、大丈夫だった? 最近ずっとつらそうだったけど」
「……うん。大丈夫。夜にみんなに話すけど先に彩音さんに言うね。広瀬さんと付き合うことにしたよ」
「?!?!?! マ?!?!?!?!」
「……マ」
私はあまりに短い言葉に笑ってしまう。
でも今の若い子たちは、何でもかんでも「マ?!」だ。私の時代の「マジで?!」が短くなって「マ?!」。
彩音さんは「うっひょーーー!」と叫び、
「おねえちゃあああああんんんん」
「いや、どうだろう。なんか一気に違うな?」
「えええええ、絶対絶対そうなるって、美子さんとも話してたんだよ」
「おばあちゃんと? もうおばあちゃん……そういう話大好きだから」
「美子さん、菜穂ちゃんが幸せになるまで死ねんわ! ってうちの体操教室入ったんだよ。だから超喜ぶよ。え~~~、なにその幸せ発表会、結婚式いつする?! 踊ろっか?!」
「もうちょっと、落ち着いて。とりあえず、そうなったって話だから」
「ちょっとねえ、踊ろっか?!」
「いや、だから落ち着いて?」
彩音さんは庭の真ん中でダンスを始めた。
その横で泥だらけのリュウくんと仁菜もなぜか踊り始める。
その謎空間に、部屋着に着替えて広瀬さんが来た。
「何やってるんだ?」
「ヒュウお兄ちゃん、やりますねえ! ヒュウお兄ちゃん!」
彩音さんがそう言うと、それを完全にマネしてリュウくんと仁菜も同じことを言いながら踊る。
広瀬さんは「……何だ?」と私のほうを見たけど、私は笑うことしかできない。
とりあえず、今日という日を覚えていたくて、庭で踊る三人と、横で見ながら呆れている広瀬さんをスマホで録画しておいた。
よく分からないけれど、とても幸せ。
「……え? あの男がまた来てたの?」
夜。仁菜とリュウくんが眠り、私はお母さん、お父さん、おばあちゃんと、広瀬さんを前に話をはじめた。
ただ広瀬さんのアドバイスに従って、高校時の教師ということは伏せた。
どうやらお姉ちゃんは仕事をはじめてからストレス解消に漢詩をはじめて、そこで小和田さんに再会したようだ。
だからシンプルに「漢詩の教師」として伝えた。
お母さんは話を聞いて項垂れて、
「……あれから一度も来てないと思ってたのに」
「広瀬さんに相談したら、しっかり対応してくれて。だからもう来ないと思う」
広瀬さんは頭を下げて、
「差し出がましいと思ったのですが、ひとりより、ふたりのほうが良いと思いまして」
お母さんは首を振って、
「……ここ二週間、ずっと菜穂が元気なくて……どうしたんだろうと思ったけれど……本当にありがとう」
広瀬さんは背筋を伸ばして、
「父親は、中国にいくと言ってましたが、それを実行するかは分かりません。その場合、再び行動が必要になりますし、見守っていきたいと思います」
お父さんはお茶を飲み、
「……俺は頭が固い。知ったら何をするか分からん。だから……助かった」
広瀬さんはお父さんを見て、
「大切な娘さんのことですから、当然だと思います。ただ、もうお父さんを悲しませるようなことはないと思います。あっても俺が対応します」
まっすぐに私たち家族をみて説明してくれる広瀬さんを見て、私は心の奥底から安心していた。
そして家族みんなを見て、
「……私ね、広瀬さんのことが好きになったから、お付き合いすることにしたの」
「そうか。それは良かった」
「うほほほほほほ、菜穂ちゃんやったねえ」
しんみりと「良かった」と言うお母さんとお父さんを横目に、おばあちゃんだけが「うほほほほ」と奇声をあげて笑ってしまう。
おばあちゃんは、
「良かったねえ菜穂ちゃん。広瀬さんかっこいいねえ」
「うん。めちゃくちゃカッコイイ。私ね、お父さんと同じ。何も知りたくなくて嫌で認めたくなくて、全部に蓋して逃げようと思ってた。このままでいい、このままでなんとかなる、今のままで幸せって思ってた。でも広瀬さんがちゃんとしてくれたの」
そう言って広瀬さんを見ると、広瀬さんは少し恥ずかしそうに顔を伏せて、
「……顔から火が出る。いや、正直俺はひかるさんの準備したものを手に動いただけなんです。ここまで完璧に準備してあれば、あとは対応するのみでした」
お父さんは涙ぐみながら、
「ひかるは、海野家突然変異なんだよな。なんであいつあんなに完璧だったんだ」
私は首を振る。
「私もずっとお姉ちゃんは完璧だと思ってた。でもお姉ちゃんも人間だったんだなーって……今回分かったの」
勉強ができて法律を愛して常に冷静、人をたくさん救っていた。
誰にでも優しくて完璧な姉……そう思っていたけど、不倫して、結構身勝手に子どもを産んで、別れは漢詩。
身勝手で好き放題で、それでいて真っ直ぐで。よく分からなかったお姉ちゃんが、リアルに「人間」として見えた。
「私……ずっとお姉ちゃんみたいに完璧な母親になんてなれないと思ってたけど、私は私なりの母親になればいいって思えた。だから、お母さん、私、仁菜の母親になりたいの。仁菜の親権を私に移動させていいかな」
「……良いわよ。良いわ。良かったわね、菜穂」
お母さんはそう言って椅子から立ち上がって私を抱きしめてくれた。
私はやっと自分に自信を持てそうだと静かに思った。
「……はあ。緊張しました」
「ちゃんと言えてた。おつかれさま」
話を終えて、私は広瀬さんを送るために家から出ていた。
夏が終わりかけの夜は、空気が澄んでいて気持ちが良い。
広瀬さんは私の手を握って、ゆっくりと家から少し離れて歩いている。
どちらともなくまだ離れたくなくて、話したくて、一緒にいたくて。
広瀬さんは歩きながら、
「親権者変更は家庭裁判所に申請するのか。どこにあるんだ」
「住んでる場所で届を出すところが違うんです。私たちは立川ですね」
「そうなんだ。立川。へえ……。一緒に行こうか?」
「開いているのは平日のみ。17時までなので、立川店にいく時についでに行きます」
「そうだった。海野は立川店を担当してたな」
広瀬さんは軽く笑った。
私と広瀬さんは上司と部下だ。それでも……私はものすごく広瀬さんを好きになった。
私はクッ……と広瀬さんの手を握り、
「あの……告白してくれた時に……海野と一生一緒にいたいと思ってる男として……って言ってくれたんですか?」
「変か?」
「いいえ。変わった言い回しが気になって……」
「個人的なことに深く関わりたいと思ったから、彼氏という言葉では軽いと思った。でも結婚したい、婚約者だと俺が言うのは勝手な気がした。海野には仁菜ちゃんがいる。それなのに俺が好きだからと言って勝手に決められるわけじゃない。だから『一生一緒にいたい』と言ったんだ」
私はその優しさと気遣いが嬉しくて広瀬さんに抱きついた。
「広瀬さんが好きです」
「……俺のが絶対海野を好きだけどな」
そう言って広瀬さんは私の顔を見た。
夏が終わって秋の月夜。周りには一軒の家もなくて虫の鳴き声が静かに響く。
私たちだけを照らす街灯の下、広瀬さんは私の頬に触れた。
指先だけひやりと冷たい……でも掌まで頬に触れると温かくて大きな広瀬さんの手。
安心させるように私の頬に触れて、ゆっくりと顔を近づけてきた。
私は目を閉じる。
広瀬さんは優しく私の唇にキスをした。
触れるように優しく、それでいて甘く。
目を開くと、目の前にまっすぐに私を見る広瀬さんがいた。
広瀬さんは静かに、
「ただ、ここにいてほしい」
「……はい」
「好きなんだ」
広瀬さんは再び私の唇にキスをした。
私はそのまま広瀬さんに抱きつく。広瀬さんは私を優しく抱き寄せて、何度も私の唇にキスをしてくれた。
どうしようもなく温かくて優しくて、幸せな夜。
離れたくなくて私と広瀬さんはゆっくりと夜道を歩いた。
広瀬さんは私の手を握り、
「菜穂」
「!」
「……ふたりの時は名前で呼んでもいいか? ずっとそうしたかった」
「はい、透さん」
「! 夜で良かった、顔が熱い。やばい、コンビニに行くか」
「うちからコンビニって、めちゃくちゃ遠いんですよ。でも……歩きたいです」
私がそう言うと、広瀬さんは私の頭にキスをして、
「……歩こうか、菜穂」
「いやああああ!!」
「なんなんだよ」
私たちはお互いに名前を呼びながら、真っ暗な道を手を繋いで歩いて、たまに奇声をあげた。
うちの周りに何もなくて良かったと思ったのは、はじめてかも知れない。
甘えたいと思う人ができた。
そして、仁菜のママになる心も決めた。
明日午前休を取って、それを仁菜にちゃんと話そうと決めた。