父親と会う
「……気が重いです……でも行きます」
「大丈夫か?」
書類を広瀬さんに渡して10日後。
三人の予定が合った今日……仁菜の父親に会いにいくことになった。
広瀬さんは「俺だけで行こうか」と何度も言ってくれた。
正直そうしたい。でもそれは丸投げだと分かっている。
逃げ出したい、会いたくない、会ったら何を言うか自分が怖い。
行きたくなくてずっと眠りが浅かった。それでも私はぐっと手を握り、
「姉が、自分に何かあったら私に任せる。そう書いてました。そこまで信頼してくれたのに、ここで逃げたら駄目です」
「逃げてもいいこともある。俺があとでまとめて聞かせる」
「私は仁菜の母親だから、いないといけない。でも口を開いたら決めつけと文句ばかり言ってしまうので、横で黙ってます」
そう言うと広瀬さんは私の手を握り、
「じいさんが入院して、それからずっと海野に助けられていた。今度は俺が助けるから」
「……ありがとうございます……でもおじいさんの件は、知ってたことをやっただけです……絶対こっちのが重たい……」
「苦手なことは頼る。そう海野が言ったんだろ」
そう広瀬さんは微笑んで言った。
確かにその通りだ。私は姉を神格化しているところがある。
だからその姉の「そうじゃない部分」はきっと知りたくないのだ。
私と広瀬さんは、都内のホテルにあるラウンジに向かった。
飲食店の騒がしいところでする話でもないし……と広瀬さんが予約してくれたのだ。
到着したそこは、広い日本庭園が見える明るい個室だった。
私たちが到着すると、ほぼ同じようなタイミングで小和田正宗……仁菜の父親が現れた。
スーツを着ていて、やはり60代には見えない……かなり若く見える。
見たくない顔で心臓が痛くなるが、必死に立つ。
広瀬さんが一歩前に出て、
「電話した広瀬透です」
「小和田正宗です」
「海野菜穂さんとお付き合いをしていて、仁菜ちゃんを共同養育をする予定なので、本日は僕のほうがメインでお話をさせていただきます」
「……はい」
小和田さんは私のほうを見た。
私はシンプルに、
「海野菜穂です」
と言って頭を下げた。
そして広瀬さんの隣に座った。
飲み物が届いて、すぐに広瀬さんは書類を広げて、
「回りくどい挨拶はやめて、内容の確認に入ります。シンプルに疑問なのですが……なぜ親権放棄合意書まで記入をしたうえで、海野の家の居酒屋に行ったり、仁菜ちゃんの発表会に顔を出したりするんですか?」
「……親権がなくても、気になるから……どうしても見に行ってしまうんだ」
「それを保護者が拒否していても……ですか」
「親権がなくても、俺は生物上の父親で、ひかるが死んだ今、俺が仁菜の面倒をみるべきだ」
ひかる。仁菜。
ふたりの名前を呼び捨てで呼ばれるだけで嫌で嫌で仕方がない。
しかし小和田さんは首を振り、
「……いや……間違ってると、分かってるんだ。駄目なのも、分かっている。行っちゃいけないのも分かってる。それでも……一目見たくて……気がついたら探している。ずっとネットで仁菜の名前を探してるし、あの日も気がついたらあの会場にいた」
「もうご自宅に住まわれてないんですね」
「ああ、もう10年以上前に離婚届は渡している。婚姻関係は完全に破綻してると断言できる」
「でも奥さまはそれを提出していない。奥さんは小学校の教頭先生で、この……『全国夫婦・子育て支援協会』の会長さんを務めていらっしゃいますね」
「……調べたのか。そうだ。夫婦、子育てを謳っている団体の会長が離婚するわけにいかない。だから俺は何をしても離婚されない、できないんだ」
私はそれを聞きながら「お前の家庭の事情などどうでも良い」と冷たく思う。
弱みを見せたら許されるという言葉の選び方に感じてイライラしてしまう。
小和田さんは両手で顔を包み、
「……ひかるが妊娠したと聞いて、嬉しかった。これで離婚できる、離婚してひかると共に生きよう。そう思ったら、ひかるに断られてしまった。別に結婚はしたくないと。ただ子どもは興味あるから産むわと。驚いた……俺は嫁がそういう団体にいるのもあって……そんなことはあり得ないと思っていたから」
聞いて少し笑ってしまう。
お姉ちゃんは妊娠した時に「ひょっとしてマジで文字が生まれるかも」と言っていた。
あの時は何を言ってるんだろうと思ったけど、ここにきて知っている姉が見えて私は少し安心した。
「ひかると家庭を……と一瞬でも夢見てしまったから、現実が耐えられない。だからどうして仁菜を見に行ってしまうんだ。別に親権を主張しない。遠くから見るだけ……それをゆるして貰えないだろうか」
そう言って小和田さんは私の方をみた。
私は「それが姉の意志に反してるんだ」と叫んでしまいそうになり、ただ首を振ることしかできない。
広瀬さんは、クリアファイルに入った何かを取り出した。
「これは封筒に一緒に入っていたものです」
「……なんですか、これは」
「小和田さんの娘さん、加奈子さんが妊娠中の海野ひかるさんにつきまとい、店内にあったガラスケースを破壊しました。幸いひかるさんにも加奈子さんにも怪我なかったです」
「……全く知らなかった」
「その時のショーケースを、ひかるさんが全額弁償しています。その時の領収書と、その日何があったのか、細かく記されたものです。警察に行ってひかるさんと話して示談、その事実を隠しているのはどうやら奥さまのようです」
「……しそうなことだ……」
「あなたは、何かひとつでもこの事実を知っていますか? また知ろうとしましたか? ひかるさんに縋り、逃げていただけでは?」
小和田さんは首を振り、
「俺は離婚の意思をずっと伝えているし、家を出ている。あの家は俺の居場所じゃないんだ。俺にはもうひかるしかいない。でももうそのひかるもいない。俺にはもう仁菜しかいないんだ。だって俺は仁菜の血が繋がった父親なんだ」
そう言って小和田さんは私を見た。
私は「それが姉の意志に反してるんだ」と叫んでしまいそうになり、ただ首を振ることしかできない。
広瀬さんは、
「……さっきから何度も血が繋がった父親と言ってますね」
と静かに言った。
そして背筋を伸ばして、
「血が繋がっていても、子どもを全くみない父親も、母親もいます。すること全てで、存在するだけで子どもを傷つけるような人たちは存在します」
私はその言葉を聞いて、これは広瀬さんの話だ……と心配になり、顔を上げて横を見る。
広瀬さんは真っ直ぐに小和田さんを見て、
「それでも俺には、あんなのどうでもいいから家に居ろと言ってくれるじいさんがいた。朝ご飯を作って忘れ物がないか声をかけてくれて、玄関まで見送ってくれる。そしてゴミ出ししながら道路まで見送ってくれる。夜は晩ご飯を一緒に囲んで、今日一番ムカついたことは何だと聞いてくれるじいさんがいた」
そう言って私のほう見て、
「海野は、俺たちが隣家というだけで、ご飯を食べさせてくれて、介護のアイデアを出して、一緒に前を見てくれる。父親じゃない、母親でもない、でもそういうことをしてくれる人たちが親だと俺は思う。俺はこれからそういう人になりたい」
広瀬さんがそんな風に私を見ていてくれたなんて……。
まっすぐな言葉に涙が止まらなくてただ涙を流す。
広瀬さんは小和田さんに視線を戻して、
「あなたは父親なんかじゃない、血だけ繋がっている他人だ。何もしていないのに血だけで父親だという思考を持ち、それを俺たちに伝えるような人に、仁菜ちゃんを近づけさせたくない」
広瀬さんが言うのを、小和田さんは静かに聞いていた。
そしてカクン……と首を落として項垂れて、
「……そう言われると、俺は……」
そう言って黙った。
そして俯いたまま、
「……ずっと親では、ないな。俺は……何か見えたら逃げて感じたら逃げて……結局だって何もできないんだ……だから……」
やがて顔を上げて、
「ダメだ、俺はダメなんだ。離婚できない、ひかるも居ない、誰も俺を見ない。もう仁菜しかいない。このまま電車で行けるところに仁菜がいたら、足が止められない。でも俺が父親ではないことは分かってる……何もしてきてない……でもダメなんだ……俺は弱い……」
そして黙り込んだ。
広瀬さんは小和田さんを真っ直ぐに見て、
「弱さを言い訳に、逃げた先で人を全て傷付けていますね。同じように仁菜ちゃんを傷付けますか?」
小和田さんは首を振り、
「……そうだな。その通りだ。でも無理なんだ。だから俺は中国にいくよ。向こうの大学で客員教授として呼ばれてるんだ。仁菜を遠くからでも見られればと思っていたが……俺は毒でしかない。やっと分かった。俺は俺を止められない。俺は弱い、俺はダメなんだ、逃げたい。俺はおろかで……すまなかった」
そう言って小和田さんは、私たちに向かって頭を下げた。
広瀬さんは、
「漢詩についても少し調べさせていただきました。素晴らしい経歴を残されているので、そちらのほうで活躍されると良いと思います。これは出産前にひかるさんが展示会で出された漢詩です。問い合わせたら本体を送ってくださいました」
そう言って広瀬さんはクリアファイルに入った紙を小和田さんに渡した。
調べてた時に「少し待ってくれ」って何かしたのは知ってたけど。
広瀬さんが取り寄せてくれた物には、私には全く読めない崩した漢字が並んでいた。
それを見た小和田さんは泣き崩れて、
「……ひかる……俺は……」
「しっかり決められてたように読めますね」
読める……?
私には全く読めないものだけど……。
広瀬さんは私の目の前に持って来て、
「漢詩は、普通に俺たちが知っている漢字が並んでいるだけだ。だから意味は分かる。江流不返 旧愛不存 曾為真実 今為虚空。川が還らぬように、旧き愛はもう存在しない。かつては真実であったが、今はただの虚ろ。そういう意味だろう」
それは恐ろしいほど美しい文字で、お姉ちゃんの意志をハッキリと残していた。
小和田さんはそれを見て、目からボロボロと涙を落として、
「それを、それだけは、貰えないだろうか、ひかる最後の文字を」
「あなたは最初持っていたのに、自らの弱さゆえに失ったんですよ。もう二度と手元には戻らない」
「うう……」
小和田さんはその場で俯いて泣き始めた。
広瀬さんは机の上のものを封筒に戻して、私のほうを見た。
「家に帰ろうか」
「……はい」
私たちは小和田さんを残して個室から出た。
気が重くて泣きそうで、今日が怖かった。
それでもこんなに鮮やかに……しっかりと向き合ってくれる人が私の横にいる。
私は広瀬さんの手を引っ張って、
「……広瀬さん、ありがとうございます」
「……緊張した」
そう言って広瀬さんはくしゃりと笑顔を見せてネクタイを緩めた。
私は広瀬さんに思いっきり抱きついた。この人に出会えて本当に良かった。