事実
「海野が好きだ」
そう広瀬さんが言ってくれた時、顔が燃えるように熱くなった。
色々ぐるぐると考えていたけど、やっぱり広瀬さんと一緒にいたい、そう思った。
広瀬さんに引き寄せられて、抱きしめられた。
電車の中でずっと目の前にあった大きな体。
真ん中に入って抱きしめられると涙が出た。
仁菜と家族がいればそれでいい。
そう思っていたけれど、広瀬さんに抱きついたらものすごく安心した。
背中に回された大きな腕、私を抱きしめても余りある身長、そしてコロンの香り。
好きな人と指を絡ませて歩く時間が、こんなに幸せだということを忘れていた。
でもその先で見たのは……あの男だった。
「……どうしても会いたくて……」
五年前。
姉は妊娠後期になると弁護士の仕事を一時中断して、実家の居酒屋を手伝っていた。
その時、うちの居酒屋の入り口に立っていたのは、冴えない年配の男だった。
姉は一瞬で顔色を変えて立ち上がり「ごめん、お母さん、あれ父親。来ないように言ったのに」と男を店外に出した。
お母さんは大慌てで塩を撒き、姉は夜遅くまで帰ってこなかった。
そして数日後、封筒を持ってきた。
「これ、親権放棄合意書。法的な書類ではないけど、父親に書かせた」
姉は封筒を机の上に置いて、
「もう二度と会いたくないから作ってきた。かなり絞ったからもう来ないと思う」
そう言ってそれを引き出しに入れた。
私は、
「あの人の名前とか……全部そこに書いてあるってこと?」
「全部書いてある。そもそも私が単独で産むから、単独親権で親権放棄もへったくれもないけどね。基本的に必要ないけど、私が自転車で走ってる時に車でぶっ飛ばされるかもしれないし」
「お姉ちゃん!!」
「法律ってのは、不可抗力の何かがあったときに使える力よ。それを考えて作っておくのは当然のこと。まあ使わないと思うけど一応ね」
そう言って姉は笑った。
姉は弁護士だったから、こういう書類を作るのは慣れていた。
あの男……かなり年配に見えたけど……あそこに書いてると思ったら、ちょっと知りたいような……。
姉は鏡のように冷たく平らな部分に指紋を登録した。
「よし。これで私と菜穂しかこの鍵は開かない。ふたりだけの秘密ね」
「指紋の鍵。厳重管理だ」
「私が父親で、菜穂は母親よ。だから菜穂は知る権利がある。でもお母さんはダメ、絶対だめ、お父さんもおばあちゃんもダメ。絶対要らない想像をして、面倒なことになる。正直そういう相手」
知ったら絶対要らない想像をして、面倒なことになるような人が相手なんだ……。
姉は静かに、
「人は一欠片の情報で全部知った気になる生き物よ。全体なんて本人たち以外誰にも分からないのに。それでも過剰に反応して人を攻撃する。正義側に立った気になるのが一番気持ち良いからね。だからこの世界には法律があり弁護士が存在するの。感情抜きに物事に向き合うのには才能が必要」
「……そんな才能私にあるかな」
「菜穂は大丈夫よ。菜穂は自分がひとりだって知っている」
「……?」
「この世界には知らないほうが幸せに生きていけることが間違いなくある。分かるのは私が産む子ってことだけ。それでいいでしょう」
そう言って姉は引き出しに鍵をぶら下げた。
当然興味はあるけど……確かに知っても知らなくても、お姉ちゃんの子という事実は変わらない。
それだけ考えようと思って、引き出しを一度も開けていなかった。
それでずっと何の問題もなかったのに。
発表会の次の日。
私と広瀬さんは、広瀬さんのマンションで話をすることに決めた。
発表会のあとは子ども達が主役。打ち上げがあり、みんなでご飯を食べた。
おじいさんも一緒に食べられて……本当に楽しい会だった。
姉の話をしたかったけど、私は両親に「また父親が現れた」なんて絶対言えない。
彩音さんも、おじいさんに聞かれたくない。
そうなると、広瀬さんとこっそり話せる場所がない……ということに気がついた。
だから仕事終わりに、広瀬さんのマンションで話し合うことにした。
広瀬さんは部屋に向かう階段を登りながら、
「こうなるとマンションを解約してなくて良かった……と思うな」
「誰にも聞かれたくない話をするのには、良いですね」
私も広瀬さんも今日はお迎えを家の人に頼んだ。
もう早く終わらせてしまいたい……。
私は部屋の中に入り、封筒を取り出した。
それに広瀬さんが触れる。
「開くぞ」
「はい」
私は頷いた。
姉が死んだ時に、一度ちゃんと見ようと思って手を伸ばしたけど……あまりの分厚さに怖くなって止めた。
だから5年ぶりに開かれる封筒になる。
広瀬さんは中から書類を出して目を丸くする。
「……字がすごいな」
「姉は文字が大好きで、自分の書いた文字を読むのも好きな人でしたね」
最初に入っていたのは姉が残した『中に何が入っているのか』を示した手書きのものだった。
それはとんでもなく美しい楷書体で書かれていて、姉らしい……と思ってしまう。
まず『親権放棄合意書』が出てきた。
そこには『本件子に関して親権を行使しないことを約束します』『私は、母親 海野ひかるが本件子の唯一の親権者であることを尊重します』……と書いてあり、姉と男と思われる人の直筆名と印鑑が押してあった。
広瀬さんはそれを見ながら、
「ここ……『母親に万一の事態が生じた場合は、妹 海野菜穂 が本件子の監護責任を引き継ぐことを合意します』ってしっかり書いてある」
私はそれを見て、
「……姉がここまでしっかり書いていたと知りませんでした。私は一度も開かなかったので。でも姉は産む前に私に『母親になってほしい』と言ったんです。だから書いておいたんだと思いますけど……」
私は俯く。
こんなの姉は自分が急死することを予言していたみたいだ。
なんだか悲しくて苦しくて仕方がない。
広瀬さんは私の背中を撫でながら、
「不可抗力の何かがあったときに使えるように残してくれたものだろ。しっかり今使える。それが正しい姿だ」
「……はい」
私は冷静な広瀬さんの言葉をただ聞いた。
そして「やっぱり私ひとりで見なくて良かった……」と思っていた。
どうしても冷静では居られない。
まだたくさん入っていた書類を、広瀬さんはどんどん見ていく。
私はもう怖くて、目を伏せて封筒の角をじっと見ていると、広瀬さんが手を止めた。
「海野、お姉さんの出身校は」
「立川南高校です」
「そこの教師だな」
「?!」
私の心臓が跳ねる。
『知ったら絶対要らない想像をして、面倒なことになるような人』
姉が言っていた言葉が脳裏に蘇る。
こんなの……こんなの……本当にそうだ。絶対お母さんにもお父さんにも誰にも言えない。
私は暴れる心臓を押さえながら、置かれた書類と写真を見る。
「図書部顧問……そうだ……そうでしたね、姉は図書部に入ってました。ええ……ちょっと待ってください。高校時代から付き合ってたってことですか?」
私がそう言うと広瀬さんは私の腕をグッと握り、
「これに載っているのは仁菜ちゃんの父親の情報だ。ひかるさんが高校時代に誰と付き合っていたかは必要ない。それにひかるさんが出産したのは成人してから。その事実しか要らない」
そうだ。姉が出産したのは高校を出て、大学も出て、就職して数年経ってからだ。
ただこの男が、姉がいた図書部の顧問だった……それだけだ。
私は大きく息を吸い込んで、
「……姉は『人は一欠片の情報で全部知った気になる生き物で、全体なんて本人たち以外誰にも分からない』って……言ってました」
「冷静だな。本当にそうだと思う。この事実を知ったら誰だってそう考える。でも冷静になれば分かる。産んだのは、高校生の時ではない。その事実だけ、まず飲み込もう」
広瀬さんは私の腕を掴んで静かに言う。
そうだ。これがまさに先入観。
私は暴れる心臓を服の上から押さえつけるようにして息を吐いた。
それでも……それでも……。
すると机の上に置いていたスマホに彩音さんから連絡が入った。
「……仁菜の名前をネットに書いていた人が消してくれたみたいです……」
今回からダンス教室の発表会告知をSNSにも出した。
ダンス教室側は個人情報に配慮した形だったけど、その記事を引用するような形で、参加者のママがみんなの名前を書いてしまっていたのだ。
男はそれを見て会場に来た……そうとしか思えない。
彩音さんにそれを言って消してもらったけど……。
正直子どもの情報をどこまでSNSに載せるのかは価値観の違いだから難しい。
彩音さんも教師で、生徒の親御さんがしたことだから、これ以上強くは言えないだろう。
でも私は「今後は仁菜の名前と写真はやめてほしい」とお願いした。
私は何度も首を振り、
「……すぐに見つけてくるなんて……変じゃないですか。SNSを、ずっと仁菜の名前で検索していたってことだと思うんです。そんな執着する男が……って思うと……高校時代から付き合ってたんじゃないかって……妄想してしまうんです。ダメだ、全然ダメです」
私は嘆いた。
すると私の肩を広瀬さんがグッ……と抱き、
「だから俺がいる。大丈夫だから」
そう言って淡々と書類を見ていく。
男の名前は小和田正宗。現在60才。仁菜が5才だから55才の時の子どもになる。
広瀬さんが小和田さんの名前を調べると、もう高校は定年退職していた。
しかし図書部の頃の写真や書類がアップされていた。
そのうちの一枚に目がとまった。書道を長くしているようで、書道展での入選経験もあるようだ。
広瀬さんが小和田さんが持っている紙を拡大した。
そして、
「……そっくりだな」
「……何がですか?」
「文字が。どうやら書道部の顧問もしていたようだ」
それで私は思い出した。
「そうだ、お姉ちゃん書道部にも入ってました。何より……そうだ、中学までは字がそこまで上手じゃなかったんですよね。高校に入ってから急激に上手になった。書いてる時間が増えたのも高校からだったかも知れません」
姉はずっとただ文字を読んでいた。
そして高校になって突然自分でも書き始めたんだ。
書道セットを買って楽しそうに。
確かに……その小和田さんが書いた文字と、今手元にある姉の文字はよく似ていた。
広瀬さんは静かに、
「この人の文字が好きだったのかも知れないな」
そんなのあまりに姉らしくて納得してしまう。
その後も広瀬さんは淡々と作業を進めた。
そしてマンションを出る時には小和田さんに電話して、会う日を決めてくれた。
話し方も対応もすべて冷静で……私はその後ろ姿を見て、どうしようもなく安堵していた。
そして姉が言った言葉を思い出していた。
「菜穂は大丈夫よ。菜穂は自分がひとりだって知っている」。
あの言葉の意味……あの時は全然分からなかった。
でも今なら分かる。
でもきっと、私はできない事はしない、封印したまま、私自身が頼れる人を探すだろうと分かっていたんだ。
その人が今、目の前にいることが嬉しい。
私は広瀬さんが伸ばしてくれた手をキュッ……と握り、一緒に歩き始めた。