すっぴん、部屋着、そして上司
「菜穂ちゃん、おじいちゃんだいじょうぶ?」
「リュウくんー。びっくりしたね、遊んでたのにごめんね。おじいちゃん病院で検査してるからね、大丈夫だからね」
「おじいちゃん痛いって泣いてた?」
「泣いてないけど、痛そうだったよ。でもおじさん……、えっと……透おじさん……が来てくれたから、大丈夫だと思う」
「とーるくんね。よかったー。おじいちゃんきっと病院で泣いてるよー」
とーるくんとリュウくんが言ったのを聞いて、どうやら本当に身内なんだ……と思う。
よく考えたらリュウくんの苗字は「広瀬」だけど、広瀬は結構多い苗字だし。
私が「そうだったのか……」と思っていたら、お母さんが手をタオルで拭きながら来て、
「菜穂、大変やったね。おじいちゃん、どういう状況だったの?」
「私が見た時には脚立から落ちて動けなくなっていた」
「彩音さんダンスでお仕事でしょ。福岡だっけ?」
「そう。大抜擢で気合い入ってたよ。さっき連絡した」
彩音さんは近所のダンス教室で教師をしていて、ダンス歴は20年以上。
子どもからおばあちゃんまで幅広くヒップホップダンスを教えている。
仁菜も彩音さんにダンスを教えてもらって、リュウくんと一緒に楽しそうに通っている。
リュウくんがこども園に入って落ち着いた頃から本格的に個人でのダンスに復帰して、今回はじめて出産前に出ていたコンサートのバックダンサーに再び呼ばれたので、今はいない。
リュウくんを見ながら必死に練習してたことを知ってるから……と思うけど、自分の祖父が怪我したことを知らないのは辛いので、さっき状況を説明するLINEを送った。
すぐに電話がかかってきて「迷惑かけて本当にごめん! でもお兄ちゃんが来てくれたなら安心だー。月曜日にお礼させて!!」と言っていた。
私はリュウくんと仁菜が汚した部屋を軽く片付けながら、
「彩音さんのお兄さんが、私の上司だったの。広瀬透さん」
「あら偶然。そうよ、最初にご挨拶した時、兄もいるっておっしゃってた。なら安心やね」
「そうだね、来てくれて良かった」
私はそう言って二人を連れて、居酒屋の個室から出た。
ここは駅前にある両親と祖母がしている居酒屋だ。
私は正社員で働いているので、やはり断れない残業も出張もある。その時には両親と祖母が仁菜を見ている。
イレギュラーなことも多く起こる仕事と子育てを一人でするのは無理がある。
リュウくんをここに連れてきたのははじめてだけど、仁菜とリュウくんは姉弟のように仲良しで良かった。
私の自転車は仁菜しか乗れないので、二人を連れて駅前から自宅まで歩く。歩くしか選択肢がないんだけど……。
仁菜はリュウくんに向かって手を振って、
「リュウくん、こっちこっち! こっちに細いひみつの道があるの」
「仁菜。そっちは自転車入れないから。あーーリュウくん、そこは入っちゃ駄目、人の家」
「リュウくん、こっちこっちー!」
「仁菜ーーー!!」
仁菜ひとりならまだ何とかなるけど、リュウくんが一緒で、しかも暗い夜だと、ふたりの言うこと聞かない度は数倍になる。
私は「そっちは駄目」「まっすぐ歩く」「それは持たない」「そっちに行かない」「前を見て!」と叫びながらなんとか家路についた。
家に着いてスマホを確認すると、広瀬さんから着信が何件か入っていた。
でももう20時。明日は平日金曜日、会社とこども園だ。
今私がするのはふたりを風呂に入れて眠らせる、それが最優先事項だ。
カバンを置いて振り向くと、仁菜は靴だけ脱いだ状態で座り込み、トロンとした表情で、
「仁菜ねるわ」
決定事項。
私は慌てて仁菜の顔をのぞき込んで、
「あーー。疲れたね。よしもうお風呂入ろう。リュウくんも一緒にスペシャルお風呂、それなら頑張れる?」
仁菜は目だけトロンとさせた状態で、私のほうをキュインと見て、
「リュウくんも一緒にお風呂いいの?」
「そう、もううちのお風呂に一緒に入ろう、スペシャルスペシャル、ほら、庭のジョウロも持ち込んでいいよ?」
「それならはいるー。リュウくん、お風呂で遊ぼう?!」
「えっ、楽しみ!!」
ふたりが庭のオモチャを選びはじめた隙にお風呂を洗って、リュウくんが着られそうな服を探し出す。
パンツだけがない。もう短パンを直に穿かせてちゃえ!
そしてまず広瀬さんに『お風呂にふたりを入れます。自宅まで戻ったら連絡ください』と短く打った。
連絡がないと困るだろうけど、こっちに余裕がない。
お風呂にお湯がたまったので、私はふたりの服を脱がせて、私も服を脱ぎ、一緒にお風呂に入った。
まずシャワーで交互に頭を洗う。
ふたりは持ち込んだオモチャでギャーギャーと遊びはじめて、私が頭を洗っている横からお湯をかけてきて、もう無理、今日は頭洗えない。
だってふたりでうちのお風呂入ったのなんてはじめてで、興奮するのも分かる。
これはもう制御不可能。
まだ遊びたいと叫ぶふたりと一緒にお風呂から出て、私は適当に身体を拭いてパイル生地パジャマを着る。
そしてふたりを交互に拭いて、服を着るように促す。
仁菜は下着だけ着て部屋を走り回り、リュウくんに至ってはフルチンで走り回っている。
そもそも女児しか育ててない我が家に男物のパンツはお父さんのしかない。さすがに無理。
スマホを見ると広瀬さんから連絡が入っていた。
広瀬『家はどこなんだ?』
私は速攻住所をコピペして送った。
上司が優秀だと分かっているので、余計な言葉は必要がない。
住所さえ送れば分かってもらえる。もうすぐ広瀬さんがリュウくんを迎えにくる……!
なんとか捕まえて直接短パンを履かせて、Tシャツを着せた。
捕まえて髪の毛を乾かしていると、家のチャイムが鳴った。
慌てて玄関に向かうと、スーツ姿の広瀬さんが立っていた。
「海野、すまない。助かった……が、ちょっと、待ってくれ。その服装は上司として目のやり所に困る」
そう言って広瀬さんは目を逸らした。
「!」
私は自分がパイル地のミニスカートワンピース一枚だと気がついた。
髪の毛はいつも使っているモコモコ生地の布に全部突っ込んでいて当然すっぴんだ。
「! すいません、ふたりをお風呂に入れていて、一緒に出てきたのでこんな状況で」
「いやすまない。そんなことを言ってる場合ではないのは分かっているが」
私は慌てて椅子に置きっぱなしにしてあった会社の上着を羽織る。
その結果パイル地のミニワンピースの上にジャケットを羽織った妙な人ができ上がってしまった。
横に来ていたリュウくんが私を見て、
「菜穂ちゃん、それで会社いくの?」
「違う! ほらリュウくんお迎えだよ」
「とーるくんだ! とーるくん久しぶり。まあ入りなよ」
と自宅に招きいれるような仕草をした。
私はぶんぶんと首を振って、
「入らない! リュウくんもう帰るよ。寝ないと。明日もこども園だよ! 明日はケンケンパ大会あるでしょ?」
「そっかー。じゃあ仁菜ちゃん、また明日。とーるくん帰ろ?」
そう言ってリュウくんは広瀬さんに手を伸ばした。
広瀬さんは片手でリュウくんを抱っこして玄関に立った。
その会社では全く見ない子どもを抱っこしている姿が新鮮で、少しだけ驚き、それでもいつも通りしっかりしている姿勢にどこか安心する。
私は玄関に立ち、
「とりあえず仁菜を寝せます。広瀬さんはリュウくんを寝かせてください。あとでご自宅に向かいます」
「わかった。すまないな。あとで」
そう言って広瀬さんは家から出て行った。
私は玄関を閉めて上着を脱いだ。涼しくなったはずなのに全身が熱い。
こんなパイル地にミニワンピなんて、恥ずかしすぎる!