満月の夜にふたりで
「とーるくん、YouTube見せて!」
「風呂入るよ!!」
家に帰ってすぐ、彩音はリュウを引っ張ってお風呂に消えて行った。
俺は「リュウ、風呂に入ろう」と毎回同意を取っていたが「ちょっと待ってね~」というだけで動かなかった。
あの強引さが大切なのかもしれない。
俺は鞄を置いて上着をかけた。
ふたりがお風呂の間に軽く掃除するか……と昨日畳んで置きっぱなしだった洗濯物を片付け始める。
日曜日も朝から晩までリュウと仁菜ちゃんと遊んでいたので、部屋が恐ろしく汚れている。
働いていてひとり親だったら、いったいいつ部屋を掃除するのだろう……と思って、じいさんはその状態で俺たちを育ててくれていたのを思い出す。
だったら今の俺にできないはずがない。
洗濯物を片付けて、食器を洗い、ゴミを集める。
こっちのゴミの日も把握しないとダメかとスマホを取りだして確認して瓶とカンをまとめていたら、
「おじさん、牛乳ちょーだい!」
お風呂から出て来たリュウは牛乳を欲しがり、それを飲んで畳の上に転がった。
風呂から出て来た彩音は部屋を見て、
「あ、部屋掃除してくれたんだ、助かるー」
「洗濯機回すか」
「そうだね、旅行の分もあるし、回しちゃおうか。明日は朝一回回すのが限界かも」
そう言って洗濯機を回して「もうリュウを寝かしつけちゃう!」と歯磨きをして布団に連れていった。
リュウは大きな公園に連れていってもらって遊び疲れていたようで、10分程度で彩音は降りて来た。
「よし寝た! 公園連れてって正解だけど、私も疲れるのがきっつい」
「よく起きていられるな。俺は初日寝てしまった」
「まだやることあるの。コンサートの舞台裏映像。頼まれちゃって」
「ダンス頑張ってるんだな」
「そうなの。やっと呼んで貰えるところまで戻ったよ」
そう言って彩音はコンサート映像を再生してみせてくれた。
幼い頃から彩音=ダンスで、小学校低学年の頃からずっと踊っていた。
高校でもヒップホップを続けて、そのままダンス教室に就職、ずっと頑張っていたが妊娠して一度辞めた。
「呼ばれるようになったこと、教えてくれたら良かったのに」
「言えなかったんだよ。またお兄ちゃんに頼るのがイヤで」
「また?」
俺はお茶を飲んで首を傾げた。
彩音はお茶を飲みながら、
「お兄ちゃん、昔っからお母さんの代わりにご飯作って、お父さんがいないからって私と運動会走って、ダンス教室の送り迎えもしてくれたし……私やっとお兄ちゃんに頼らず生きて行けるよって結婚したら旦那アホで離婚だし……それでコンサート戻りたいから何かあったらよろしくとか、情けなくて……」
そう言って彩音は俯いた。
俺の母親は俺が小学校低学年の時に家を出て行き、別の家庭を作った。
6才年下の彩音はまだ3才だった。残った父親も数年後に家を出て行き、その後病死。
じいさんが親代わりにお金を出して生活させてくれるのだからと、家事はなるべく引き受けたし、彩音がしたいというダンスの送り迎えは積極的にした。
でも、それは俺が彩音を応援していたからで、
「そんな風に思っていたのか」
「思ってたよー。お兄ちゃん家のことと、勉強ばっか。誰かと遊びにいったり全然しない。それなのに私のダンスは応援してくれて。でも社会人になってから楽しそうだし、もうお兄ちゃんは好きなことだけしててーー! って思ってた。だから情けなくて」
そう言って彩音は唇を尖らせた。
俺は彩音を見て、
「俺は彩音のダンスを見るのが昔から好きだったし、自分が犠牲になったと思ってない。それに彩音みたいに夢があるわけでもないし。むしろ『大会に出たい』『あの曲も踊りたい!』『踊るための服が欲しい!』『留学したい!』ってしたいことが山ほどある彩音を応援できるのが楽しかった。だから好きにしろよ。その彩音を見ているほうが俺は楽しい」
俺がそう言うと、彩音は笑顔になり、
「お兄ちゃん、ありがとうーー! 私、やっと戻れてすごく嬉しいの。これからもっと頑張りたい! それで提案なんだけど。私今11時から17時までスタジオでレッスン担当してるんだけど、これからはその時間におじいちゃんのリハビリとか、病院に行くことが増えると思うの」
「それは逆に助かる」
「その分、夜のレッスンを担当したいの。実はずっとコンサートの練習とかレッスンは夜が多くて、夜動けるほうが助かるの。日中、私がおじいちゃん見るし、リュウのお迎えもご飯まではする。だから夜、リュウを見るのお願い出来ないかな」
「基本的に今日と同じくらいの時間には帰れるようにする。会社のほうにも事情を伝えたから飲み会や夜の接待は減らせる」
逆に俺は日中じいさんの対応は出来ない。
それを彩音に任せるなら、夜は俺が対応する。
そう伝えると彩音は嬉しそうに微笑み、
「……帰ってきてくれてマジで助かる。私ひとりで全部しないとダメだと思って覚悟してた」
「実は俺もだ。でもじいさんが倒れた時も海野が全部動いてくれて……それで助かったんだ」
「マジで感謝だよ~~。菜穂ちゃん。リベンジ成功じゃん……って言おうと思って、空気読めないかもって止めた」
「リベンジ?」
彩音はお茶を一口飲んで頷いて、
「菜穂ちゃん、ひかるちゃんが倒れた時に何も出来なかったことをメチャクチャ悔やんでさ、救急救命の資格みたいなの取ったんだよねー」
「ひかるって……海野の急死したお姉ちゃんか」
「そう。一緒に出かけようと思ってうちの前で車に乗ろうとした瞬間に崩れ落ちて……。私はダンス教室で緊急救命の授業受けてるから資格持ってて。でも菜穂ちゃん震えて泣いちゃってて。それをすごく悔やんでるって言ってた。だから今回はリベンジできたじゃんって思うけど、ちょっと空気読めないかも。だっておじいちゃんは入院だけど、ひかるちゃんはそのまま亡くなったし」
病院で真っ青な表情をしていた、指先を震わせていた海野を思い出す。
ひょっとして……、
「お姉さんが運ばれたのは、じいさんが運ばれた所か」
「そう、あの病院。ここら辺、あそこしかないからね」
だからあんなに辛そうだったのか。
よく考えたら分かりそうだったのに……辛い思いをさせてしまった。
彩音が仕事に集中し始めたのを見て、俺は終わった洗濯物を外に干すため、庭に向かった。
外が明るい、満月の夜だ。洗濯物を干していると、タン、タンと軽い足音が聞こえてきた。
もうこれだけで誰が来たのか分かる。
「広瀬さん、こんばんは」
「海野」
石畳を登ってきたのは両手にタッパーを持った海野だった。
「ちょうど良かったです。お父さんが明日の朝ご飯と、リュウくんのお弁当にこれを持っていけって言うので、持ってきました」
「……ありがとう」
「うちはみんな煮魚飽きてるんですけど、広瀬さんが美味しいって食べてくれるの嬉しいみたいで、また煮魚入ってます。そんなに食べさせたら飽きるよって言ってるんですけどね」
そう言って海野は大きなタッパーを俺に渡してくれた。
俺はさっき彩音と話してたことを思い出す。
辛い思いをさせてしまったのに、何も言わずに笑顔で俺に寄り添ってくれた。
俺が庭が見えるベンチに座ると、海野も横に座ってくれた。
美しい満月が空に見えて、虫の鳴き声が静かに響く。
俺は目を閉じて、上手に言えるか考えながら、
「……チンジャオロース、旨かった」
「良かったです。私も謎が解けて嬉しかったです」
「あの、さ。俺はこう……昔苦手だったものを海野と一緒に食べたり、話したりすることで、消化されるというか……何か楽になった気がして……」
「はい」
「正直俺が謝りたくて言うんだけど……じいさんが運ばれた病院、お姉さんが運ばれた所だったんだな。すまなかった、辛い思いをさせて」
海野は月を見たまま、何も言わない。
やっぱり言うべきでは無かったか……と少し思う。
すると海野は月をみたまま、
「姉は完璧な人だったんです。いつも本を読んでいて成績優秀、そのまま弁護士になったんです。私も小さい頃から、何度も姉には助けられました。仕事でもたくさんの人を助けてて感謝されて……そんな姉を尊敬してました。その人を救えなかった……という思いが、どうしても捨てられません。だって姉は妊娠中にずっと背中の痛みを訴えてました。私は肩が凝ったのかなって言って、その痛んでいる心臓を上から叩いてたことになります。私は救えた。その時点で病院につれていけば良かった、私にはできた。でも気がつかなかった。それは罪です」
「罪じゃない。知らなかったんだ」
俺がそういうと、海野は月を見たまま、
「……はじめて人に話しました」
そう言った海野の動かない表情を見て、俺は首を何度か振り、
「そんな状況だったなら、お姉さんが亡くなったあともっと仕事を減らしてやれば良かったな」
「いえ、あの時私新人で……今考えると……、一年目だから有休あんなにないですよね。ひょっとして……」
「人事に頼んで日数を増やしてもらったんだ。仕事に復帰したあとも笑顔だったけど、どんどん痩せて行って心配だったから」
俺がそう言うと海野はやっと俺の方を見て、
「……今まで気がついていませんでした。そんな優しさを貰っていたんだな……と今気がつきました。話してみるものですね」
俺たちは黙って、もうすぐ夏がくる見事な満月を見ていた。
優しくて静かな、大切な夜。




