ママ友のお兄さんが上司?! 突然始まった隣同士の子育て
「海野さん、提案書見てコメント入れておいたから、確認してください」
「あっ……はい、ありがとうございます!」
私、海野菜穂が上司の広瀬透さんから言われて個人フォルダを見ると、そこには一時間前にアップした提案書が、すでに赤文字のコメントが入った状態で置かれていた。
さっきまで会議に出てたと思うんだけど、仕事が速すぎる。
隣席の美香子がスルスルと椅子ごと寄ってきて、
「広瀬さん、実は三人いるってことないかな。だってさっきまで会議出てなかった?」
「……ちょっと私もそう思ってたところ。いつ見てこんなに打ち込んだんだろ」
「広瀬さん、カッコイイし仕事できるし、やっぱ推せる~」
そう言って美香子は、外回りに向かうために会社を出る広瀬さんを見て目を細めた。
この提案書、かなりの長さがあるけど、広瀬さんのチェックが必須だ。
正直この書類が私の所に戻ってくるのは夕方だから、続きは明日しかできないと思っていたけど、この速度はありがたい。
優秀な上司がいるからこそ、私は仕事と「ある業務」を共にこなせていると思う。
「仁菜ー! 着替えてから行くよ」
「これでいいの、これで平気なの!」
そう言って仁菜はこども園の上着を投げ捨てた。
私は会社勤めをしながら、姪っ子である仁菜を育てている。
すぐに庭に向かおうとする仁菜を捕まえて、可愛いTシャツを脱がせて、汚れが見えない黒いTシャツに着替えさせる。
仁菜はすぐに長靴を履いて出て行った。
私は玄関から、
「奥のほうに入っていかないよー!」
「リュウくんと約束したの、今日はお花あつめしようって約束したからいいの!」
「ご挨拶してからでしょー?」
「いいのー!」
私のお姉ちゃんは、未婚の状態で仁菜を産んだ。そして産後二ヶ月、心筋梗塞で突然倒れて死んでしまった。
突然のことに動揺したけど、両親や祖母と一緒に何とか仁菜を育てている。
私は会社の服を玄関に投げ捨てて部屋着に着替えて、仁菜を追ってお隣さんの庭に入って行く。
そこにリュウくんがいた。
「菜穂ちゃん、こんにちは!」
「リュウくん、こんにちは。桜の花びら、集めるの?」
「そう、今日は仁菜ちゃんとしようって約束したの。バケツにいっぱい!」
そう言ってリュウくんはプラスチックの小さなバケツを見せてくれた。
そこには水が張られていて、もう桜の花びらが何枚も入っていた。
子どもってなぜかバケツに水を入れて、そこに何かを入れたがる……謎……。
私はリュウくんに、
「ママは?」
「ママは今日からダンス!」
「そっか。そう言ってたね。おじいさんは?」
「あっちのほうでお仕事してる!」
「ありがとう。ご挨拶してくるね」
「いいよー!」
リュウくんは仁菜と桜の木のほうへ駆けていった。
隣の庭は造園会社が管理していて、植木がずらりと並ぶ広大な敷地だ。
その真ん中に住んでいるのが、リュウくんとママの彩音さん。姉の産院仲間で、今は私のママ友でもある。
彩音さんが仕事で留守のときは、おじいさんが子守りをしている。
造園会社の持ち物なので、庭に入るときは必ず声をかけるようにしているけれど、「別にかまへん」と笑ってくれるので甘えている。
私は広い庭を抜けて、リュウくんが示した「あっちのほう」を目指して歩いていくと、
「うわああああ!!」
と悲鳴が聞こえた。
えっ……。
私は慌てて悲鳴が聞こえたほうに向かって走る。
すると脚立の下に、おじいさんが倒れていた。
心臓がドクンと跳ねる。
私は慌てて近づく。
「おじいさん!」
「菜穂ちゃん……っ……」
おじいさんは私を見て一瞬安心した表情になったけど、すぐに表情を歪めた。
私はすぐにポケットからスマホを出して、
「すぐ救急車を呼びます」
おじいさんは小さく首を振って、
「救急車なんてたいそうなもんは要らん。たいしたことない、落ちただけで立てる」
と動こうとする。私はおじいさんを真っ直ぐ見て強い口調で、
「どこを痛めたか分からないのに動いちゃだめです!」
と大きな声で言った。
おじいさんは普段怒らない私の大声に驚いたのか、その場で力を抜いて横になった。
私はすぐに救急車を要請した。そして駅前の居酒屋で働いているお母さんに事情を説明、リュウくんと仁菜を迎えに来てくれるように頼んだ。
来た救急車に乗り込んだ。
「ご家族の方ですか?」
「いえ、隣家の者です」
救急車が運んでくれたのは家から最も近い緊急病院だった。
ここら辺で唯一の緊急病院で、次々に救急患者が入ってくる。
緊張したやり取りが響く緊急外来で、私は部外者でしかない。
受付の人はおじいさんに向かって、
「連絡が取れるご家族はいらっしゃいますか?」
「孫がふたりいるけど、ひとりは週明けまで帰らん。もうひとりに電話したけど、来るかどうか……」
彩音さんは今、仕事で大阪にいて月曜日の昼まで帰らない。
でも私は家族じゃないから、ここから先に入れないし、説明も聞けない。
もう一人……? が来られない場合、彩音さんに電話して戻ってきてもらうしかないとLINEを立ち上げた瞬間に男性が走り込んできた。
「じいちゃんっ……あの、広瀬源太郎が運ばれたのはここですか?!」
そう言って男性が救急外来に走り込んできた。
振り向くとそこに立っていたのは上司の広瀬透さんだった。
私は驚いて立ち上がる。
「広瀬さん?!」
「海野?! どういう状況だ?」
広瀬さんの顔を見ると私の頭の中が一瞬で仕事モードになった。
あれこれ説明しそうになるけど、今は簡潔に状況だけ伝える。
「一時間ほど前に、おじいさんが脚立から落ちて倒れているところを発見しました。救急車を呼んで搬送、ご自宅の方に何度か入らせて頂いたことがあり、財布と保険証は持ってきました。これから検査が始まるのですが、ご親族の方しか付き添い不可だったので、良かったです」
「えっ……あっ……なるほど、ありがとう。え、俺海野の携帯番号知ってたっけ、知ってるか、あれでも会社のスマホじゃないか?」
「会社のスマホをONにしておきます」
「そうだ、そうしてくれ。……すまない、動揺してるな、落ち着こう」
状況が分からなくて慌てていた広瀬さんは大きく息を吸って吐いた。
そして受付の人から受け取った紙に記入を始めた。
私は持って来た保険証や財布を渡そうとしたら、床に落としてしまった。
カードがあちこちに広がり、私は慌てて床に座り、それをかき集める。
椅子の下に落ちたカードに手を伸ばした瞬間、同じカードを取ろうとして広瀬さんの掌が私の手に触れた。
広瀬さんは落ち着かせるように私の掌をトンと撫でて、
「突然こんなことに立ち会うことになって、海野のほうが動揺してるだろう。でももう大丈夫だから」
と静かな声で目を見て言ってくれた。
私がコクンと頷くと、
「じゃああとで連絡する。海野がいてくれて助かった」
と中に入っていった。
私はへなへなと力が抜けてベンチに座り込む。
『海野のほうが動揺してるだろうに』そう言われて、顔が強ばり、指が震えていたのに気がついた。
私きっと、急に倒れたお姉ちゃんのことを思い出して、怖くなってたんだ。
だってここはお姉ちゃんが倒れた時に来た病院だ。
心臓がドクドクと脈を打って痛い。
……おじいさん、大丈夫かな……。
私は広瀬さんが入って行った扉を見て、唇を噛んだ。
でも広瀬さんが触れてくれた掌の温かさだけは残っていて、顔を上げた。