第三章:「弓、心を貫くは一矢のみ」
――井上広大の章――
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彼は、あまり喋らなかった。
必要最低限の言葉だけを選び、
多くを“射”に込める青年だった。
井上広大――蒼雷の継承者。
かつて五虎のひとり、**森下翔太(蒼虎)**が担った“遊撃の弓”の後継と呼ばれる男。
その放つ矢は、真っ直ぐで、静かで、そして重い。
ただ一つ、彼の弓には“迷い”があった。
それは――「撃ってよい相手か、否か」
広大の師、森下翔太は常にこう言っていた。
「敵を討つための矢じゃない。“意味”を撃ち抜け。
迷ったら、撃つな。見極めてからにしろ」
だから彼は、迷い続けていた。
その矢を“いつ放てばいいか”、誰よりも慎重に考える男だった。
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虎暦三十一年・春。
東の小国“斑川”にて、
かつての燕連邦の残党が傭兵となって村を襲撃しているとの報が入る。
彼らは燕の正規兵ではなく、脱走者。
だが、戦法だけは残されていた――暗殺と速撃、奇襲の術。
村人の多くが怯え、討伐隊は出せぬまま、事態は放置されていた。
その状況に、広大は一人で応じた。
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「待て、単独出撃は危険だ。敵の正体が曖昧すぎる」
そう止める者に、広大は短く答えた。
「……だから、俺が行く」
彼は、戦うためではなく、
“見極めるため”に出向いたのだ。
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村に到着すると、広大はすぐに偽装し、農夫の姿で中に潜った。
夜になると、確かに“矢”が飛ぶ音がする。
民の背に、壁に、屋根に、誰かが狙っている。
だが奇妙なことに、誰も死なない。
全員が“かすり傷”や“驚き”で済んでいた。
「……撃っていないのか。……あいつらも」
それは、かつて森下がやっていた「脅しの矢」だった。
警告であり、対話の代わり。
敵もまた、“撃つかどうか”を迷っていた。
その夜、広大は高台に登った。
そして――敵の影が、向こうに立つ。
覆面の男が、短い弓を引きながら問うた。
「お前も、“撃つ意味”を探しているのか?」
広大は、静かに弓を引き絞りながら答える。
「いいや。俺は、いま撃つと決めた。
この一矢が、“その迷い”を断つって、信じてるから」
放たれた矢は、風の中で音を殺し、
敵の弦を撃ち落とした。
殺さず、止める矢――
相手は静かに、弓を地に置いた。
「……お前、あいつの継承者だな。蒼虎の」
広大は頷かない。ただ、弓を収めた。
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数日後、村には矢の音が止んだ。
兵も民も、戦わずして解決されたという事実に、驚く者もいた。
「なぜ殺さなかったのか」と問う者に、広大はただ言った。
「師に言われたんだ。“心を撃ち抜け”って」
「じゃあ、お前は心を撃ち抜いたのか?」
広大は、ほんの少し笑った。
「俺が撃ったのは、自分の迷いだよ」
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それ以来、王国ではこう呼ばれるようになる。
「蒼雷の弓将」――井上広大。
彼の矢は、今も戦場で飛ぶ。
ただし、それは敵を撃つためではない。
心を、射るために。
そして、物語は次の継承者へ。
かつて戦場を駆け、雷のごとく吼えたあの男の魂を、
新たに受け継ぐ者が、拳を固めていた。