第五話 魔女の願い
よく晴れた夏の日。ヨハンが「暑いね〜」と言いながら、ホットコーヒーを啜る。矛盾した光景のように思えるが、ヨハンはアイスコーヒーをあまり好まない。人間とは不思議な生き物だな、と、こういうときマリーはつくづく思う。
曇り空が続いていたので、マリーは洗濯でも干して、庭で自分の充電をしようかと考えていた。
ヨハンの食事の片付けをして、洗濯物を外に持っていき、庭にある井戸から水を汲み、ごしごしと板にこする。この洗濯板は人間の叡智だ、と、マリーは思っている。ヨハンとマリーの二人暮らし、しかも一方は機械人形なので、洗濯の頻度は他の人に比べてよっぽど少ないが、マリーは洗濯するのを実は気に入っていた。
全てのシャツを洗い終え、いざ干そうというそのとき、遠くから人影が二人やってくるのが見えた。今日の来訪者の予定はない。手紙が今日届いた可能性もあると思ってポストを見たが、空っぽだった。——つまりは、魔女か、操られた人間か。
洗濯を放り出して、マリーはヨハンの元へ行く。もうすっかり冷たくなって、ホットコーヒーとは到底言えなくなった黒い液体を、ヨハンはまだ美味しそうに飲んでいた。しかし、そのマリーの焦ったような様子から察したのか、自室へと入り鍵を閉めた。
再び庭へ出て、何事もなかったかのような素振りで洗濯物を干しつつも、視線は二人組に向いていた。だんだんと近づいてくる。シルエットが見えてきた。黒髪のロングヘアと、明るい茶髪のセミロング。茶髪の方は無造作に跳ねている。
マリーにはこの二人に見覚えがあった。ようやく張り詰めていた意識を緩めて、少し離れていたが、マリーは声をかけた。
「ノーラ様、リリーさん!」
二人はその声に気づくと、茶髪の方が笑って手を上げた。
「ご連絡もせず来てしまい、申し訳ございません」
黒髪のリリーが、丁寧にお辞儀をする。
「いや、いいんだリリー。どうせノーラが面倒くさがったんだろう?」
「別にいいだろー、こうしてマリーが気づいてくれたんだしさ」
珍しく苦言を呈すヨハンに、軽くいなすノーラ。そして、ノーラを注意したのは、ノーラの所有しているメイド型機械人形・リリーだ。
ヨハンとノーラは、もうかなりの付き合いになる。マリーが作られたのが10年前。ヨハンが本格的に仕事をするようになったのが、8年前。そして、初めて他の人のために、マリーと同じ人間のような機械人形を作ったのが、7年前。その7年前の客が、ノーラだった。
「うちに来る前に、普通の機械人形に見つかったら……」
「あたしもそんなバカじゃないよ。機械人形がいない道なんて、何年も生きてりゃわかるもんよ」
マリーは、ノーラに冷たいレモンティーを用意した。1年に1回くらいは顔を見せるので、好みはもう覚えている。
ノーラがさらりと口にしたように、彼女は魔女だ。しかし、普通の魔女とは違う。魔法は使わない、と決めていて、人間と同じようにくらしている。
ノーラがやってくるのは、リリーの点検のときと、自分の魔力をマリーに吸引してもらうときだ。どうせあっても使わないから、とノーラは言うが、ノーラが初めてこの家を訪れた時のことを思うと、きっとそれだけが理由なのではないのだろうと、密かにマリーは思っていた。彼女がぼろぼろの見た目で、泣き腫らした目で、縋るように転がり込んできた日のこと。マリーは鮮明に覚えている。
「本日はどうされますか? 魔力吸引と、リリーさんの点検と……」
「ああ、そうそう。それもなんだけど、ヨハンに一つ頼みたいことがあって。まあでも、とりあえず先にそれを終わらせてもらおうかな」
ノーラがヨハンに頼み事をするのは、それこそ機械人形の依頼をした時から初めてのことだった。疑問に思いつつも、とにかくマリーは自分の仕事が最優先であると、誰にも聞こえないよう小さく息を吐いて、邪念を打ち消した。
「かしこまりました。それでは、マスターはリリーさんの点検を。その間に私は、ノーラ様の魔力吸引を行います」
「了解。リリー、こっちへおいで」
ヨハンはリリーを自室へと誘い、マリーはそのままリビングで、ノーラと向き合った。ノーラの腹部に優しく手を当て、「少し押しますね」と告げる。ノーラは緊張している自分を隠すように深く深呼吸をして、「さ、いつでもどうぞ」と言った。マリーがぐ、と手をノーラの腹に押し込む。すると、マリーの腕を金色の光が伝っていき、心臓部へ光が吸い込まれていく。
「……ふう。何度やっても慣れないね」
ノーラは少しぐったりとした様子だった。無理も無い。魔力は、魔女の生きるエネルギーのようなものだ。
「少し休みますか? 2階の居室に、客人用のベッドがありますが。ちょうど今日シーツを替えたところで」
「いいや、大丈夫だ。それより、ヨハンと話がしたい」
マリーはその頑固さに、少しの違和感と、なぜか心がざわざわするような感覚がした。
ヨハンがリリーの点検を終えたようで、部屋から出てきた。特段様子の変わったところはないが、つまりは今年も問題なく作動しているということだろう。それを見て安堵したのか、ノーラは先ほどよりは少し元気を取り戻しているようだった。
「そっちは大丈夫だったかい? マリー」
「はい。問題なく。少しお疲れのようですが」
「大丈夫大丈夫。リリーのこと、ありがとう」
ノーラは大丈夫と言うが、その顔色はまだ悪い。マリーはレモンティーを少しずつ飲むように勧め、ノーラは素直に従った。さっぱりとした甘味が、ノーラの気分を少し良くしてくれる。
「さて、話なんだけど」
ノーラは、先ほどまでの奔放さを内に隠し、その代わり、真面目で真剣な顔つきをヨハンに見せた。
「実は、考えていることがあって。どうしても君の力を借りたいんだ」
「ほう。珍しいね、ノーラ」
「うるせーなあ」
気恥ずかしいのか、ノーラは頭を掻いた。もう一度レモンティーを一口飲んで、深く息を吐く。意を決したように、ノーラは話し出した。
「……実は、あたしは、精神的なケアをするための機械人形……なんていうか、その、そうだな、人の心に寄り添えるものを、作りたいんだ。あたしのためじゃなくて、他の誰かのために」
説明している間、ヨハンの目はとても優しかった。マリーはそのことに気づいていた。そして、ヨハンが今考えているであろうことも、次に何を発するかも、手に取るようにわかっていた。
「ノーラ……乗り越えたのかい。あのこと」
「……わかんないよ。だけど、リリーがそばにいてくれて、思ったんだ。こうやって人って救われていくのかもしれないって」
ノーラが初めてヨハンを頼った日のこと。ドアを激しく叩く音がして、何事かと思ってマリーが開けると、ノーラは今とは全く違う風貌で立っていた。髪はぼさぼさで、衣類は着替えることもできていないのか、もうぐしゃぐしゃに皺がついていて、絶望したかのように、悲痛さだけが残る目で、ただ無意識に、涙が頬を伝っていた。立っているのもやっとの状態で、ノーラはすぐに、その場でへたりこんでしまった。
ノーラは、魔女らしい生活を送っていたらしい。といっても、別に無闇矢鱈と人の心を変えていたわけじゃない。生活をしていくために、自分の作った服や小物雑貨を売っていたが、ちょっとその商売をやりやすくするような、そんな程度。無理やり買わせたことはないし、それに、自分の作品に本当に価値を感じてくれる人に買ってほしいと思っていた。
そんな中、彼女は、とある男性に見染められた。何度もノーラの店に足を運び、何度も愛を囁いた。他の魔女仲間たちが、恋愛で破滅していくのを知っていたノーラは、最初はつっけんどんな態度をとっていた。でも、次第に彼女の心はほぐれ、彼女も彼を愛するようになっていったのだという。
そんな中、彼の妹が自殺した。理由はわからない。だけど、それをきっかけに、彼の心はどんどん病んでいった。どれだけ声をかけても届かない日々。どれだけ支えたくても、ぼんやりとした返事が返ってくるだけで、目を離したら死んでしまうんじゃないかと、本気でノーラは恐れた。
だから、彼女は、使った。魔法を。彼の心から、妹の死を消したのだ。
それ以来、彼は元気になった。でもそれは、別人のようだった。自分が別人にしたのだ。今度は、ノーラが心を病む番だった。
どれだけ愛しているからといって、魔法を使うべきではなかった。恋愛なんて馬鹿げている、と思い続けていればよかったのに。なぜ彼を愛してしまったんだろう。なぜ、彼から大事な記憶を取り去ってしまったのだろう。そして、その彼を愛せない自分は、一体なんなのだろうか。
当時ノーラは、そうやって二人に語って聞かせたのだった。
「あたしはあの時間違えた。あんなぼろぼろになるあの人を見て、今すぐ食い止めなきゃって思ったんだ。思えば、あたしの方が耐えられなかったんだろうね。愛しているなんて言って、本当に添い遂げる覚悟なんかなかったのかもしれない」
「ノーラ、それは……」
「いいんだ、ヨハン。——いつまでも悔いているわけにはいかないだろ。もう、吹っ切れたよ。吹っ切れた。だけど、自分と同じ思いは、もう誰にもしてほしくない」
そういう彼女の声は、ほんの少しだけ震えていた。涙はもう見せまいというように、笑っていたけれど、その眉は困ったように歪んでいた。
「どうかな。あたしの力と、君のその技術があれば、できると思うんだ」
「……ああ。もちろん。君が歩き出すと決めたんだ、断る理由なんてどこにもないだろう?」
ヨハンはノーラに、静かに手を差し出した。それは、救いであり、未来を生きる力の象徴のようだった。ノーラは、こぼれた涙を誤魔化さずに、ようやく張り詰めた笑みを緩めて、ヨハンの手を握り返した。
マリーには、その瞬間は、ノーラの人生で光を放つ日になるのだろうと思った。ノーラの背負ってきたものが、ほんの少しヨハンの手に預けられた気がして、過去から一歩踏み出したことを祝福しなければ、と思いつつも、なにかヨハンが自分から離れてしまったような、そんな感覚がした。