番外 フィン・バウアーの恋心
今思えば、一目惚れだったのかもしれない。機械人形技師のヨハン様と、そのメイドのような存在であるマリーという機械人形が帰った翌日、僕はぼんやりと、彼女との出会いを思い出していた。
僕が屋敷にやってきたのは、今から4年前、僕が15歳のころだった。元々、ヴァルター様が所有している鉱山で働いていた父が、作業中不慮の事故で亡くなった。僕も一応新聞配達などで稼いでいたけど、とても母と妹を養えるようなものじゃなかった。
そこで、ヴァルター様が、僕を拾ってくれたのだ。「君のお父さんが亡くなったのは自分の責任でもあるからいつでも頼ってくれ」と、父の葬式で涙を堪えながら声をかけてくださったことは、今でも忘れない。
ただ、そんなヴァルター様には申し訳ないけど、僕には執事の才能はないみたいだった。教育係の先輩が呆れるほどに、僕は何かをしようとするとすぐにヘマをした。たくさん怒られて、心が折れそうになったこともある。だけど、母や妹のことを思うと、ここ以外で働くことは考えられなかった。それに、住み込みで衣食住には困らない。それも家計の助けになる。
執事になって3年、ようやく仕事に慣れてきたというころ、機械人形を買ったという話をヴァルター様から聞いた。「機械人形って、あの、門の前にある?」と聞くと、「そうだけど、そうじゃない」と返ってきた。そもそも、門にいる機械人形のこともよくわかっていないのに(もちろん魔女対策だってことはわかるけど)、余計にわからなくなる返事だった。
色素の薄い茶色のくるくるした癖っ毛で、そばかすのある男の人と、美しい、と言う言葉しか出てこないような、女性——いや少女? 年齢はよくわからないけど、とにかく、とにかく美人な女の子が、屋敷に来た。ただぎょっとしたのは、その女の子が大きな荷物を手に抱えて、平気そうに歩いていたことだった。
出迎えた後先輩に教えてもらってすぐわかったけど、その女の子は機械人形だった。それを知った時は、人間みたいな機械人形もいるんだな、と、門のあいつと比べながら思ったものだ。
僕は大して客人の二人と関わることはなかったけど、二人が帰った後、旦那様がいたくご機嫌だったのを覚えている。だって、その日から僕の日常は大きく変わったのだから。
「フィン、ちょっと来てくれないか」
「はい、ヴァルター様」
その二人が帰った数日後、僕はヴァルター様に呼び出された。何かやらかしたっけ、いや、ありすぎてわからないな、と、おどおどしながらそろそろとヴァルター様の後ろを着いていった。
ヴァルター様の仕事部屋へと足を踏み入れるのは、まだ片手で足りるくらいだと思う。僕は一体なにを言われるのかと緊張してびくびくしていたが、「そう怯えるな」とヴァルター様は笑った。扉を開けて、僕は息を飲んだ。
中に立っていたのは、一人の女性だった。この前見た金髪の女の子と違って、彼女は黒髪だった。感情の読めない瞳で、伏し目がちにこちらを見つめている。金髪の彼女の美しさとはまた違う、ミステリアスで、目が離せなくなるような——そう、この時点で、彼女から目が離せなかったのだ。
「彼女は先日ヨハン氏から買った機械人形だ」
「おーと、また……ですか? 彼女が? まるで人間なのに」
そこまで口にして、そういえば、金髪の彼女もそうだったと気づいた。自分の浅はかさに恥ずかしくなって、少し顔が熱くなるのを感じる。
「そうだ。彼女には屋敷の情報や仕事の内容はプログラムされているが、人間のことに関してはまだまだ未熟でね。フィン、君が教育係になってほしい」
「ぼ、僕がですか!?」
「君ほどに適切な人はいないよ。頼んだよ」
今思えば、他のみんなが忙しくて僕に回ってきたのかもしれないが、そのときヴァルター様は確かにそう言ってくれた。そして、「ああそうだ。彼女には名前がないから、何か呼びやすい名前をつけてくれ」とも。そう言うと、仕事に戻られるのか、ヴァルター様は机と向き合いだしたので、僕は彼女を連れて部屋を出ることにした。
「ええと……よ、よろしくお願いします、えっと……あ、そうだ、まだ名前がないんだっけ」
「はい。よろしくお願いいたします、フィン様」
「え、僕の名前知ってるの?」
「はい。マスターがプログラムしてくださいましたから。すでにここにいらっしゃる方の名前と顔は一致しています」
すごい、としか僕には言えなかった。それ以外に言葉を知らない。彼女は、「まずは何からすればよろしいですか?」と僕に聞いた。
「えっと、じゃあ、名前……名前を考えよう。君の名前」
「名前ですか。一応、製造番号はM-018ですが」
「そういうことじゃなくって……ほら、僕にもフィンって名前があるだろう? M-018だと、人間にとっては呼びにくいんだよ」
そういうものですか、と、彼女は相変わらず無表情で受け答えする。感情が見えないというのはやりにくい。何故僕を適任だと思ったんだろう、と、自信を失いそうになる。
「えっと、なにか好きな言葉はある? なんでもいいよ」
「私に感情はありませんので、好きな言葉も存在しません」
確かにそれはそうだ。僕はまた恥ずかしい気持ちになった。機械人形相手に恥ずかしくなるのも変かもしれないけど。
「お望みなら、一般的な名前の候補をいくつか提示します」
「そんな、それはダメだよ! 名前っていうのは、人が最初にもらうプレゼントなんだから」
これは母の受け売りだ。僕の名前は父がつけたけど、昔の神話に登場する勇者の名前で、強くて優しい子に育ってほしいっていう意味がこもっているらしい。残念ながら強くはなれないけど、優しくはあろうとしているつもりだ。
「うーん、そうだな……じゃあ、僕の好きな言葉からつけても良い?」
僕は勉強をしてこなかったから、神話だとか、小難しい単語だとかはわからない。だからこそ、素朴で、呼びやすい名前をつけられるような気がした。
「はい。わかりました」
彼女は事務的にそう返した。特に良いとも悪いとも思っていない様子で、何だかそんな人に対して、僕が命名権を握っているというのが変な気持ちだ。
「じゃあ……うーん、どうしよう」
好きな言葉、と自分で言っておいてなんだけど、ぱっと良いのが思いつかない。妹の名前はフローラで、確か花の名前から取った、って母が言っていた気がする。
花、か。
「リネルア……リネルアって花、知ってる?」
「もちろんです。リネルアは、多年生植物の一種で——」
「ああ、いや、そういうことじゃなくて」なにやらよくわからない説明が始まりそうだったので慌てて制す。
「僕、あの花が好きなんだ。僕の実家の近くにたくさん咲いていたんだけど、すごく綺麗で、風に揺れる姿が印象的で。だから、そのリネルアから取って、リーネってどうかな?」
「はい。リーネ、ですね。かしこまりました」
彼女は数秒目を閉じた。記録したのか、「私の名前はリーネと申します。よろしくお願いいたします」と、改めて美しくお辞儀をした。
「うん、リーネ。よろしくね。あと、僕のことはフィンでいいから。もっと砕けた口調で話してくれるともっと助かる」
それもまた目を閉じて記録して、「わかりました。フィン。それでは仕事に取り掛かりましょう」と、3年目の僕よりも慣れているかのようなそぶりで、廊下を歩いていった。
彼女は、僕なんかよりもよっぽど仕事ができた。むしろ、僕の失敗をカバーしてくれることの方が多いくらいだった。完璧な人間なんていないから、機械人形に取って代わられる日が近いかもなと本気で怯えるくらい、彼女は完璧だった。
でも、そんな彼女も、人の感情がわからないという点では不完全だった。お客様が来た時の対応は人ごとに違うし、それに、同僚との接し方だってそうだ。たとえば、「この人は大きな声が苦手だから、穏やかに話した方がいい」とか、「この人はせかせかしてるから、手短に済ませた方がいい」とか。そういうことを、僕は教えてあげた。
僕がミスをして先輩に怒られている時、彼女は隣で怒られてくれた。無表情だったけれど、落ち込んでいるとき、ただ無言で側にいてくれた。それだけでも救われていたけれど、いつのまにか、「大丈夫ですよ」と声をかけてくれるようになった。彼女が機械特有の冷たさを見せる時、「これはこう伝えた方がいいよ」と教えてあげると、最初は「わかりました。修正します」だった受け答えが、ふわりと笑って「ありがとう」と言ってくれるようになった。
この前、「今更だけど、リーネって名前、気に入ってる?」と恐る恐る聞いたことがあった。「私が初めてもらったプレゼントです。大事で、とても美しい響きで、私は好きです」と言ってくれた。「好き」なんてわからないと言った彼女が、確実に変わっていることを知った。
僕は、最初に感じた彼女のミステリアスさがもう薄れていることに気がついていた。最初に会った時合わなかった目が、今ではしっかり見つめ合えるようになっている。そのとき僕は、はっきり気づいた。ああ、僕は、彼女のことが好きだ。
馬鹿げている。
そう思った。相手は機械人形だ。人間を好きになったことがないわけじゃない。お付き合いをしたことはなくて、いつも片想いだけど、それでも、普通に人を好きになったことくらいある。
だけど、名前を呼ぶ声も他の人のときとは違う、表情も僕といる時だけ柔らかくて、なにもできない僕を「フィンは物知りですね」と本気で言ってくれる、そんな彼女が、心がないだなんて、僕にはどうしても思えなかった。いや、思いたくなかったのかもしれない。
心ってなんだろう、と、ずっと考えるようになった。人間と機械人形の違い。
彼女への「好き」は、今までの恋とは違って緊張や不安の中にいるんじゃなくて、安心と暖かさに満ちている。名前もいつだって呼べて、たわいのない話もできて、僕にはそんな勇気はないけれど、触れることだって出来そうな距離に立つ彼女。こんなにも近いのに、あまりにも、遠い。
誰にも相談できずにいるとき、1年ぶりに、技師のヨハン様とその機械人形が来た。そして、幸運なことに、僕は最適な相談相手として、その機械人形・マリーと話すことができた。
僕は思い切って話したつもりだったけど、彼女はばっさりと「馬鹿げています」と答えた。正直ショックだった。いや、そう言われるのはわかっていたけれど、人間より、機械人形に言われたということが、なんだかより辛かった。
「機械人形はあくまで機械ですから」
そう言う彼女は、どう見ても人間だった。どこが機械なのかわからない精巧さと、リーネよりももっとスムーズな受け答え、そして考える仕草。「人間のふり」なのかもしれないけれど、人間のふりをすることが、どうして心を持たないことにつながるのか。
「貴方にもし特別な反応をしていたとしたら、それは学習したからに過ぎません」
彼女はそう冷酷に告げた。
「私たちは感情を持ちませんが、相手の反応を見て学習し、成長することはできます。まあ……人間のように振る舞うことはできるということですね。恋をしている青年を見て、同じように振る舞うことができる。そういう機械ですよ、私たちは」
そうとどめを刺すように言われると涙が出そうで、だけど、いくら機械人形の前だからといって、男が泣くわけにはいかないと思って、その場に座り込んだ。
学習。それもそうだ。僕が、僕との接し方を教えたんだ。
そこまで考えて、ふと気づく。でも、人間だってそうじゃないか? 人間も、人に教えられてやっと言葉を話せるようになる。これは良いもの、これは悪いものって、だんだんわかるようになっていく。育つ環境によって性格が変わる。機械人形がプログラムされた存在なのだとしたら、人間だって人間にプログラムされているようなものなんじゃないか。
ああ、そうだ。
馬鹿げているって誰に言われたって、僕はもう、彼女を好きという気持ちから後戻りできないじゃないか。何かしら言い訳して、彼女に心を認めたいんだ。
誰になんと言われようと、僕の心は、彼女に惹きつけられてしまっている。それを誰が止められるんだ。
そうして僕はふっきれた。なんだか最後、勢い余ってマリーに熱く語ってしまって、あとですごく恥ずかしくなったけれど、自分の気持ちを正直に吐き出させてもらえて、すごく感謝している。それを伝えられなかったのが心残りだから、いつかまたお屋敷にやってきたら、この話ができたらいいなと思っている。
「フィン」
彼女は今日も僕の名前を呼ぶ。それは優しくて、清らかで、どこまでも澄んだ声だ。
「どうしたの、リーネ?」
僕も、出来る限り丁寧に、僕の出せる最大限柔らかい声で、彼女の名前を呼んだ。
「朝礼の時間を過ぎていますよ」
「えっ!? ほ、ほんとだ! いけない、すぐ行かないと!」
朝礼に遅れたのはしっかり怒られたけど、前ほどは落ち込まなくなった。何でこんなに失敗してしまうんだろうって思っていたけれど、「フィンは一人じゃありません。私がいますよ」とリーネが言ってくれるからかな。僕の方は相変わらずだめだめで、何も変わっていない。だけど、彼女がいたら、僕でも、全部上手くいくような気がするんだ。
「さて、今日も仕事に取り掛かろうか」
「ええ。今日のスケジュールは——……」
廊下に差す朝の光が眩しい。窓の外には、まだ蕾の状態で、リネルアが揺れていた。