第65話 day X-88 冬へ、始動
》1stフルート 河合水都
9月17日(火)、練習室。
放課後のチャイムが鳴り、部員たちが集まってくる。
いつも通りの風景。
けれど、決定的に違うことが一つだけある。
———部室が、少しだけ広い。
「引退撤回!」と桐谷先輩が叫んで北高祭の会場を沸かせたけれど、進学校である以上、現実はシビアだ。
金曜日の打ち上げの後、どうしても受験に専念しなければならない先輩たちは、静かに楽器を置いていった。
チューバの樋口先輩は、医学部を目指すために。
そして、私の大好きなフルートの佐藤香奈先輩も。
「河合ちゃんなら大丈夫! ウチのエースなんだから! ずっと応援してるよ! ガハハ!」
豪快な笑い声と共に、背中を叩いてくれる手はもういない。
フルートパートを見渡すと、二年生は全員引退してしまい、私たち一年が最上級生になってしまった。
隣の空席を見ると、胸がキュッと締め付けられる。
寂しくないと言えば、嘘になる。
でも、下を向いてはいられない。
だって、この広い部室に残ってくれた先輩たちも、こんなにたくさんいるんだから。
部長の桐谷先輩、副部長の宇佐美先輩。
サックスの柵木先輩に、パーカッションの矢部先輩。
中音を支える武田先輩、トランペットの富田先輩、トロンボーンの畔柳先輩……そして、水葉お姉ちゃん。
残ってくれたのは、約半数。
新一年生と合わせると、総勢四十名弱の「新生・ハデ北」がここにいる。
「……ホントは私も余裕があるわけじゃないんだけどね。」
私の横で、宇佐美先輩が苦笑いしながらこめかみを押さえている。
恋人の樋口先輩が引退して寂しいはずなのに、気丈に振る舞っている姿がカッコいい。
「でも、誰かが手綱を握ってないと、あの『猛獣』が何するか分からないでしょ?」
先輩の視線の先には、ホワイトボードの前で仁王立ちする桐谷先輩の姿。
ホルンパートの皆さんが「奏さん、辞めないでくれてありがとうございまーす!」と拝んでいる。
全員が着席し、独特の緊張感の中でミーティングが始まる。
まずは、新組織の発表だ。
「えっとじゃあ、部長からね! 未来ちゃん!」
「え、は、はい!? わ、私ですか!?」
名前を呼ばれた未来が、素っ頓狂な声を上げて立ち上がる。
桐谷先輩はニコッと笑って、未来の肩をバンと叩いた。
「未来ちゃんは矢北の太陽だから。あなたが笑えば、みんな走れるから。ヨロシクぅ!」
「……は、はいっ……! がんばります……!」
戸惑いながら、未来が深く礼をする。
不安そうに未来がこちらを見るけれど、全会一致の拍手が沸き起こった。
ふふ、よかった。
未来なら、大丈夫だよ。
「じゃ、副部長ね。もう分かってると思うけど、副部長、兼、金管セクションリーダー、大翔クン!」
「……はい!」
「同じく副部長、兼、木管セクションリーダー、水都ちゃん!」
私の名前が呼ばれた。
一瞬、ドクンと心臓が跳ねる。
柵木先輩が守ってくれたこの場所を、今度は私が引っ張っていく。
少し不安で視線を彷徨わせると、出入り口の脇に座っている陽くんと目が合った。
彼は優しく微笑んで、小さく頷いてくれた。
(……うん。大丈夫。)
「はい。……精一杯、務めます」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
みんな、大きな拍手で迎えてくれた。
各パートリーダーも決まり、新体制が動き出していく。
「じゃ、有純。今まで部長、お疲れさま。狩野さんに引き継ぎ、よろしくね。」
「え、私、部長、やめないよ?」
「え?」
「え?」
部室の時が止まる。
「……どういうこと?」
「うん。未来ちゃんが部長。私も、部長。」
……宇佐美先輩のこめかみに青筋が浮かんだ。
「あんたねぇ……狩野さんに部長を譲ったんでしょ? 船頭多くしてどうすんのよ。」
「えー? だって部長って一人ってルール、高文連の規約にも無いでしょ?」
「後輩たちが困るでしょ! 指示系統どうすんの!」
「じゃあさ、『シン・部長』とか、どう?」
「やめてよ! 何それ! ゴジラじゃないんだから! 街を破壊しそうで怖いわよ!」
「いーじゃない。強そうで。そんで奏も『シン・副部長』ね。」
「ゼッッタイ嫌! 何それ! 自己紹介で『シン・副部長の宇佐美です』とか言うの? 死ぬほど恥ずかしいわ! 厨二病じゃない!」
あはは、とみんなが吹き出す。
未来も涙を拭いながら笑っている。
ああ、この空気だ。
先輩たちが残ってくれて、本当によかった。
結局、宇佐美先輩の説得で「部長」は未来となり、桐谷先輩が口を尖らせている。
「ま、いっか! で、よ。」
ひとしきり笑った後、桐谷先輩(シン・部長?)が、ホワイトボードにキュッキュと太い文字を書き殴った。
『目標:アンコンで全国出場!』
「未来ちゃん、これ、どう?」
「あ……。」
桐谷先輩は未来の方を見て、挑戦的にニコッと笑う。
未来はピクッと背筋を伸ばすと、みんなの方を見る。
……みんな、静かに頷いている。
「はい。大丈夫です。」
「……また大きく出たわね。というか、何でアンタが決めるの?」
「よっし、みんな、頑張るわよ! 練習サボったら、未来ちゃんが怒るわよ!」
パコーン!
宇佐美先輩からハリセンが飛ぶ。
「ウチらは補習が始まるから、そっち優先!」と叱られ、桐谷先輩は口をとんがらせている。
———私たちの新しい季節が始まった。
アンサンブルコンテスト。
大人数ではなく、少人数で音楽を作るという、個の力が試される大会。
東海大会・吹奏楽祭・北高祭と乗り越えて、みんなの熱はまだ冷めていない。
「高橋先生の、『水の惑星への讃歌』、やろーよ!」
「えー、ガブリエリもやりたいんだけど」
「ボク、パーカッションで『マリンバコンチェルティーノ「The WAVE」』。いいカナ。」
「とりあえず、『ディベルティメント』、ちょっと合わせてみない?」
「やろーやろー!」
一気に空気が熱くなる。
みんな、やりたい曲がたくさんあるんだ。
楽譜棚に走る人、指を折ってメンバーを数える人。お祭りのような騒ぎ。
ふふ、なんか嬉しいな。
陽くんを見れば、彼もまた、騒がしいみんなを見て愛おしそうに目を細めていた。
「水都ちゃん! アタシらも組もうよ!」
声をかけてきたのは、同じフルートパートの聖良ちゃん。
「『共鳴のドライアド』、アタシ好きなんだけど! 水都ちゃんと吹きたい!」
「……うん! 私も、それ好き!」
新しい楽譜、新しいチーム。
先輩たちの想いを背負って、私たちはまた、次の音を奏で始める。
—————————
》10月15日(火)
中間テスト明けの、最初の練習日。
夕方最後の合奏は、いつもの通り『エルザの大聖堂への入場』。
陽くんはいつものように、ハーモニーのバランスに注視しながら、私たちに指示を出してくれている。
さすがに久しぶりだから、ちょっと息を吹き込めてない感じ、するなあ。
もう少し、家で吹いていれば良かったな。
「お腹から声が出なーい!」って、聖良ちゃんもブレストレーニングで、声出す度に言ってたし。
やっぱりテスト週間とはいえ、前みたいに陽くんの事務所をお借りすれば良かったかな?
———あれ?
……安藤先生だ。
練習室の入り口に、立ってる。
「……ちょっと、柵木さん。いいですか?」
「あ、はい。」
合奏の合間、安藤先生が声をかけてきた。
何か、真剣な顔をしてる。
柵木先輩が立ち上がり、安藤先生と一緒に廊下に出ていく。
……何だろう?




