第62話 9月10日 薄暮
》石上陽
「よぉし、行け行け〜〜!」
目の前でバトンを受け取った大輔がすごい勢いで走り去って行く。
みんな、最後のリレー練習で気合いが入っている。
明日からは北高祭。
最初の一日は体育祭で、残りの二日は文化祭。
体育祭では一人一つ必ず競技に出るルールになっていて、特段足が速いわけでもない人員はいわゆる「雑魚リレー」という、1チーム20人近くが半周ずつリレーする競技に出る。
でも案外、この競技が一番盛り上がるし、ポイントも高い。だったと思う。
日差しは———前より少し、鋭くは無くなったかな……。
反対のバトンゾーンに控えているみんなを見ても、運動場に映える日光が八月の時よりも柔らかい。
まだ順番は来ない。
今日何回目になるか分からないけど……昨晩もずっと見直した、大翔が助けてくれた日本書紀の翻訳を思い出す。
”舞には、傷を癒し、魂を呼び覚ます力がありました。
歪波は時を巻き戻し、願いの形を結び直すことができました。
筆は癒しの力を秘め、舞の軌跡を記すものでした。
命書は歪波を開き、命を織り直す機を与えるものでした。
そしてアメノウズメはこう定めました。
音楽を天の領域まで高め、深く人を信じ、愛する者にこそ、光筆と命書は授けられる。
命の理を織り直す者こそ、その力を継ぐにふさわしい。
音で人の心を癒し、時を越えて命を織り直す者は、
信と愛を貫く心によって、未来を開くのです———“
そして、家にある『歪波の命書』に記載された、新たな文字。
“貴殿を心より信愛する魂 三名を超えしとき 舞い降りの刻 いよいよ満ちぬ
天より信愛の光筆 兆しとともに舞い降りん
光筆は信愛を宿し 本来の道より削がれし寿命の歪波を鎮め 凪へと転じる力を持つものなり”
…………。
歪波は、転生するために必要だった?
命書は、そのチャンスを僕に与えてくれた?
僕の音楽は転生前、天を喜ばすことができていた?
僕はずっと、『歪波の命書』を「自分の命を奪う呪いがかかる、魔物のような契約書」だと思っていた。
でももし……あの日本書紀の記載が本当なら、僕の心の奥にあった「水都を助けたかった」という願いを叶えるために、誰か———アメノウズメが、くれたものだった?
僕はそれを考えた時———命書のことが初めて、気味悪い物と感じなくなった。
……そんな機会を、くれた物なら。
吹奏楽祭の演奏後、また気を失いかけた。
あの時と同じだったから、また何か、命書に記載が加わったのかと、察した。
案の定、夜に命書を開くと———
未来、
桐谷先輩、
柵木先輩、
宇佐美先輩、
安藤先生の名前が加わっていた。
新たに、五人———。
それでも、以前のような気持ちの悪さを感じることは……無かった。
『桐谷有純 過去の悔恨の昇華と、仲間との成功体験により、自己肯定感が確立 +56日』
『石上陽 -56日』
『柵木結愛 シエラ・ウインドオーケストラ入団による人生観の拡大と身体の活性 +288日』
『石上陽 -288日』
『安藤守 教育者としての自信回復と、教え子との絆の深化により、精神的幸福度が向上 +102日』
『石上陽 -102日』
……
読んでいて、初めて、嬉しいって感じたな。
『信愛の光筆』———。
それがあれば、癒しの力や、歪波の記載を凪にする力が得られるかもしれない。
まだどこにあるか見当もつかないし、見つからないかもしれない。
でも……僕と関わったことで、みんなの人生が良い方向に変わったことから起こったことなら———。
僕が何かをみんなに、手渡すことができたのなら———。
それでもいい。
そう、思えるようになった。
「おい、陽! 次だぞ!」
「あ……ごめん! 今行く!」
しまった。ボーッとしてた。
すぐ目の前まで優真が来てる!
「よし行け!」
「おう!」
はっ、はっ、はっ……。
みんなの応援の声が、聞こえる。
もうきっと、あの日まで、100日も無い。
でもこんなふうに、走り切れたら———それでいいじゃないか。
はっ、はっ、はっ……。
「陽くん!」
バトンゾーンで、笑顔で手を上げる水都。
「水都!」
「はいっ!」
バトンを受け取って、水都が懸命に走り去っていく。
———足も、不自由じゃない。
あっちの世界で申し訳なさそうに見学していた、彼女じゃない。
立ち止まる僕に対して———
前に向かっていく彼女の背中は、眩しく見えた。
* * *
》2年 1stホルン 金管セクションリーダー 宇佐美 奏
「鍵、返せた?」
「うん、オッケー。」
「ありがと。」
有純が部室の鍵を返して、職員昇降口から出てくるのを、拓海、私、結愛で出迎える。
「遅くなっちゃってごめん。拓海、塾、間に合う?」
「ああ、全然。今日は俺、2科目だから。」
「そっか。」
有純はニコッと笑って、「よっし、帰ろう!」と両手を上げて歩き始める。
……本当に元気なのか、寂しさを紛らせているのか。
多分……両方なんだろうな。
校内の坂を四人で降りて、野球場とテニスコートの間の道を歩いていく。
「あと……二日ね。部活。」
「そうね。寂しい?」
「そりゃあ、ね。」
結愛の声に、そう答える。
「でもさ、さっき先生から聞いたんだけど、ケーブルテレビのMICSで、私たちのブロックの再放送依頼が殺到してるんだって!」
「え!?」
三人で有純に聞き返す。
「それだけ、私たちの演奏が楽しかった、ってことよネ!」
「そうなんだ……。」
なんだか、嬉しいな。
「昨日の新刊の吹奏楽ジャーナルの記事も、良かったね。」
「ああ。まさか、俺たちのことを『ホクトホールの伝説』って特集、組まれてるとはな。」
「そうそう。他に代表がいるのに、ダメ金の私たちのことのほうが大きくなっててさ。」
「あれ、大丈夫なんかな?」
「はは、そうよね。」
みんなで笑い合う。
チラッとしか全文は読めなかったけど、すごい熱量の記事のようだった。
「私たち……それだけのこと、できたよね?」
「……そうさ。胸張って、いいと思うぞ?」
拓海が私に微笑む。
「石上くん、本当に最後まで助けてくれたよね。」
「ホント、そうよね。」
「……『そのために僕は、すべての準備をしてきました』……か。」
しばらく、みんなが黙る。
本当だった。嘘じゃなかった。そんなことを思いながら。
「なんで……」
うん?
「なんで、石上は矢北に来てくれたんだろうな?」
「……水都ちゃんじゃない?」
「え?」
拓海の質問に、有純が即答して、思わずびっくりする。
「え、なんで? 入学してから知り合ったって、河合さんから聞いたよ?」
「ん、なんとなーく? 前から、つながってるような? そんな感じ?」
「……そうなの?」
……そんな、直感的な。
でも……。
「でも有純、もう、石上くんのことはいいの?」
「え?」
有純がちょっとびっくりしながら、クルッと振り返る。
「……またまた〜、そういうのじゃないって!」
ハハ、と笑いながら手を振って否定する、有純。
「てゆうか、むしろ結愛だって気に入ってるんでしょ? 陽クンのこと。」
「は?」
みんなで一斉に、結愛を見る。
「ちょちょちょっと、え、どうしてそーなるの!?」
「え、だってさ、結愛に見合うのって、陽クンくらいでしょ?」
「え、な、えーと、え!?」
「そうだな。吹奏楽祭でも、背中を託し合って、通じてたしな。お似合いだぞ。」
「え、ちょっと、拓海! おいコラ!」
ギャーギャーと騒ぐ結愛。
あー、可笑しい……。
そんな痴話会話をしながら、みんなで石神橋のバス停まで歩いて行く。
だいぶ涼しい空気を感じるようになった夕方、正面から当たる夕陽は、いつもより明るく見えた。




