52話 東海大会④ アルメニアン・ダンス、開演
「あ……終わった? 課題曲、もう?」
ライターの小澤の前方、英學館高校の女子生徒が隣の生徒に呟く。
(はは、相変わらず凄いな。“劇場音楽“。)
この夏、何回も聞いたはずの課題曲『メルヘン』。
聞き飽きて当然の課題曲なのに……
さも、新曲を聴いた後のような、感覚。
レトロ・アニメのキャラクターたちが、ひょうきんなステップで次々と登場するような———そんな光景。
シーンごとに色を変える音が、それまで“矢作北”を知らない生徒たちの心を掴んで離さなかった。
特筆すべきは、その演者・石上陽。
燕尾服でも何でもない。
ただの制服を着た“ただの高校生”が振る、『意志を持った“魅せる”指揮』。
彼は、一体何なんだ……?
これまでこの舞台で振ってきた指揮者・指導者とは違う、大きな存在に見えてくる。
開演までバカにしていた他の高校生の雑音を、一気に飲み込んでしまった。
急に意図せず本物に触れた後の、驚き、喜び、戸惑い、疼き、空乏感。
“もっと、聴きたい。”
そんな静寂が、ホール客席を包んでいた。
(さァ、どうなる? アルメニアン・ダンス……。)
指揮台の陽が構える。
ステージの照明の逆光効果からなのか、彼のシルエットにコントラストが加わり、眩しく見える。
一瞬の静寂の後———
シッ!!!
『『『パパパーーーーーン!!』』』
トランペットとトロンボーンが、ホールの空気を何重もの倍音で切り裂き、その直後、木管群が一斉に波のように押し寄せる!
朝焼けの空に、一斉に花が咲いたような、鮮烈な始まり。
フルート、クラリネット、サックス、ファゴット……それぞれの音が重なり合い、まるで春の嵐のようにホールを包み込む。
低音パートがその波を支え、地鳴りのような響きが床を伝って観客の胸に届いていた。
(すごい……!)
まだ第一部の冒頭だというのに、ホール全体が共鳴していた。
音が、空間を支配していた。
(矢北、ここまで仕上げてきたか……!)
小澤は、思わず背筋を伸ばした。
彼の目に映るのは、ただの地方公立高校の演奏ではなかった。
アルメニアン・ダンス パート1の第一部、《杏の木》。
音の密度、立体感、そして何より、全員が同じ方向を向いていることが、音から伝わってくる。
クラリネットとフルートがユニゾンで旋律を奏で、そこに、テナーサックスとファゴットが繊細な対旋律を重ねる。
その関係し合っている様は、まるで息を合わせたダンサーたちのステップのようだった。
———その横で、安城ヶ丘女子の部長・佐伯玲奈は、ゾクリと感動と悪寒を同時に感じていた。
(木管が安定すれば怖くなる、なんて言ったけど……ここまで……!)
桐谷有純と河合水葉。
二人のクラリネットが織りなす旋律は、まるで一本の糸のように滑らかに絡み合い、観客の心を優しく包み込んでいく。
陽がかつて二人の“レッスン”で行った、「ロングトーンの延長のようなフレージング」が、今まさに体現されていた。
そこに、艶やかで豊な響きで入る、柵木結愛のアルトサックス・ソロ。
ミックストーンに専心する傍ら行ってきた、ソリストとしての練習。
”絶対無二のソリストに、私はなる。“
その一番のプライドと誇りを込めたフレーズが、炸裂。
観衆はたちまち魅了されていった。
その結愛を凝視する、一人の影。
嵯峨らら。
彼女は……理解できなかった。
好物を見つけたかのように、喰い入って見つめる———が、わからない。
スキルは、確かに見える。
でも、その音がどうして胸の奥を揺らすのか、わからない。
嵯峨ららは、初めての感覚に困惑し始めた。
———それを無視するかのように、盛り上がる木管群。
そして、短いタメが起こり———
『『『パパパーーーーーン!!』』』
二回目の大・ファンファーレがホールを突き抜ける。
待ってましたと言わんばかりに、木管群の轟きを浴びて恍惚な感覚を味わう観衆。
(……っ!)
その音圧のレベルの高さに、思わず、名電の影斗が眉を顰める。
音の嵐が過ぎ去った波跡を整えるかのような、フレーズのリレーが起こり、そして———
その中で、オーボエのソロが始まった。
柵木愛菜の音が、ホールに溶け込む。
かつて「音が小さい」と悩んでいた少女の音。
一日も欠かさずブレストレーニングを重ねてきた成果。
それが今や、観客の心を震わせていく。
彼女のすぐ後ろには、姉の結愛がいる。
結愛がアルトサックスで、脚光を浴びる妹に、そっと伴奏を添える。
(愛菜……)
結愛と愛菜の両親の目に、うっすらと涙が浮かぶ。
今、姉の隣で、愛菜の音が主旋律になっている。
尊敬する姉。その隣に、対等に立つ。
それは、彼女が夢見てきた場所そのものだった。
愛菜の音は、ただ美しいだけではなかった。
そこには、誰かのために吹くという、強い意志があった。
陽が彼女に託した「自信」が、音になっていた。
陽は、そっと左手を掲げる。
愛菜の音に寄り添うように、指先が空を描く。
姉妹の音が重なり、ひとつの旋律を紡ぐ。
——木の下で、姉妹が座りながら談笑している。
そんな情景が、音楽となってホールに広がっていき⸻
その足元に、花畑が咲く。
ホルンの柔らかな響き。
第二部、《ヤマウズラの歌》が、始まった。
———
遠くの丘から風が吹き抜けてくるような、穏やかで包み込むような音。
観客の耳が、自然とその音に引き寄せられていく。
先ほどまでの激しさとは打って変わって、舞台上には軽やかさが広がり、一面に花畑が広がっていく。
木管が、花畑を小鳥のように跳ねる。
フルート、クラリネット、オーボエ、サックス……それぞれが、右足、左足と交互にステップを踏むように、音を踊らせる。
「おどってる……?」
二階の家族席に座る少女、紗希が思わず口にする。
彼女の目には、音がステージ上で跳ねているように見えた。
ホルンの伴奏が、木管のダンスのステップを支える。
宇佐美奏のホルンが、舞台の中段でリズムを刻みながら、全体を優しく包み込んでいた。
奏の音が、空間に一筋の光を与えながら飛ぶ。
彼女のホルンは、ただ鳴っているだけではない。
母性にも似た愛情と、全員を支えるリーダーシップ。
副部長として仲間を支え続けてきた彼女の音が、今、舞台の中心で輝いていた。
「……このホルン、すごく自然……」
名電のホルンの女子が、隣の葛城影斗に囁いた。
影斗は頷きながら、目線を合わさずに、細める。
「宇佐美奏。矢北の副部長だ。完璧なシンコペーションの伴奏。音に芯がある。しかも、周囲を支える力もある。」
さらにそこから、美音のトランペットが軽やかなメロディーを乗せる。
彼女の音は、陽との出会いで劇的に変化した。
かつては「うるさいだけ」と言われた音が、今では舞台を彩る花のように、鮮やかに響いている。
その音を受けて、有純のクラリネットが続く。
彼女の音は風に揺れる草花のように鳴り、柔らかく、でもしっかりとした芯がある。
陽とのレッスンで得た「一音一音の意味」が、ここでも生きていた。
そこに未来のユーフォニアムの、透明なフレーズ。
音はどこか素朴で温かく、聴く人に安心感を与えている。
調和と信頼。
彼女自身を表す力強くも繊細な音が、山々にこだまする。
再び、有純のクラリネットが旋律を引き継ぎ、水都のフルートがそれに応える。
そして、愛菜のオーボエが、最後に音を繋いで合奏へ———
——音のダンスが、ひとつの“輪”になった。
(わあ……)
ダンスの輪が、観客席をも包む。
観客席が、その輪の中に入っているような、錯覚。
音楽がただ聴くものではなく、”一緒にいるもの”になっていた。
(……ステージと客席の境界が、なくなってきた……?)
火野健太郎が、静かに呟いた。
一瞬、客席の後方に視線を向ける。
……間違いない。
(こんな、こんなことが起こるものなのか……?)
彼の目には、演奏者と観客が一体となって揺れているように見えた。
奏のホルンのソロと共に、陽の指揮は、少しずつ動きを緩めていく。
音楽がこの章の終わりに向かっていることに、観客は寂しさにも似た気持ちを感じ始める。
水都のフルートが第二部の終わりに華を添え———
第三部が始まる。
———
陽の指揮が再び動き出すと、空気が締まる。
5/8拍子。
均等ではない拍の流れが、観客の感覚を少しずつ狂わせる。
低音楽器が、地を跳ねるような伴奏を奏でる。
だが、それは不快ではない。
むしろ、心地よい違和感。
その上に、アルトサックスの結愛が、鋭くも滑らかなソロを乗せる。
リズムの不安定さをむしろ武器にして、観客を引き込んでいく。
「一番の警戒箇所が、始まったな……」
舞台袖、浜松光聖の大吾が静かに呟いた。
明日の20時も更新いたします。
参考動画
アルメニアン・ダンス・パートⅠ【淀川工高・1986年全日本吹奏楽コンクール金賞】
https://www.youtube.com/watch?v=4NSFfD11EwE




