《幕間 07 未来だった過去》 遠い目標
》 2042年2月24日 ブランデンブルク州 ヴェルダー中央劇場コンサートホール
夜の練習も終盤。
陽はすでに何度か指揮棒を握り直していた。
(個人の技術も高い。音は出てる。でも———これは「音楽」じゃない……)
「ストップ!」
  
陽の鋭い声が響く。団員たちの演奏が惰性で消え、譜面台の上の楽譜がゆらりと揺れる。
「もう一度。番号Dの4小節目から。祭りの活気を——」
「活気ねぇ……祭りなんかより、俺の果樹園のほうがずっと活気に溢れてるぜ。鳥よけの爆音が鳴りっぱなしで、こっちは毎朝騒ぎだよ。」
何人かがくすくす笑う。
「私もよ。私も騒ぐ生徒たちを授業でなだめてたわ。今日は参観もあったから子供達はまさに“活気”で騒がしかったわよ。」
陽はこめかみを押さえた。
言葉を挟むべきか、迷った。
「……皆さん、別のお仕事をされながら、夜は団員としての練習、本当にありがとうございます。そんな中せっかく来てくださっていますので、何とかヴェルダー市の『花と果実の祭り』での招待演奏で、この祭りを楽しみたいという市民のみなさんの想いを尊んだ演奏を目指しましょう。時間は少ないですが、高い技術をお持ちの皆さんなら、絶対にできます。」
乾いた声だ。
陽は自分が空を掴みながら話していることを分かっていた。
「ヨウ。悪いけど、客を尊ぶ前にさ、俺たちは食って行かなきゃならないからな。音楽は人生の中心じゃないんだよ。」
「…………。」
陽は何か言おうとした。
しかしその時———
「おじさんたち終了〜!!」
勢いよく扉が開き、少年少女合唱団がなだれ込んできた。
「もう時間だから出てって!」
「こっちのほうが主役なんだから、退場〜!」
「大丈夫だよ。みんな帰りたそうな顔してるし、ちょうどいいでしょ?」
一気に子供たちの声で、ギャアギャアと現場が喧騒の場と化す。
陽は口を開いたまま、その様子を呆然と見つめる。
「じゃあ、また次の練習で。」
団員の女性はあっさりとピッコロをクリーニングしてその場を後にし、コントラバスの男性もケースを引きずるように去っていく。
陽は、それでもどうしても何か言わなければならない気がした。
「……皆さんはこの祭りを、期待以上のものにしたくはないですか?」
ホルンの男性が肩をすくめて振り向いた。
「そういうことじゃない。ただの仕事だよ。シャルズールのコンクールとは違うだろ?」
陽の指が、無意識に指揮棒を強く握り締めた。
「……確かに、そうではありますが……。」
ホルンの男性は笑った。
「お前は国際指揮者コンクールの優勝者だ。それで市長が優勝ホヤホヤのお前を常任に呼んだ。それだけで、お前の働きはジューブン。お前を見に人は集まる。祭りは大成功なんだヨ。
俺たちはヴェルダーの兼業奏者だ。無理せずいこうぜ。マ・エ・ス・ト・ロ!」
誰もそれに返答しない。
何人かは悪気のない笑みを浮かべて、劇場を後にしていく。
……合唱団の元気な声が練習室を満たしていく。
「ちょっとおじさん! 譜面台、ジャマ! 片付けて!」
「あ、ああ。ごめん。あれ、ライブリアンは?」
「誰? みんなもういないよ?」
「え? そ、そうか。ごめん、片付けるよ。」
「えー? 大人なのに片付けないで帰ってるの? 手伝ってあげるよ!」
「あ……ありがとう。優しいね。」
陽は少年たちが手伝ってくれる中、譜面台と楽譜を片付ける。
チュッシー! と子供たちが手を振ってくれ、扉が閉じる。
「…………ふぅ。」
扉の奥から賑やかな声が漏れることとは対照的に、陽が立つ廊下は、音が無い。
いや、窓の隙間から、夜の冷たい風が差し込んでいる。
譜面台に乗っている楽譜たちを見る、陽。
「あ。」
陽が固まる。
「しまった……。ラデツキーの楽譜のレンタル、今週でおしまいだったな……。」
ヴァイオリンの楽譜を一部、手に取る。
「やっぱり……。ボウイング、書き込んだまんまだ。ライブリアン……。」
周りを見渡す。
もちろん、誰もいない。
「はぁ……。僕がやるか……。」
陽は楽譜を一式集め、大きく担ぎながら、事務所の扉を開けてドサっとテーブルの上に楽譜を置く。
「どのくらい、あるかな。」
書き込みがある楽譜と無いものを振り分ける。
ある楽譜のほうが多い。
「…………やるか。」
陽はテーブル横の椅子に座り、楽譜を広げ、消しゴムで優しく擦っていく。
一つ一つ、丁寧に。
「……市民のみなさんが、来て良かったって喜んでくれる演奏、できたらいいなぁ……。」
ラデツキー行進曲の楽譜。
楽譜を指でなぞると、その指先から音楽が奏でられるように、フレーズが頭の中で広がり始める。
屋外のお祭りの会場で、手拍子を入れる聴衆。母親に向かって楽しそうに笑う子供たち。ビールを飲みながら笑うお父さんもいる。
目を閉じて指揮をする陽。
でも、目をふと開けると……そこには、ただの四角い夜の風景が見える。
「…………。」
陽は、スマホを取り出して、傍に立てる。
流れてくる映像は、大佐渡がベルリンフィルで演奏した、ショスタコ交響曲第5番4楽章。
大佐渡は舞うように、聴衆と一体となった音楽を演じている。
「……いいなぁ。大佐渡さん。いつか僕も、こんなふうにオケと聴衆と一体となった音楽を……。」
———手が止まっていることに気付き、再び作業を始める。
手が、かじかんでいる。
「寒いな。暖房は……光熱費がかさむな。やめておくか……。」
陽はもう一枚コートを羽織り、ハアッと手を温めて擦り合わせる。
「まだ、2月は冷たいなぁ…………。」
 




