2話 2024年4月8日 朝 入学式前の出会い
「おはよう! 水都! やったね! 同じクラス!」
「おはよう、未来。嬉しい。ここでもよろしくね。席も、前と後ろ、だね。」
翔西中吹奏楽部で一緒だった、未来が話しかけてくる。
愛知県立矢作北高校は、岡崎市内では上から二番目のランクの進学校ということもあり、中学の頃とは違って、見るからに賢そうな男子女子がたくさんいる。
教室には入学式前ということで、玄関前に貼られたクラス表を見た生徒たちが一人、また一人と緊張した面持ちで入ってくる。
そんな中、気心の知れた同中の友達がいたのは、本当に嬉しい。未来がニコニコしているだけで、緊張が和らいでいく。同じクラス、同じ前後の席———それだけで、今日はきっといい日になる気がする。
私の前の机に荷物を乗せ、未来が席にドカッと座って振り向いた。
「それにしても……ねぇ、水都」
未来が少し声を潜めて、私の机に肘をつきながら、いたずらっぽく言った。
「何か、見なかった? ……というか、まだ見てない?」
「え? 何を?」
「石上陽。あの、指揮者の。」
「……えっ?」
一瞬、思考が止まった。 石上? 指揮者? テレビで観た、あの……?
「そんなにある苗字と名前じゃないでしょ? マジで、同姓同名じゃないと思う。クラス表に名前あったよ、ほんとに! 同じクラス!」
「……あの有名人の? ウソでしょ?」
————石上陽くん。フランスで行われる、若手指揮者の登竜門であるシャルズール国際指揮者コンクールで最年少優勝して、去年の秋にすごいニュースになった。
インタビューとかよくテレビに映っていたし、YouTubeにも出てた。
てっきり東京とかに住んでいると思ってたけど……まさか? しかも同じクラス?
未来は顔を近づけながら、さらに畳み掛けてくる。
「ほら、冬くらいにあった、『題名のない音楽会』。石上くん、インタビュー受けてた時、『地元の公立高校に行きたい』って言ってたでしょ? 司会の人が、ぽかんとしててさ」
「あ……うん。たしかにそんなこと、言ってた。」
「でもさ、まさか地元が岡崎で、”公立高校”が矢作北って……ねえ?」
未来は、自分でも信じられないといった風に笑った。
「ていうかさ、ひょっとして、吹部入ってくれたりするのかな?」
期待をこめたその言葉のあと、自分で「あはは」と照れ笑いする。
「……それは、ないか。オケと吹奏楽って違うっていうし、進路も別かもね。」
私は小さく、けれど確かに呟いた。
「でも……本場で音楽やっていた人って……なんかスゴいね。
そういう人と、音楽一緒にやってみたいよ、ね。」
その瞬間、未来がぎゅっと拳を握ったのが見えた。
「やってみたいね。一緒に。全国、行きたいもん」
その言葉に、胸の奥が、ジンと熱くなった。
あの夏、あの日の、あの悔しさが蘇る。
去年、わたしたち翔西中は良いメンバーがたくさんいて、はじめて東海大会に出場。
でも、全国大会には手が届かなかった。
特に未来は部長だったから、行けなかったことを事あるたびに責めている。
私が小学校の時に普門館の全国大会を観に行ったことを興奮気味に話してから、同じ夢を持ち続けてくれている。
私も答える。
「……うん。私も、行きたい。ずっと夢だったから」
……その時だった。
ガラッ———
教室の後ろのドアが開く音。
誰かが入ってくる気配に、自然と視線が集まった。
黒髪に、さわやかな顔立ち。背の高い男子生徒が、静かに教室へと足を踏み入れてきた。
彼は少しキョロキョロとした後、黒板にある出席番号を見ると、こちらに向かって来る。
そしてわたしの右隣の席の番号を確認し……柔らかい笑顔を私たちに向けた。
「…………石上です。よろしく!」
教室が、ほんの少し静まり返る。
隣に座ったのは———
さっきまで名前だけを追いかけていた、“本物”の、石上陽くんだった。
(本当に……いるんだ。)
……現実味がない。
(同じクラスで……隣の席?)
だけど胸の中で、何かが静かに震えている。
「…………石上……くん? あの、指揮者の、石上くん?」
「はは、下手の横好きだけどね。石上です。」
本当に……あの石上陽くんだ。
今、隣にいる。
背は180cmくらい? テレビで見るより大きく見える。
テレビでインタビューに答えている姿より、ずっと柔らかい印象だ。
未来が、私の肩をガッと掴んだ。
「ほらああああああああ!!!」
私は、あまりの唐突な出来事に、固まったまま。
でも、彼の雰囲気はテレビで観たときよりもずっと優しそうで、普通で———。
なんだろう、この人……。
圧じゃない。けれど、ただ“いる”だけで空気が変わる。
そんな存在感。
するとクラスの後ろの方から、彼の姿を見つけたマッシュの男子と、ロングボブの女子が近づいて来る。
「陽!」
「陽く〜〜ん。また一緒だね〜〜。」
「大翔、美音!」
石上くんは私の横の机の上に荷物を置くと、二人に近づいて両手をグーの形にして二人に向けた。話しかけてきた二人もグーを出し、三角形で嬉しそうにグータッチをする。
「はは、やったな! 大翔も美音も一緒だ!」
「ああ。ただ、部活以外でも『出来杉』のお前と一緒だと、落ち込んじゃうよ。」
そんなことを言いながらも、マッシュの男子はとても嬉しそうだ。
「比べるからダメなんだよ〜。大翔くんも、私みたいに開き直ってテスト白紙で出したらいいよ〜。」
「美音、おまえ矢北によく受かったな……。」
三人がカラカラ笑い合う。どうも同じ中学のようだ。
「陽くんは、入部はいつにするの〜?」
「今日の解散後、すぐかな。終わったら、外で部活の勧誘してるんだよな?」
「いや、歓迎演奏は下の会議室でやるみたいだな。」
……その様子をしばらく見ていた未来が、『歓迎演奏』という言葉を聞いて動きが止まった。マッシュの男子とロングボブの女子に目を行ったり来たりさせると、わたしのカバンに両手をついて立ち上がった。
「あ〜〜〜っ! 金5! 美島中の金5でしょ! あんたたち! ほら、水都! うちが東海で負けた、美島中の金5よ!」
わたしも気づき、口が開く。
翔西中の金5(金管五重奏)も出ていた、二月に行われたアンサンブルコンテストの東海大会。夏のコンクールの東海大会に出たメンバーで、満を持して臨んだ最後の大会。
でも、まったく無名だった美島中の金5にまくられ、金賞を逃したと未来は言っていた。ちなみに翔西中は銀。
たしか美島中は、夏のコンクールでは県大会にも上がらず、西三河北の地区大会で銀か銅だったはず。
「ごめん、声上げちゃって! あたし、翔西中の金5で、ユーフォやってたの。あ、ごめん。狩野未来っていいます。
……えーと、ごめん。大翔……くんに、美音……ちゃん? あなたたちも、吹部に入るの?」
二人は少し驚いて止まっていたけれど、お互いに目を合わせてから、大翔くんが落ち着いた笑顔で未来に話した。
「もちろん、そのつもりだよ。よろしく、狩野さん。」
未来は頬がぷっくりと膨らむくらい口角を上げて、飛び上がった。
「うわあ! めっっっっちゃ嬉しい! こんなに上手いボーンとペットと一緒に吹部できるなんて! よろしくね! あ、私のことは未来でいいから! 私もみんなこと、名前で呼んでいい?」
未来は嬉しそうに美音ちゃんの手を握りながら聞いて、二人とも頷いてくれる。
「あ、あと、この子は同中でフルートやってた、水都。あ、河合水都っていうの。アンコンも出てたよ。一緒に吹部入ろうって言ってたとこなの!」
「そうなんだ〜! わたしも、翔西中の金5も、フルート四重奏も、覚えてるよ〜。とっても上手だった〜。未来ちゃん、水都ちゃん、よろしくね〜。」
美音ちゃんが私たちに、嬉しそうにグータッチをしてきた。美島では、グータッチが流行っているのかな? 私もグーを出しつつ、返答する。
「美音ちゃん、よろしくね。河合水都っていいます。私も、覚えてるよ。美島中の金5の曲、リベルタンゴの美音ちゃんのハイトーン、凄すぎたの覚えてる。一緒に吹部できるの、嬉しい。みんなも……私のことも、名前でいいよ。」
三人の女子たちを中心に、いつから楽器やってるの? など、とりとめのない話をする。
その様子を優しい目で見ながら、大翔くんは陽くんの後ろの席に座った。
石上くん、の後ろだから、「い」から始まる苗字かな?
美音ちゃんも、私の左隣の席に座った。
私の前が未来、左が美音ちゃん、右が陽くん、その後ろが大翔くん。そんな感じだ。
……固まってて、なんか嬉しい。
メガネをハンカチで拭いている大翔くんに、未来が自分の席から身を乗り出して話しかけた。
「ねぇ、大翔くん。変なこと聞いていいかな。二月のアンコン、とにかく美島中の金5が凄すぎて。十二月の地区大で初めて聴いた時、めっちゃビビったんよ。
でも夏のコンクールでは……こんな言い方してごめん、美島中って県大会に出てなかったでしょ。何かあったの? 不調だったとか。」
私も覚えてる。夏の地区大会で美島中の演奏は聴いたけど、特に印象を覚えていない。マークしていた葵北中や六ツ美南中は上手かったけど、他の学校の金管が際立って上手かった記憶が無い。
あんな、リベルタンゴを上手に吹けるような金管がいたら、その場の空気を変えていたはずだ。
「何かあった……ねえ。」
大翔くんが未来から、わざとらしく視線を変えて、陽くんを見る。陽くんは困ったように、大翔くんを見ながら少しはにかんだ。
「?」
と未来と私が思ったその時。
「あーーー! いたーーーーー!」
陽くんのすぐ横、廊下側の窓から、大きな声で陽くんを指差すセミロングの女子生徒。
「ちょっ、・・・有純! 声大きいって・・・!」
反対側の手を引っ張る人が、もう一人……?
「ねぇ、私、吹奏楽部の部長やってる、桐谷っていいます! 石上君が矢北に入るって聞いてから、ずっと待ってたの!
お願い! 石上君、吹奏楽部に入って! 今年こそは、県大会に行きたいの! 今日の歓迎演奏、絶対に聴きに来て!」
「有純!! 入学式前だって! ちょっと挨拶って言ってたじゃない! ダメだって!!」
背の高いブレーキ役らしき女子の先輩が、ごめんなさいねと言いながら、桐谷?先輩を引き摺っていく。
後ろの首根っこを引っ張られながら、「お願いね〜」と両手をこちらに振りつつ、二人は視界から消えていった。