1話 プロローグ
———はるか昔、音の力が世界に織られていたという。
宇受賣命定言曰
音至天域信愛者
得筆命書織命理
音癒人心越時界
信愛貫心啓未來
訳
“そしてアメノウズメはこう定めました。
音楽を天の領域まで高め、深く人を信じ、愛する者にこそ、
光筆と命書は授けられる。命の理を織り直す者こそ、
その力を継ぐにふさわしい。
音で人の心を癒し、時を越えて命を織り直す者は、
信と愛を貫く心によって、未来を開くのです。”
〜 「日本書紀 神代巻補遺」より 〜
———音が、聞こえる。
タイヤの音。
ブレーキの音。
誰かの叫び声。
僕は、どうしたんだ?
いつの間に、空を見て、寝ているんだ?
誰か、寝ている僕に叫んでいる。
ブロンドの女性と……子供?
———ああ、さっきの……車に轢かれそうになった……。
そうか、庇ったんだっけ。
子供———ああ、助かったんだ。良かった………。
それで、僕が寝ているの、か。
手は、あるのか?
動かない。
でも、痛くもない。
これじゃあ、もう指揮棒は、持てないな……はは…………。
寒い……。
聞こえていた音が、遠ざかっていく。
最後に耳の奥で鳴っていたのは、弦のような、細い音。
……ああ、これが最後の音、か。
鼓動の、音も、もう、終わる。
すべての音が、消えた。
代わりに———静寂が、鳴った。
女性が、大粒の涙を流しながら、僕に何かを叫んでいる。
———水都。僕は、役に立てたのかな。
指揮者になったよ。
それなりに、ヨーロッパでも頑張った。
でも———本当は、一番に君の力になりたかった。
あの時の音を、もう一度……聴きたかったな。
今の力が、あの時にあったら…………水都の夢を…………叶えられたの……か…………な——————
———————————-……
……まぶしい。
目が、開ける?
ここは……。
息を吸うと、胸が痛む。
でも、血と鉄の匂いはしない。
代わりに……味噌汁の匂い?
———生きている?
……そんな馬鹿な。
仰向けに寝ている。
天井が近い。
いや———これは二段ベッドの上段の底?
誰かが、運んでくれたの、か?
ここは……知っているような———うん? 身体が、動く。
なんだかよくわからない。
とにかくベッドから降りて……って……
「え?」
身体が小さい?
このパジャマも———小学生用、か?
視界が低い。背が縮んだのか?
周りを見渡すと……知っているような、知らないような。いや———
机、棚、ベネッセのポスター……ここは子どもの頃住んでいた、団地!?
「陽? おはよう。どうしたの? 変な声出して。」
「母さん!!?」
日本にいるはずの母さんが、なぜここに? あれ、白髪も……というか、若い!?
「どうしたのよ? 寝坊はしてないわよ? しっかりしなさいよ。ほら、ご飯できてるわよ。」
意味がわからない。
「寝坊って……何の?」
「……。あんた、頭大丈夫? 小学校に決まってるじゃない。今日はまだ金曜よ。寝ぼけてるの?」
……小………学校?
小学生?
僕は洗面所に走り込み、鏡を見た。
これは———小学生の……自分!?
「母さん、僕、何年生……だっけ?」
母さんが、いよいよ疑いの目でポカンとしている。
「……はいはい、顔洗って。ちゃんと着替えといで。4年3組、石上陽くん。」
4年生……。 4年生?
僕は、過去に戻ったの、か……?
さっきまでのは、夢?
———じゃない。記憶はある。
ドイツも、コンクールも、水都のことも、全部。
ベッドの部屋に戻り、出されている洋服に着替える。
確か……こんな服。あった。
昔着ていた、母さんチョイスの、服だ。
じゃあ、これは小学生の時の、僕と弟の部屋、か。
何が何だか……と思って布団に目を向けたら———
僕の枕元に、何か光る物がある。
え?
———本?
黄色い光を放ちながら、宙に浮いている。
呼吸と同じリズムで、微かに脈打っている。
(え? え……? な、何だ? こんな、こんなファンタジーな物!?)
———僕を、呼んでいる?
僕の名前を、声ではなく、“音”で。
本が、光を吐くたびに、胸の奥が鳴る。
おそるおそる、手に取る。
特に痛みや、嫌な感じは無い。
冷たくも、熱くもない。
ただ、心臓の鼓動が伝わってくるような———そんな感覚。
表紙に文字があった。
『歪波の———命書』
「これは……?」
分厚い表紙をめくる。
焼け焦げたような文字が浮かび上がっている。
『運命に逆らい 人の寿命に直接作用して生じた歪波は 自身に返る』
———この瞬間、何かが“共鳴”した。
「運命に、逆らい……。」
背筋がぞわりとする。
まるで、この本が僕に語りかけてくるようだ。
「陽! 着替えた? いい加減、ご飯食べなさい!」
「あ……うん、ごめん、今、行く。」
僕は怪しい本を布団の下に隠し、リビングに向かった。
* * *
小学校から帰宅後。
僕は布団の下から、あの本をもう一度取り出した。
相変わらず、浮いて、黄色く光っている。
小学校は、昔のままだった。というか、昔そのものだった。
名前も忘れたかつてのクラスメートが、全員いた。先生も。
算数、国語……こんなのやったかな、やったな、と思い出しながら、授業を受けた。
ただひとつ違うのは、僕の中にある48年分の記憶。
帰る最中も、給食当番の白い袋をポンポンしながら、あの言葉を考えた。
『運命に逆らい 人の寿命に直接作用して生じた歪波は 自身に返る』———。
(運命に、逆らえる……?)
試しに、母さんに聞いてみる。
「母さん……リウマチの痛みは大丈夫?」
洗濯物を畳む母さんの手が止まり、また僕に疑いの目が向く。
「……リウマチ? テレビの見過ぎじゃない? お母さん、どこも痛くないわよ? ああ、肩なら痛いから、揉んでくれる?」
うん、いいよ、と言い、母さんの近くに行き、肩を揉みながら考える。
(やっぱり、母さんはまだリウマチになってない。これから起こることなんだ。だから白髪も無い……。
『運命に逆らえる』、なら、これから起こることも、“人の運命”も———変えられる?)
「……ちょっと!?」
走って僕は自分の部屋に戻り、机で新しいノートを「バッ!」と開く。
(今日は2018年4月24日。水都の……確かあの日は…………新聞記事を思い出せ………。)
鉛筆の先が、震える。
ノートに、
『2020年4月12日14時31分、東岡崎駅前交差点で轢き逃げ事故、水都、右大腿骨損傷』
と書く。
「———よし。」
こんな、訳のわからない状況だけど。
これは、チャンスなんだ。
試す価値は、ある。
寿命が、どうなっても。
もう一度、黄色く光る本を開き、一文を読み、フウッと息を吐く。
『運命に逆らい 人の寿命に直接作用して生じた歪波は 自身に返る』
寿命がどうした。
運命がどうした。
もう一度、奏で直すんだ。
———あの日の、続きを。




