1-19 逢魔のお節介
螺旋状の炎が消えた途端、支えを失った無明の身体が前のめりに傾いだ。
老陽はその細い身体を受け止めると、ぎゅっと確かめるように抱きしめ、それから自分の頬を無明の頬にぴったりとくっつけた。
その様子に、逢魔は「まずい!」と心の中で叫んだが、ひと足遅かった。
離れたと思ったのも束の間、老陽は自分たちが見ているのも構わずに、無明の頬に唇を寄せた。
「契約は果たされた。私は、これから先もずっと、君と共に在る。これ以上の至福はないだろう」
老陽の悪い癖とは、神子に対しての距離感が馬鹿なところであった。
愛しいものを愛でるように、無明を撫で回しているその姿は、小動物を必要以上に可愛がる姿と重なって、蓉緋は内心引いていた。
「老陽兄さん、そろそろやめてあげてくれる?無明が起きたら、きっと悲鳴を上げちゃうから、」
「おっと、いけない。ありがとう、逢魔。もう少しで神子に嫌われてしまうところだった」
顔や頭や身体を撫で回していた両手を止め、我に返った老陽は、いつの間にか横にいた逢魔の方を見上げる。
その隙に逢魔は老陽の腕の中から無明を奪って抱き上げると、安堵の表情を浮かべる。
「兄さん、無明がね、今回の鳳凰の儀で朱雀の神子役をするんだ。だからさ、ついでにあれを頂戴、」
「神子が朱雀の神子役をするのかい?それは素晴らしいね。数百年ぶりに神子自身があれを舞うのか。神子が衣裳を着て舞う姿······さぞ美しいことだろう。よし、今回は私も見物に行くとしよう」
「いいんじゃない?それよりも早く、」
わかった、わかったと老陽は逢魔に抱き上げられている無明に手を翳した。
途端、ふわりと赤い衣が宙から現れ、そのまま無明の身体に被さった。
「特別な羽織だ。朱雀の加護が神子を守るだろう」
金の糸で描かれた鳳凰と美しい花の模様の赤い羽織は、花嫁衣裳の上衣に羽織るもので、これは特別な糸で織られたもの。
鳳凰の儀は、今となっては宗主を決めるための儀式のひとつにされているが、元々はかつての神子が、朱雀の陣でこの地の守護を強めるための儀式であった。
神子がいなくなってからは、今のような形だけの儀式になり、いつの頃からか宗主を決める儀式へと変わってしまったのだ。
朱雀の神子になるということは、朱雀にその身を捧げるということ。
つまり、婚姻を結ぶようなものなのだ。
老陽が神子に対しての距離が馬鹿なのは、昔の儀式の影響が強く、つまり、自分のものだと言っていたのはそういうことである。
逢魔は一度無明を地面に降ろし、その赤い羽織を頭から被せるように覆うと、再び抱きかかえて立ち上がる。
そして堂の前で呆然としている、蓉緋の方へと足を向けた。
「じゃあ、そういうことだから、よろしくね」
逢魔は蓉緋の前に立つと、意識を失ったままの無明の身体を羽織ごと渡して来た。蓉緋はその行動に目を疑いつつも、そのまま無言で受け取った。
逢魔は無明の顔を隠すように、赤い羽織を深く被せ直す。その意味を、蓉緋はなんとなくだが理解していた。
「外であんたを待ってるひとたちに、絶対に無明を晒さないで。言ってる意味は、もちろんわかってるよね、宗主サマ?」
「······ああ。奴らの眼には晒さないし、髪の毛の一本も触れさせないと誓おう」
ここに来るまではなかった気配が、数人分増えていた。鉄の扉の内側には、宗主の玉佩がなければ誰であろうと入ることはできない。
炎帝堂に宗主が赴くことは、別段珍しいことではない。しかし、他の誰かを連れて赴くということは、なにかあると思わせるには十分だった。
蓉緋はこの地の守り神である老陽に対して深く頭を下げると、無明を抱きかかえたまま、炎帝堂を後にした。
自分の歩よりもゆったりと流れている岩漿に、来た時とは違う印象を受ける。
触れれば命がないこの岩漿だが、見ている分には美しいのだ。発光しているように眩しい暖色に、心が落ち着いていくのがわかる。
腕の中で眠ったままの無明は、不安になるくらい顔色が悪い。契約が果たされたと老陽は言っていたが、一体、あの螺旋の炎の中でなにが行われていたのか、蓉緋には知る由もなかった。
(こんなに小さくて軽い身体に、俺たちはどれだけの負担を背負わせているんだ?)
神子はこの国のためにその身を捧げ、四神の守護を齎し、生まれ続ける穢れを一生をかけて浄化して回る。烏哭が動き出した今、この国を揺るがすような事態がいつ起こるかもわからない。
そんな時に、この小さな囲いの中で争っている自分たちがどれだけ無能で滑稽なことか。そんなくだらない小競り合いに付き合わせてしまっていることを、今更ながら後悔する。
『この一族は、根本から変えなければ、意味がないのだ』
二年前に老師、白鷺が自分に言った言葉。
その本当の意味を、今頃、知ることになるとは。
天井まである大きな鉄の扉の前で、蓉緋は羽織の隙間から見える無明を見つめる。抱え直すように頭を自分の右の肩に向けさせ、完全に周りからは見えないようにした。
「俺がハメてあげるよ、」
突然後ろからかけられた声に、蓉緋は思わず振り向いた。その声は幼く、振り向いた先にいた者も、やはり幼い姿をしていた。
その五、六歳くらいの幼子は、自分の腰の辺りにぶら下がっている玉佩を掠め取ると、そのまま扉の窪みに押し付けた。
扉が半分開いたところで玉佩を外し、傍に戻って来たかと思えば、再び器用に帯に結び付けた。
「やっぱりあんただけじゃ心配だから、俺も一緒に行ってあげる」
その幼子は、にっとその年齢に見合わない不敵な笑みを浮かべて、こちらを見上げてきた。
不揃いな肩くらいまでの細い髪の毛は結っておらず、前髪が長い。
背を向けた時に見えた、腰帯に差している黒竹の横笛。その横笛に付いている藍色の紐で括られた琥珀の紐飾りが、歩く度にゆらゆらと揺れていた。
臙脂色の衣を纏った少年は、その朱色の瞳に蓉緋を映すと、なぜか衣の裾を掴んできた。
どこをどう突っ込んだら正解なのか、蓉緋はわからず、そうこうしている内に、扉の先に待っていた者たちと鉢合わせる。
そこに待ち構えていたのは、真紅の衣を纏った、数人の男たちだった。




