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と久 十六歳




「おと久ちゃんも、もう十六だからねえ。そろそろ、いい話があると思ってたんだ」

 おかみさんはご機嫌で、と久は黙っている。亭主の千代吉は腕を組んでいた。最悪なのは當よの機嫌だ。おかみさんが話を始めるや、肩をいからせて出ていってしまった。

 と久は黙っている。正座したあしが痺れてきた。どこからか、バタの匂いがする。

 と久は今、永代橋の傍にある、千代吉の弟子が開いた店で働いている。店は開いたばかりなので、最初が肝心だと、こちらの店から何人か手助けにはいっているのだ。

 二月(ふたつき)だけのことだが、と久はそちらの店で女給の頭をすることになっていた。それなのに、まだひと月経っていない今日、呼び戻され、慌てて戻った。

 先程、おかみさんが話したのは、今日の午前のことだった。但馬家……由之介の家から、使いが来て、由之介がと久をめとりたがっていると云った、と。


 と久は黙っている。口を噤んでいる。

 口を噤んでいるのは、由之介への疑念がぽろりとこぼれでてしまいそうだからだ。由之介には、美人と出歩いている、芝居見物をしていた、呉服店へ行っていた、そんな話がちらほら出てくることがある。それ以外にういた話はないが、どうやら相手はひとりらしい。

 ――そのひとと一緒になればいいのに。

 と久はその言葉が口から出ないよう、上下の唇をきつくあわせて、黙っている。そんなことは云いたくない。由之介の名誉の為にも、自分の気持ちの為にも。

 ――陰口は、嫌い。

「おと久ちゃん」

 と久は動かない。おかみさんは、ちょっと戸惑ったような声を出す。

「おと久ちゃん、但馬さまはいやなのかい?」

 頭を振った。と久ははっとする。――今、なにも考えなかった。

 顔を上げる。千代吉は腕を組んだままだ。不機嫌そうに、おかみさんへ云う。「本当に、妾奉公じゃねえんだろうな」

「いやだよこのひとは。但馬さまは本当におと久ちゃんを好いてるんだから」

「しかし、身分ってもんがあるだろう」

 おかみさんはころころ笑う。「そんなの心配することかね。八百屋の娘が将軍さまを産んだことだってあるんだ。あのね、但馬さまは、ご親戚に頼んで、おと久ちゃんをそのお家の養女にいれるおつもりなの」

「養女って……」

「そうすりゃ、おと久ちゃんは華族のお姫さまだよ。但馬さまと結婚したって、なんの不都合があるってんだい」

 ――そんな抜け道があるのか。

 と久はまた、顔を伏せる。亭主とおかみの丁々発止のいいあいは、姉が奉公にやられる前の両親の会話より、それでもずっと穏やかだ。

 ――由之介さまと……でも由之介さまには……。

 度々、一緒に出かけている女性は、そういった小細工もできない立場なのだろうか。華族同士でも、どうにもならないのかもしれない。なにか、どうにもならない事情がある相手。のっぴきならない事情のある相手。――由之介さまには、跡取りをつくる責務がある。

 ――わたしは、その為に選ばれたんだ。

「おかみさん」

 と久は両手を畳について、頭を下げた。「申し訳ありません。どうしても、あたしは由之介さまのご厚意にこたえられません。こたえられない事情があるんです」


 おかみさんは困惑していたが、千代吉は頷いた。ほかに女のある男なんてとんでもねえ、と啖呵を切って、店へ向かう。おかみさんはおろおろと、どういうこと、と亭主を追った。

 と久はすっきりした気持ちだった。――これで、余計なことに煩わされないですむ。

 ――あたしには、やることがあるんだ。


 と久は永代橋の店へ戻り、働いた。由之介は諦めきれないのか、どのような事情で話をうけられないのかと、また使いを寄越した。おかみさんが、と久の言葉をそのまま伝えたらしい。

 と久は、由之介さまにも事情がおありでしょうが、あたしにも事情があります、とだけ答えた。


「やっぱり、但馬さまって油断ならないわね」

 二月(ふたつき)が終わって、泉源楼へ戻ると、當よが爪を磨きながらと久へ云った。と久は、眩暈がして気分が悪いから足をもんでちょうだい、と當よに云われ、顔を伏せて當よの足をやわらかくもんでいる。

 當よの体からは、甘いようないい香りがした。肌はなめらかでやわらかく、あしはすんなりと形がいい。このところ、以前は不真面目だった手伝いも、真面目にこなしている。それだから、幾つか縁談が舞い込んだそうだが、當よはどれも断っていた。その辺の料理店の店主や、普通の医者程度では、當よは鼻で笑ってお仕舞だ。

「昨日も、美人と芝居を見に行ったそうよ。あんたに、どうしても結婚できないのか、なんて訊いてるのにねえ」

 と久はなにも云わないで、黙って當よの足をもんでいる。――この女は、あたしに八つ当たりするくらいしか能がない。自分が由之介さまに目をつけていたのに、由之介さまがあたしに結婚を申し込んだから。

 ――それが子どもを得る為の結婚だとしても、由之介さまはこいつよりかあたしを選んだんだ。

 ――なら、それでいい。文句は云わない。

 ――でも、結婚したら、いつかは由之介さまを傷付けるような言葉が口から飛び出してしまう。

 ――そんなのは、いやだ。

 ――あのかたを傷付けるくらいなら、あたしは夢なんて見ない。

 當よはまだまだ、と久を傷付けるようなことをだらだらと喋り、と久は黙って當よの足をもみ続けた。そうやっていれば、不安のもとのあれやこれやが、すべて消え去ってくれるとでも思っているみたいに。


 由之介からの使いは、来なくなった。由之介は学校を休んでいて、体調もよくないらしい。もしかしたら、はやく結婚して責務を果たさないといけないような情況だったのかもしれないと、と久は怯えた。――だから、すぐに結婚できそうなあたしに、話を持ってきたのかも。

 だが、結婚を蹴ってしまった以上、由之介のことをくわしく聴いてまわることもできない。と久は不安で押しつぶされそうな日々を過ごした。

 ――もう、自分がなにも知らないのはいやなのに。

 ――だから、文字を読めるようになったのに。

 と久は千代吉に呼ばれ、奥の間に居た。千代吉の隣には、おかみさんが居る。「と久」

「はい、旦那さん」

 千代吉は難しい顔をしている。

「お前は、但馬さまからの結婚の話を、断ったな」

「はい」

「それでは、帝都での結婚はもう諦めたほうがいいと、但馬さまからの使いが云いやがった」

 また、由之介の使いが来たらしい。と久ははっと顔を上げる。千代吉は顔を、少し赤くしていた。

「お前が応じねえから、嫁かず後家になっちまうぞと脅してきやがったのよ」

「ちょっと、あんた」

「ほんとのことだろう。華族さまがなんだ。一般市民を脅して楽しいのか」

 低声(こごえ)で吐き捨て、千代吉は二回、深呼吸した。

「だが、その可能性はあるかもしれん。天下の華族さまの結婚申し込みを、事情がありますで片付けちゃあな。今のところ、但馬さまの家は話をすすめてるってことにしてるが、破談になったって(おおやけ)になりゃあ、但馬さまにはじをかかせた()()()女だぜ、と久」

「あんた」

「お前は黙ってろ」

 千代吉が強い調子で云い、おかみさんは黙る。と久は千代吉を見ている。

「いろいろ、面白くねえ妙な憶測をする連中も出てくる。それでも、大丈夫か、と久」

「はい」

 と久はきっぱりと云う。――由之介さまにきらわれるんだから、ほかの誰にきらわれたってこわくない。

 千代吉は頷いた。

「それでこそ、俺達のと久だ。なあと久、ものは相談だが」

「はい」

「お前、料理をやれ」

 これにはさすがのと久も、言葉が出ない。店で厨房にはいっているのは男だけだからだ。

 おかみさんも驚いた様子だったが、すぐに千代吉の襟を掴むみたいにし、感激した声を出した。

「あんた。ああ、あんたと一緒んなってよかったよオ。そうだねえ、おと久ちゃんなら料理だってできるようになる。そうしたら、小さな飯屋くらいもたせてあげられるもんね」

「りすとらんてだ」

「どっちでも同じこったろ。おと久ちゃん、料理やんな。このひと、腕はたしかだし、ひとに教えるのも上手だからさ」

「旦那さん、おかみさん」

 と久は声を震わせる。――店。あたしが。

 と久は頭を垂れ、ありがとうございますと云った。


 それからと久は、給仕をしながら、料理の勉強もするようになった。といっても、泉源楼でやっているような洋食ではない。家庭的な料理だ。

「女ひとりでやるんなら、洋食は向かねえ。ひと皿が高すぎる。かといって、助っ人に男の料理人をいれたら妙な噂が立つからな。とにかく、一膳飯屋をできるくらいにはしてやる。洋食も学びたいなら、そのあとで幾らでも教えてやるから」

 千代吉の言葉には説得力があり、と久は料理を学んだ。

 家に居た頃、飯を炊いたり、簡単な汁をつくったことならあった。だから、それくらいならできると思ったのだが、水の具合が違い、なかなかうまい具合に飯を炊けない。それでも、と久は毎日、いろんなことを習い、いろんなことを学んだ。

 但馬の家から使いはまた来たようだが、どのような面談になったのか、誰も教えてはくれなかった。


 と久はお勝手で、飯を炊いていた。ここはきちんとくどもある。そこへ、見合いから戻った當よがやってきた。いい加減に年貢を納めるつもりになったと見えて、薬種問屋の若旦那と会ってきたのだ。

 當よはご自慢の綺麗な爪を眺めながら云う。

「但馬さまを見たわ」

 と久は一瞬手を停めたが、すぐにくどから薪をとりだす作業を再開した。「そうですか」

「女と一緒よ。でも、全然ぱっとしなかった。そばかすだらけでさ。わたしのほうが百倍美人」

 當よはくいっと顎を上げる。「但馬さまって趣味が悪いのね。あんなぶすと云い、あんたみたいな底意地の悪い女と云い。ああそうか、子どもを持つには、多少は()()のいい女じゃないといけないって思われたんだわ。あんた、なりはそこそこだもんね」

 當よの口調は、どんどん激しくなっていった。云いながら自分で自分を怒らせているのだ。と久はそう考えて、冷静になろうとする。

「但馬さまのあとをくっついてまわって、みっともないったらない。そのくせお情けで結婚を申し込まれたらはねつけちゃってさ。あんた、なにさまなのよ。田舎からうすぎたない女衒につれてこられたくせに」

 それが限界だった。と久は立ち上がって、憎たらしい當よの頬をひっぱたいた。

 當よはきゃっと云ってその場に尻餅をつく。と久は息を吐き、吸う。薪の燃えるいい匂いがする。この一瞬だけ、家に戻ったような気がする。優しい姉と、可愛い弟の居た家へ。

「お嬢さん、あたしのことを云うのは宜しいですけどね」

 と久がほっとしたのは、きちんと喋れたからだ。ここで声を震わせたりしたら、みっともない。

「松さんは、あたしがこわがらないように心を砕いてくれて、折角帝都に来たんだからっておいしいビーフシチューまでご馳走してくれて、置屋のなかでも一番の、あんたの伯父さんのとこへつれていってくれたひとなんです。うすぎたなくなんか、ないわ。訂正なさい」

「な、なによ、女衒は女衒でしょ。女を買ってきて、うっぱらって」

「松さんを悪く云わないでっていうのが、あんたの頭じゃ理解できないのね。あんたは()()だから。可哀相だこと。どんなうまれでも、どんな女衒に買われても、どんな置屋に売られても、あんたよりはずっとしあわせってものだわ。少なくともあんたの百倍は賢いでしょうから」

 當よが大口を開けた。顎が胸につきそうだ。それから、當よはもう十七にもなるのに、大声で泣きはじめた。


 すぐに、おかみさんがとんできた。と久はもうすべてどうでもよくなって、おかみさんの姿が見えた途端に外へ走った。走りながらたすきを外す。庭木にひっかかって、と久は手をはなした。

 ――姉ちゃん、作次、あたし元気だよ。

 ――でも気分がよくない。

 ――お金貯めて、姉ちゃん助けて、作次も帝都までつれてきたいのに。

 ――あたし、大事なとこで、ばかをしちゃった。

 息が切れて、と久は速度をゆるめる。酷い気分だし酷いなりだ。前掛けをつけたまま、()()で汚れた顔で出てきた。

 と久はとぼとぼと歩く。馬車や車が道を行き交っている。氷の店が目にはいって泣きたいような気持ちになった。――あの時、氷を食べてたらよかった。

 ――一度くらい、いい思いをしたって、ばちはあたらなかったのに。

 ――あれが最初で最後なら、そうわかってたら、行ったのに。

 掠れた声がした。


 紙と紙をこすりあわせたような音だ。それが声だとわかったのは、と久が聴いたことのある声だからだ。

 振り向いたのと同時に、自分と同じくらいの大きさの人間がぶつかってきた。髪を綺麗に結い上げ、品のいい小袖を着た、そばかすの目立つ顔の……。

「姉ちゃん」

 しゃっくりが出た。姉は涙のにじんだ目で笑う。と久、と、声は出ていないが、その唇が動いた。

 姉は、()()は、樟脳のいい香りをさせ、上等な服を着て、上等な足袋をはいて、上等な下駄をはいていた。髪には金蒔絵の櫛が挿しこまれている。帯は綸子だ。

 ()()はと久の手を握る。と久の指先のあかぎれがその拍子にまた割れ、血がにじむ。()()がびくっとするが、と久は痛みを感じはしない。

「姉ちゃん、どうして帝都に? あたし」

 咽が詰まる。声が掠れる。と久は急いで、右手で目を拭う。「あたし、姉ちゃんとさくじ、つれてこようって、そう思って、頑張ってお金……ためて……」

「お()()さん」

 と久は信じられない気持ちで、走ってくるひとを見た。遙か向こうに、いつもの車が見える。姉がそのひとへ向けて、嬉しそうにおいでおいでした。

「一体、どうしたんです」

 近寄ってきた()()()の足が停まった。目も口も大きく開いて、と久を見ている。

 ()()が唇だけで云った。妹を見付けた、と。


 しばらく沈黙があった。口を動かしているのは()()だけだ。と久を示して妹と口を動かし、由之介を示してなにか云うが、と久にはわからない。ただ黙って、由之介と見つめ合っている。――由之介さまがつれて歩いていたひとは、姉ちゃんだったの?

 ()()はふたりが反応しないのに、じれったくなったか、ぱちんと大きな音をたてて手を叩いた。と久も由之介もはっとする。

 ()()は袖から、小さな帳面と、鉛筆をとりだした。それらをつかって、なにか書いている。ぱっと帳面をと久へ向ける。


 ――旦那さまにお願いして、と久をさがしてた。

 ――旦那さまは顔に傷があって、表を歩きたがらないから、旦那さまのいとこの由之介さまについてきてもらってる。

 ――旦那さまが、折角帝都に居るんだからと、由之介さまにわたしを芝居や展覧会へつれていくように頼んだ。


 ぽろっと、と久の目から涙がひと粒、こぼれた。

「おと久ちゃん」

 由之介が動揺した声を出す。と久はけれど、それ以上は泣かない。

 由之介を見る。

「あの……姉の云っていることは、本当ですか?」

「なに? ……ああ、本当だよ」

 ()()が由之介へ帳面を向け、由之介はほっとしたみたいに頷いた。「僕が、いとこには彼女みたいな、きちんとしたひとがいいだろうと思って、手配したんだ。ところで、君がお()()さんの妹だって云うのは? 本当なのかい……?」

 と久はそれには答えず、こちらを向いた()()の首っ玉にかじりついた。姉は記憶のとおりの、あたたかくてやわらかい香りがする。


「それじゃあ、君は、僕がお()()さんと一緒になれないから、仕方なしに君に結婚を申し込んだと、そう誤解したんだね」

 由之介の声音はやわらかい。と久は姉の手を握ったまま、かすかに頷いた。姉はと久の手を撫でている。時折、頭やせなかも撫でてくれた。

「あたし、早合点で」

「いや、僕が悪い。まわりからどう見えるか、考えていなかった。友人達にはいとこの奥方だと云ったんだが、あいつらはおと久ちゃんに気があったんだな。僕の悪評を……」

 由之介は呆れたみたいに云い、頭をかきむしった。「いや、やっぱり僕が悪い。僕はばかだ」

 と久は頭を振る。()()が優しい目で、と久を見ている。

 三人は、ゆっくり歩いていた。泉源楼へ向かっているのだ。車は、由之介が帰らせた。()()が、と久が歩いているところを歩いてみたい、と云ったからだ。

 姉はずっと、と久をさがしてくれていた。去年おととしは一時期しか帝都に居なかったが、今年ははじめから居て、ずっとさがしてくれていたのだという。今度は、と久を見付けるまでは帝都を出ない、と決めて。

 その間、由之介はと久の捜索に付き合っていたのだ。と久に結婚を申し込む傍らで。

「名前が同じなのは、気付いてたよ」由之介はもごもごという。「でも、よくある名前だった。帝都の至る所に居る」

 それはそうだ。と久自身、今まで別人に間違われたことが何度もある。名前の表記が違っても、気まぐれで別の表記にかえられたり、書く人間のうっかりで間違われたりするから、「とく」と読める可能性のある名前すべてを候補にいれないといけない。


 それに、姉が仕入れた情報だと、と久は品川の辺りに居ると云うことになっていたらしい。やはり、名前間違いが起こっていたのだろう。と久をつれてきた女衒の松も、よくある名前だ。どちらもよくある名前ででは、砂浜で砂粒をさがすような作業だ。

「明日、君を帝都へつれてきたかもしれない女衒に、会うことになっていたんだ」

「松さんに?」

「ああ。品川辺りを幾らさがしても居ないんで、女衒が違ったんだろうってことになって、それらしい松という女衒がまだ居るって……でも、そうか、君だったのか……」

 由之介はほーっと息を吐く。「灯台もと暗しとは、このことだな。学校でなにを学んでたんだろう、僕は」

「由之介さまは、姉があたしをさがしに来る前からあたしを知ってたんです。それなら、反対に、絶対に別人だと思っても仕方ありません。由之介さまは悪くないです」

 由之介はうすく笑った。

「庇ってくれるんだね。ありがとう」

 頭を振る。本当に、本気で、そう思ったのだ。――あたしだって、由之介さまのいとこが姉ちゃんの旦那さんと思わなかった。

 ――調べればわかることなのに。

 ――華族さまだもの。千梨家と但馬家が縁戚関係だって、あの資料室でわかった筈……。


 と久はもう一度云う。「由之介さまは悪くないです」

「おと久ちゃん」

 ()()がにこっとして、と久の手をひっぱる。由之介を示し、首を傾げる。結婚、と、唇が動く。「姉ちゃん」

「なんだい?」

 と久は頭を振った。だが姉は、由之介へ顔を向ける。

 由之介はきょとんとしてから、ああ、と云った。

「ああ……おと久ちゃん、もし、その、僕の軽率な行動で君を不安にさせたんなら、それが原因で僕との結婚はできないってことなら」

「それだけじゃないんです」

 と久は頭を振る。由之介は口を噤み、姉が不思議そうにこちらを見る。

「あたし、お金を稼いで、姉ちゃんと作次を……弟を、帝都につれてくるつもりでした。お父さんのところに居たら、いつか作次も売られちゃうかもしれないし、姉ちゃんをとりもどしてもお父さんのところに居たらまた、別のひとのところへやろうとするかもしれないし」

 と久は頷く。「姉ちゃんが、大丈夫なのは、わかりました」

 姉は上等な服を着ているし、顔もふっくらしている。どうやら、正式に結婚もしているらしい。なら、心配はない。

「だから、作次を助けたら」

「ちょっと、いいかな」

 由之介に遮られ、と久は黙る。由之介は、なんとも云えない表情になっていた。

「ああ。その、作次というのは、お()()さんの弟のことだろう。君の弟だから?」

「はい」

「その子なら、今、我が家に居る。妹の遊び相手になってくれているよ」

 ――え?


 と久は足を停める。姉がなにか云い、由之介が微笑む。「君達はほんとうに、いいきょうだいだね。互いを信じ、互いを助けようとする。……作次くんは、帝都に遊びに来ているんだ。ああ、勉強もかねてね。それで、いつもは千梨の家に居るんだが、我が家に遊びに来てたまたま妹と知り合った。それで、しばらく家に居てもらうことになった。妹の機嫌がいいし、体調もよくなったんでね。今は、将棋を指してるんじゃないかな」

 と久は、姉を見る。姉はくすくすっと笑って頷く。――作次が、居る。帝都に。

 由之介は云う。「いとこが、義理の弟にあたる作次くんをいたく気にいっていてね。作次くんは賢いし、これからのこの国を背負って立つような人間になるかもしれない、なんて……実際、教えたことはすぐに吸収してしまう。言葉が少し幼いけれど、計算なら並みの大人三人がかりでもかなわない」

「作次が……ですか」

「ああ。作次くんなら、学者にでも簡単になれるだろう」

 ――作次が。

 ()()がにこにこしている。と久は息を整える。「由之介さま」

「ああ」

「あの、お願いがあるんです」

「なんだい?」

 由之介が優しく訊いてくれた。と久はどきどきする胸をおさえ、息を整える。

「あの、氷を食べにつれていってくれないといやです。もし、氷を食べさせてくれるなら、あたし、由之介さまの頼みはなんでも、断りません」

「云ったね」由之介はふふっと笑う。「それじゃあ、氷室ごと買ってしまおう。無茶な頼みをしたい時には、氷を用意しなくちゃいけないらしいから。結婚してほしいと頼む時なんか特に必要だろう」

「それと」と久はぎこちなく笑う。「時季外れの三色すみれもくれないといやです」

 由之介はにこっとして頷く。と久は、手に力をいれてあかぎれがぱっくり裂けてしまったけれど、気にしなかった。

 修復するだけの時間はある。あかぎれも、あたしと由之介さまのことも。




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[一言] ∀・)しっかり内容の有る時代小説でしたね。おと久ちゃんの健気な生き方に学ぶところが多くありました。また他の方々も高評されていた田舎と都会の対比も巧く描かれていたと思います。XIさまの企画より…
[良い点] 無事にふうちゃんと再会できてよかったです。 [一言] 當よさん、『おしん』のお加代さまのように友達になれるといいですね。
[一言] 読み合い企画から参りました! おと久ちゃんがとても良い子で健気で、由之介さんの申し込みを断るときの辛さが読んでいて切なくなりました。 とてもリアルな描写で読んでいると情景が浮かんできて、夢…
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