と久 十五歳
と久は十五歳になり、出版社通いは続いていた。
さいわい、出版社は泉源楼から近い。たまの休みや、時間があいた時に行くことができた。事件の記録は多く、帝都に近い場所のものから調べていても、まだ自分の村の事件にはつきあたっていない。
由之介は相変わらず、店に通ってきている。このところ、少しだけしっかりしてきたというか、線が細すぎる感じはなくなった。奥床しい美人をつれて歩いている、という噂は、あのあと聴いたが、それも短い期間のことだ。
そう思っていた。
「但馬は忙しいんだ」
手伝い、と云いながら、由之介のテーブルにはりついてばかりの當よが、今日は由之介が居ないから彼の友達のテーブルにはりついている。
當よが、由之介の居所を訊いたらしい。由之介の友人達は、面倒そうに応じた。「芝居見物に、展覧会に、今度、花火もある」
「僕らの目の届かないところに、美人をかくまってるからな」
彼の友人達は、そう云って笑い、當よは不機嫌さを隠そうともしない。
と久は普通の顔で、ほかのテーブルに給仕をしながら、内心穏やかではいられなかった。――由之介さま、また、綺麗なかたと一緒に居るの。
「おと久ちゃん」
出版社へ向かう途中、車が停まり、由之介が出てきた。品のいい仕立ての背広姿だ。杖を持ち、まっしろな手袋をつけている。
と久はお辞儀した。鮫小紋の小袖に、赤い帯を角出しにして、夏用の紗の羽織を身につけている。年に二回、おかみさんが見繕ってくれて、女給達はあたらしい服をもらえるのだ。
今日はめずらしく休みをとれたので、一日、資料調べに費やすつもりだ。
――誰も信用できない。
――お金をためないと。
由之介は、細い顎をちょっと撫でた。ひにあたってもそんなに焼けない性質のようで、顔はあくまでも白い。と久は伏せた目に見えた手が、水仕事でかさついているのに、なんとなくいやな気持ちになる。
「お遣いかな」
「いえ」と久は目を伏せたままだ。「今川橋の辺りに、おいしいどんどん焼きのお店があると聴いて、今から参ります」
由之介はくすっと笑う。
「おと久ちゃんは、結構くいいじがはっているんだね」
「はい……」
「それじゃあ、ますます、氷を一緒に食べてもらえなかったのが哀しいな」
二年前のことだろう。と久はなにも答えない。――もう、一緒に氷を食べてくれるひとは、居るのでしょう。
由之介は声を少しだけ低める。「でも、妹は喜んでくれたよ。君の云うとおりに、絵双紙をあげたからね」
えっと顔を上げると、由之介は優しく微笑んでいた。
「一度、妹に会ってくれないか? 君からの贈りものだと、云ったんでね」
と久はその言葉に、嬉しいような哀しいような、なんとも云えない気持ちになって、小さく頭を振った。由之介は哀しそうな顔をしたが、運転手が彼を呼んだので、彼は名残惜しげにその場を去った。ひとを待たせているんだそうだ。
――奥床しい美人を?
と久はちょっとだけ、由之介を見送った。――そのひとには、三色すみれではなくて、もっと素敵な花を贈るの?
資料室は夏の盛りでも涼しい。だから、不良記者がたまり場にしている。そういう記者達が、と久が来ると仕事を始めるので、助かっているのだと社長がいつだかに冗談を飛ばしていた。
と久は出版社の資料室のテーブルの上で、分厚い帳面のようなものを開いていた。中身は、事件の記録だ。一枚々々、丁寧に目を通し、関係ないと判断したら次の頁を見る。そうやってすべての頁を見てしまうと、帳面を棚へ戻す。
殺人事件だけを別に綴っているものはないそうで、だからと久は、「殺人」「殺し」という文字をさがしていた。それがあったら、その前後を読む。関係ない事件なら別の場所をさがす、その繰り返しだ。
――今日もなにもないのだろう。あたしはこうやって、ちなまぐさいことを調べてる。當よは学校の友達と、お針の練習。由之介さまは美人とお出掛け。
そんなふうにひねたことを考える自分がいやになってきた頃、と久の目がまた、殺人事件の文字をとらえた。
――女殺人者よくさえずる……ひばり……ひばり!
はっとする。そこにあった名前は、忘れようにも忘れられない、田舎にしてはしゃれたものだ。
姉を川へ突き落とした女の名前だった。
――あいつが、みえちゃんを殺した。それに、おとらちゃんのお父さんも。
事件が起こった日時と場所がわかれば、調べるのはぐっと楽になる。と久は姉が犯人にされそうになった事件の資料を、テーブルに並べていた。
事件は、と久が村を出てからすぐに起こっていたらしい。最初の殺人は、おそらくと久が乗り合いの馬車にのっていた辺りで起こっている。
ひばりの起こした事件は、残忍なものだった。さる華族の若さまが、保養に来ているのを知り、現地で雇った女中との仲を邪推した。そして、後釜に座ろうと、村人を三人殺してその罪を女中に着せようとする。女中は口がきけず、弁明もできなかったが、たまたまどの事件の時間も確実に邸に居たのが証明され、難を逃れた。
というのが、この出版社が報道していることだ。だが、資料室には他社の新聞や、本もある。それには少し違うことが書いてある。
さる華族、というのは、千梨家という、徳川さまからの譜代の家だ。そこのご嫡男が、事故で顔に火傷を負い、弟に跡取りの座を譲られた。自分が居ては問題の種になるというので、かつて治めていた土地にある村へ保養に行った。
そこで、若さまはつましく暮らしていたが、ひばりは若さまがいずれ家の跡を継ぐのだと思い込んだ。
そして、ふうだ。と久の姉のふうが、金とひきかえに若さまのもとへ行く。若さまは火傷があったが、ふうが献身的に世話をし、元気をとりもどす。
ひばりはふうがそれをしているのが面白くない。そこで、ふうになりかわろうとする。その為にはふうが邪魔だ。だから、ふうに殺しの罪を着せて永遠に若さまの前から消そうとした。
殺そうとしなかったのは、「若さまがふうを殺す筈だったから」と、訳のわからないことを云っているらしい。若さまが大勢、ひとを殺し、それを自分が停めて、若さまに見初められる……というものがたりが、ひばりのなかにはあったそうだ。
――もとから、あの女は嫌いだった。
と久は腕をさする。気色の悪い話を聴かされた時のように、肌がぶつぶつしている。ひばりの考えにふりまわされた姉は、どうなったんだろう。
それは、資料には書いていない。華族さまのことであるし、あまりくわしく書けないのだろう。ただ、姉が捕まった様子はないし、きっと今も森の奥のお邸で働いているのだろう。それが女中としてだけなのか、妾も兼ねているのか、それはわからない。
――姉ちゃん。作次。
と久は目をぎゅっと瞑って、決意をあらたにした。――あたしは、負けない。誰にも負けない。
――なにも、無駄なことには、気をとられない。