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と久 十四歳




「あの、由之介さま」

 雨のなか、外に出ていった学生達を追って、と久は店から走り出た。

 と久が呼びかけたのが由之介だとわかって、ほかの学生達は残念そうにしたり、笑ったりしながら、先に走っていく。煙みたいな細かい雨が降っているなかを、ぞろぞろと。

 由之介はまだ軒の下に居て、と久を振り返った。由之介は灯の下でも女のような顔をしていて、背の高い女が男のなりをしていると云われてもおかしくない。

「どうしたの、おと久ちゃん」

「これ、ありがとうございます」

 帯にはさみこんでいた、帳面をとりだした。由之介は鷹揚に笑って、それをうけとり、懐へ仕舞う。「役に立った?」

「はい」

 と久は微笑んで頷いた。

 由之介に返したのは、彼が昔つかっていたという帳面だ。ひらがな、カタカナだけでなく、簡単な漢字が、かなを振って書いてあった。

 と久は、自分の在所で起こった事件のことを知る為に、字を学びたいと思っていた。それでつい先月、由之介に相談したのだ。事件云々は云わず、単に文字を読めるようになりたい、とだけ。

 由之介は、それなら昔につかっていた帳面をかしてあげるから、知らない字があったらそこから書き写したらいいと云って、後日持ってきてくれた。


 帳面の中身は、近くの小間物屋で買った帳面に書き写した。お駄賃はかなりたまっていたから、それくらいの散財はできた。

 由之介は微笑んで、と久の頭を軽く撫でる。「おと久ちゃんは、熱心だな。これからの女性は、そうでなくちゃあね」

 なんとも云えない。と久は黙っている。

「今度、次の帳面を持ってくるよ」

「ありがとうございます」

 頭を振って、由之介は霧雨のなかへ走っていった。これから置屋へ行くのか、帰るのか、それはと久は知らない。

 ――帰ってくれたらいいのに。

 ――由之介さまは、お体弱そうだもの。


「と久」

 不機嫌げな声がして、と久は我に返った。

 今年、十四になったと久にあらたにあてがわれた部屋の、出入り口に、當よが立っている。敷居を踏むのもおかまいなしだ。まっしろな足袋をはき、派手なぼたん柄の振り袖だった。

「はい、お嬢さん」

 と久は小筆を置いて、立ち上がる。由之介からかりた二冊目の帳面は、そっと文机の下へ落とした。文机も、由之介がくれた。小さい頃つかっていたものだという。

 當よは小さく鼻を鳴らした。最近、そういった仕種にも相当気を配っていると見え、多少、可愛げがある。

「あんたねえ、但馬さまに優しくしてもらっているからって、勘違いをしちゃあだめよ」

 微笑む。

「どういう意味ですか」

「但馬さまは、女とみたら誰にでも優しいって云ってるの。美人を馬車にのせて、芝居にいらしているそうだわ」

 ――由之介さまが、女のひととお芝居に。

 あまり、信じたくないような言葉だけれど、と久は表情をかえはしない。そうして、云う。

「そうらしいですね」

 知らなかったことだけれど、それを認めるのが悔しい気がして、と久は続ける。「由之介さまは、素敵なかたですから、一緒にお芝居を見に行くかたくらいいらっしゃいます」

 當よは顔をしかめ、居なくなる。と久を傷付けようとしてあんなことを云いにきたのだろう。でも、それが失敗したと思って、不機嫌が酷くなって立ち去った。

 ――そんなことないのに。

 と久はしっかり、傷付いていた。由之介が女と芝居に行っている、ということに。


 由之介が次にやってきた時、と久は腹痛で立っていられず、横になっていた。由之介は腹痛にいいからと、薬を置いて帰った。由之介が医者の勉強をしていることは、當よが騒いでいたから知っている。

 由之介が特別に薬をくれたことに、當よが不機嫌になったけれど、と久はそれを()んで、だいぶ楽になった。それから、ただの腹痛ではないと由之介にわかっているのだと、少しだけはずかしかった。と久は、身体的に云えば、ほとんど大人だ。


 客が置いていった新聞を読めるようになったのは、秋を過ぎてからだ。

 新聞は触っていると手ががさがさしてきて、と久は好きではない。冬場に触ると、すぐに手が切れる。冬のぴんとはりつめて澄んだ空気は好きだけれど、手があかぎれだらけになるのだけは好かない。

 テーブルや椅子に放置された新聞を拾って、ふっと目にはいった文字が、文章として理解できる。それは、とても変な感じがした。

 新聞を手につったっていると久に、手伝いにたっている當よがぶつかってきた。「あら、ごめんねおと久ちゃん。でも、あんたがぼんやりなのがよくないのよ」

 ごめん、といいつつ謝っていないのが、いっそ當よらしい。と久は半分笑うような表情で、もごもごと謝り、新聞を抱えてひっこんだ。――文字は、わかる。あとは、どうやって調べるかだ。


 由之介に頼ることははばかられた。彼には、芝居に行く相手がある。

「昔の事件のこと?」

 みっつ上の先輩に訊くと、ちょっと考えるような間があって、彼女はとてもいい助言をくれた。「それなら、出版社へ行ったらどう。あすこって本が沢山あるでしょ。古川さまのとこなんて、本だらけだそうよ」

 と久は彼女にお礼を云った。古川というのは、常連の新聞記者だ。――今度、店に置いてある地図を調べよう。出版社の場所が書いてある筈。


 出版社は沢山あったが、大抵のところは這入ることもできなかった。

 と久の側の問題もある。仕事と仕事の間の時間に、店に立つ格好のほとんどそのまま行くのだ。相手にしてくれない出版社が多くて当然である。

 それでも、十数社目で、なんとかなかへ這入れた。小さなビルヂングだが、真面目でおかたい内容の本を出しているところらしく、と久に対応してくれた若い男の記者は真剣な表情でと久の話を聴いた。

「それじゃあ、二年前の殺人事件について調べてるんですね」

「はい」

 と久は、姉が事件にまきこまれたかもしれないということは喋ったが、くわしい場所は自分でもわからず、云わなかった。それでも記者は、と久を追い返さず、資料室へ這入っていいと云ってくれた。

 と久は礼を云い、その日は帰った。


「おと久ちゃん」

 と久は驚いたが、それを顔に出しはしなかった。由之介が走ってくる。

 と久はお辞儀した。

「やあ」

 由之介は息を整え、嬉しそうだ。「丁度、泉源楼へ行こうと思っていた」

「どうも……」

 表情はとりつくろえたが、言葉がうまく出てこない。と久は微笑む。

 由之介はにっこりして、手にしたものをさしだした。――すみれ。

 それは、三色すみれだった。たったの一本だが、と久は驚いてそれを見ている。

「時季外れだけど、学校の庭で色々やっているやつが居てね。これを見ていたら、君を思い出して、それで」

 由之介ははずかしそうにして、と久の手に三色すみれを握らせた。と久はそれを見、由之介を見る。「由之介さま」

「君に見せたいって、無理にもらったんだ。埋め合わせをしないといけない。それじゃあ」

 由之介は風をうけた帆船のように、勢いよく走っていった。




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