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と久 十三歳




「おと久ちゃん」

 ――いやなやつが来た。

 と久は微笑みを浮かべて上体を起こし、振り返る。「はい、お嬢さん」

 泉源楼の主人、千代吉の娘、()よは、にっこり笑う。学校から戻ってすぐのようで、制服のままだ。

「おとっつぁんに、今日はオムレツがいいって云っておいて」

「はい」

 せいぜいへりくだってみせると、當よは満足そうに頷いて、廊下をどこかへ歩いていく。と久はまた、上体をかがめ、雑巾で廊下をこする。先程までよりも幾らか強い。あの、當よという娘が、と久は嫌いだ。

 ――ひばりに似てる。

 顔で云ったら、當よのほうが数段劣る。ひばりは根性は腐っていたけれど、見目はよかった。當よは白粉をはたいたり紅をさしたりしてなんとかしているけれど、そうでもない。

 ――あたしのほうが、綺麗だ。

 それは嬉しいような、そうでもないようなことだ。と久は自分の容姿はどうでもいいと思っている。


 十二歳だったと久は、十三歳になった。あれからずっと、泉源楼で働いている。

 あのあと二月(ふたつき)ここで働いて、と久は千代吉と、その兄の辰次郎とで、とりあわれた。千代吉はと久の働きが骨身を惜しまないところが気にいった、手放したくないといい、辰次郎は()っつぁんの云うとおりに美人になった、約束通りもらうと騒いだ。

 それで、辰次郎が女衒へ払った金を、千代吉が兄へ返す、という格好で、落ち着いた。と久はだから、もう置屋へ行くこともないし、置屋がどんなところかを知る機会もない。


 泉源楼は、料理店だ。千代吉はりすとらんてだという。それはどこかの言葉で、料理店という意味だそうで、だから同じことだ。

 泉源楼では、あの時女衒の男に食べさせてもらったような、おいしいものを沢山つくっている。お酒を出し、夜はいつまでも明るい。食べに来るのはほとんどが男だ。近くに偉いひと達の通う学校があるとかで、そのなかでもいいお家柄の学生さんが多い。

 彼らは飯を食べ、難しい話をし、酒を飲む。そのまま、辰次郎の置屋へ行く客も多い、と、と久は同部屋の女給達から聴いている。

 と久は、この間はじめて、女給として働いた。ずっと野菜や食器を洗ったり、せいぜいお膳を整える係だったのだ。

 と久は顔が綺麗だし、帝都に出てきてから一年で言葉もなめらかになった。江戸の水で洗われたら美人になる、という女衒の見立ては正しくて、まだ十三のと久がにっこりしただけでぼうっとなる学生さんがたっぷり居た。と久はあとから、おかみさんに叱られた。簡単にあんなふうにしてはいけない、と。あんたは大事な子だから、と。

 でもそれ以来、と久に給仕してほしいと云うひとが居るそうだし、だから當よの機嫌がよくない。當よはいつも食事に来る学生さんのひとりに、盛んに秋波を送っているのだ。


 と久は雑巾を木桶にいれ、それを持って立ち上がった。縁側から草履を履いて外に出る。水を捨て、井戸端で雑巾を洗った。偉いひと達の学校でつくられたという、ポンプというものがあるから、井戸水をくみあげるのは簡単だ。

 と久は雑巾を干して、木桶を井戸にたてかけ、お勝手にまわった。たすきを外し、肩にななめにかける。桃割れに結った頭が痒い。断髪は勘弁してほしいが、これは寝る時に邪魔だ。

「あら、おと久ちゃん」

「おかみさん、廊下のお掃除終わりました」

「ありがとうねえ。おと久ちゃんは仕事がはやいねえ」

 おかみさんは、背のすらっと高い、四十年配の美人だ。亭主の千代吉は小男なので、のみの夫婦だとからかわれるらしい。

 と久は頭を下げ、用意されているきゅうりを洗いにかかる。「あんた以外は、これをやっておけって云ってもすぐにはしないから」

「あたしが特別丈夫だからですよ。おねえさん達は、頭痛があったり、女のしるしがつらかったりするから」

 やさしいねえとおかみさんは感心したみたいに云う。――優しいんじゃなくて、かくれてこそこそ云うのが嫌いなだけ。

 ――姉ちゃんなら、そんなことしないから。


 ひとの増える時間が来て、と久は給仕にたっていた。真鍮のいれものに酒を注いで持っていくと、ひげの紳士達がと久の手を掴もうとする。さっとひっこめた手に、あかぎれはない。冬になったら、またできるのだろう。

 店の厨房にたつ千代吉には、當よの伝言をきちんと渡してある。千代吉は頷いただけだった。

 店には、調理だけをする厨房と、野菜を洗ったり下ごしらえをしたりするお勝手とがあって、厨房は店内から見えるようになっていた。だから、そこに近寄るのはと久ははじめてだ。ぴかぴかの鍋やなにかわからない白い塊など、妙なものが沢山あった。

 と久は先輩の女給の云うままに、お膳をあちこちの席へ運んだ。

「おと久ちゃん」

 オムレツとパンを運んでいくと、その卓についていた学生のひとりが相好を崩した。隣の学生から肘で小突かれている。と久は会釈する。

「但馬さま」

「由之介でいいよ」

 歯を見せて笑っているのは、但馬由之介だ。と久がはじめて給仕にたった時から、やけにかまってくる。

 と久は頭をもう一度下げ、卓を離れた。由之介はにこにこと、それを見送る。當よが好きなのは、あのひとのよそうな、線の細い但馬青年だ。

 ――あたしは関わりないのに、あたしに意地の悪いことしなくっていい。


 由之介は、どうしてだかと久をかまう。それが、當よは気にくわない。だから、と久に対して、やけに突っかかってくる。自分のほうが上だと思いたいのか、些細なことを命じる。

 ――お嬢さんは、あたしと似た名前なのがお気に召さない。

 と久はふんと鼻を鳴らす。

 ――あんたと久って云うの。わたしは當よよ。

 おと久ちゃん、おと久ちゃん、と呼ばれていると久に、はじめて當よが云った言葉だ。まるで、ひとつ上のわたしのほうが先に當よと呼ばれてたんだから、紛らわしい名前で居るのじゃない、とでもいうように。

 この名前は、親にもらったもので、自分でつけたのじゃない。かえたっていいが、あんな女が面倒でかえるというのもしゃくだ。

 當よは、なにがなんでも自分が一番がいいし、自分の思うとおりにしたいのだ。だから、自分が目をつけていた由之介が、と久にかまっているのがゆるせない。

 ――但馬さまは、徳川さまからの譜代だ。あたしでもお嬢さんでも、たいした違いはない。どちらも、その辺の石ころだ。

 由之介の真意はわからないが、単に、なじみの店に見目のいい女給が居る、というのに過ぎないだろう。但馬家は歴史のある家で、そこの跡取りらしい由之介が、料理人の娘やら山出しの女給やらに本気になる訳はない。――遊びもしないだろう。はじになる。


「それでね、峰さんはね、あのかたは徳川さまとお知り合いだから、今度うちのことを云っておいてくれるって」

 當よのはしゃいだ声が聴こえる。上品なたてわきの振り袖を着て、ご機嫌だ。この間千代吉の母親にねだって買ってもらった振り袖だが、あと二回も着れば飽きて質にいれるだろう。

 先輩の女給が、と久に目配せした。お嬢さんがかしましいとそういう目付きをする。と久は目を逸らした。當よは嫌いだが、だからって陰口やこそこそした行いはもっと嫌いだ。

 當よの笑い声が響いてきて、と久は頭が痛いような気がする。


「おと久ちゃん」

 小麦粉の問屋へのお遣いが終わり、お駄賃をためこむことにしていると久は、足早に泉源楼へ向かっていた。懐には数銭はいっている。細かくても、お金はお金だ。ためこめば、目的を達成できる。

 声をかけられて、と久は立ち停まった。すっかり慣れた大勢の人波から、ぱっととんびを翻して、由之介が出てくる。帽子がずれた。

「やあ。姿が見えたんで、もしかしてと思ったんだが」

 と久は頭を下げ、由之介を見た。――このひとは、十八歳だっけ。

 由之介は相好を崩す。男にしては線が細いひとで、体もひ弱そうだ。身長はひとなみにあるが、幅が狭く、奥行きはうすい。不格好に背の高い女、と見えなくもない。

「お遣いかい」

「……帰りです」

「そうか」

 由之介はにこっとする。「よかったら、氷でも食べない?」

 由之介がゆびさしたのは、けずった氷を食べさせる店だ。行きたい行きたいと當よが大騒ぎしていたから知っている。

 と久はちらっとそちらを見て、目を伏せた。

「時間がありませんので」

「そう?」

「あの」と久は唾をのむ。「よくして戴くのは、ありがたいですが、あたしなんかにかまわないでください」

 歩き出す。失礼なことをした、という自覚はあるが、當よに絡まれるのは面倒だった。

「おと久ちゃん」

 けれど、由之介はそんな事情を知らないから、と久を追ってきた。「ごめんよ。こわがらせたかな」

「いいえ」

「僕は、ちっちゃな妹が居るんだ」

 ぱっと、足を停めてと久は由之介を見る。由之介は優しい目をしている。

「妹はあまり丈夫じゃない。それで、直に会えないんだ。だから、おと久ちゃんを見てると、妹みたいで……」

「じゃあ、あたしに氷を食べさせたと思って、そのお金で妹さんに、絵双紙でも買ってあげてください」

 と久が声を震わせてそう云うと、由之介はもっと優しい目になって、そうだねとと久の頭を撫でた。と久は胸の奥がきりきり痛いような気がしていた。――作次! 姉ちゃん!


 と久はそれから毎日のように、女給としても働いた。當よがなにかといいつけるので、店が開いていない時間帯でもよなか以外はやすめなかったが、由之介の足が遠のいたので當よの機嫌が悪いのだと云うことは理解していた。

「なあ、おかみ、これっておと久ちゃんの在所のことじゃないか」

 と久が真鍮の湯呑みを磨いていると、そんな声が聴こえてきた。と久は美人だから、どこの()だと冗談まじりに訊いてくる客も居る。そんな時はおかみが対応してくれていた。と久は自分がなんという場所にあるなんという村出身なのか、知らない。村に暮らしているうちは、そんな名前なんて聴いたことがなかったからだ。

 ちらっと目を向ける。おかみは、客のさしだす本を見ていた。と久は帝都に来てから、ひらがなだけなら少しは読めるようになっていた。當よが散らかした本を片付けるので、漢字も少しだけなら読めた。でも、客が持っている本がなんなのか、わからない。

「あらほんと」

 おかみは学があって、字を読める。「おと久ちゃんの村だね」

「これは、去年の事件だけど」

 ――事件?

 と久はぱっと、そのテーブルへ近付いた。「あの、あたしの名前が聴こえましたけど」

 おかみも客も、失礼だとか無礼だとか、そんなふうにいうことはない。どちらかというと、なにか案じるような顔付きをしている。

「あの?」

「おと久ちゃん、落ち着いてね……」


 本に書いてあるのは、と久の村でひとが殺された、ということらしい。それも、三人も。

 あおくなったと久に、客が慌てた様子で云い添える。

「でも、犯人は捕まったってよ。とんでもねえ女だな。口をきけない女に罪をおっかぶせようとしたんだと」

 と久はその場に倒れた。


 ――姉ちゃん。

 目を覚ますと、かたいようなやわらかいようなものの上に横になっていた。「おと久ちゃん」

 傍に由之介が立っている。「体を起こしちゃいけないよ」

 由之介の言葉には、どことなく有無を云わせないものがあった。だからと久は、軽く頷いてじっとしている。

 由之介は微笑んだ。

「いい子だ。……気を失ったのは覚えている?」

「はい」

 震える声が出る。由之介はそれから、幾つか質問してきた。と久は疲れていると云われた。

 ここは病院らしい。偉いひと達の通う学校のなかにあるそうだ。ひと晩ここに居るように云われ、お店がと云うと、手で制される。

「僕が一日、特別におと久ちゃんに来てもらった。そういうことにする」

「でも……」

「具合が悪い女の子を見るのは、いやなんだ」

 そう云われると、黙るしかない。と久は口を噤んだ。


 ひと晩ぐっすり眠ると、気分がよくなった。「ありがとうございます」

「ううん。顔色、よくなったね」

 由之介は疲れた様子だったが、と久が帰ると云うと、車で送ってくれた。但馬家の車なのだろう。運転手と助手がついていて、後ろの席で並んで座る由之介とと久には目もくれない。

 由之介は制服にとんびを羽織り、帽子をかぶっている。

「あまり無理をしないように。背が伸びる頃だから、つらいだろう」

「はあ……」

「ご亭主とおかみさんには、僕から少し、話をしておくよ」

 由之介はにっこり笑う。線の細い、女のような白い顔だ。


 由之介は本当に、千代吉とおかみさんになにか云ったみたいで、しばらくすると女給が増え、と久や、と久と同年代の女の子達は少しだけ仕事が楽になった。体を壊してすぐにつかいものにならなくなるよりも、少し仕事を減らして長く働かせたほうがいいと思ったのだろう。

 ――姉ちゃん。

 あのあと、あの客は来ていない。おかみさんには聴けなかった。気絶した時の話だ。

 ただ、罪を着せようとした、と云っていたから、おそらく()()は無事だ。当たり前だ。()()は曲がったことが嫌いで、作次がよその家からあけびをとってきた時など凄かった。一番太い薪を持ってきて、作次のお尻が腫れ上がるくらいにぶっ叩いたのだ。その姉が、ひとごろしなんて、聴いただけでも顔を赤くして怒るだろう。

 だから、無事だ。無事な筈だ。

 ――姉ちゃんは、旦那さんによくしてもらってるんだろうか。ひとごろしの疑いをかけられるなんて、旦那さんはなにをしてるんだろう。




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