と久 十二歳
一度はくっついたあかぎれが、また開いている。
と久は指の先にふうっと息を吹きかけて、窓の外を見た。煙やら蒸気やらでかすんではいるが、名前のわからない山と、その手前を悠々と流れる大河が見える。
「世のなかってのは、ひろいもんだろう?」
向かいの席の男が、と久の目には淡い水色に見える煙を吐き出しながらそう云った。羅宇をかえたばかりだという煙管は、雁首も吸い口も綺麗に磨きこまれている。
と久は小さくはいと云い、あわせた手を膝の上に下ろした。そのまま、それを見ている。男はちょっとと久を見ていたが、どことなくばつの悪いような顔をして、窓の外を見た。
――あたしは、作次の為に行くのだ。
と久は膝の上に置いた手を見ながら、そう考えている。ろくでなしの父親の為でも、頼りない母親の為でもない。可愛い弟の為。それに、姉ちゃんが淋しい思いをしないように。
と久は、貧しい山村の生まれだ。
満で二歳上のふうという姉と、六歳下の作次という弟、それに父母。それが、と久の家族すべてだ。
と久は生まれた時から、貧しい暮らしをしていたから、とりたてて自分が不幸だと思ったことはない。物心ついた頃には姉と薪を拾いに行き、また火の番をして飯を炊き、食べられる草や木の実をその辺からかきあつめるのが仕事だった。
と久ははっきり覚えていることがあって、それは姉のふうのことだ。
ふうは、口がきけない。いつだったか、と久はそれに気付いた。それが自分が幾つの頃だったかははっきりしないが、夏の盛りだったのは覚えている。ふうが川で溺れたのだ。
今思うと、二軒隣の家の子、と久が嫌いで嫌いで仕方なかったひばりといういやな子が、ふうをわざと川へ落としたのだ、と久はそう感じている。あのひばりという子は、どうしてだかふうをきらっていた。だから、と久はどれだけ優しそうに見えても、顔が綺麗でも、ひばりが嫌いで仕方がなかった。
とにかくその夏、女の子達が川で、洗濯をする母親の手伝いをしていると、ふうが音をたてて川へ落ちた。音に振り返ったと久には、あっぷあっぷしているふうを助けようとしている母親と、大人達、呆然とつったっている子ども達、そして、ふうを睨みつけているひばりが見えた。
ふうは、すぐに助けだされたけれど、なにも云わなかった。
ふうはそれまで、川へ落ちるようなことはなかった。だから、どうして落ちたのかと、母が訊いた。ふうは口を開けたが、木々の間を風が通るような音がしただけだった。
それを聴いた時、と久は、姉は口がきけないのだ、と、衝撃をうけた。喋らないのではなく、喋れないのだ。声が出ないのだ。
と久の記憶する限りでは、父親はふうのことを、うすばかのように云っていた。口をきかないから、自分の子とは思えないと。
口をきけない、とは、父は云わなかった。それだけは認めたくないとでも云うように。
ふうは喋れなくても、仕事はきちんとこなすし、体は丈夫で、少しこわがりなだけでなにもはずかしがるようなところはない。それなのに、ふうが口をどうしてもきけないというのがはっきりすると、両親はふうをあまり外へ出さなくなった。ひばりがふうを川へ突き落としたのが、そのきっかけだったのだ。
と久はそれまで、姉とふたりでしていた薪拾いを、ひとりでするようになった。と久を仲間にいれてくれる子どもは居なかった。ふうの家族だから、付き合いをしているとふうみたいに口をきけなくなると、そんなふうに囃された。
でも、ふうが口がきけないだけで働き者なところや、曲がったことが大嫌いでと久でも作次でも悪さをするときつくお灸を据えることを知って、隣近所の人間はそういうことは云わなくなった。
と久は、二歳上の姉が誇らしいのと同時に、妬ましい。自分が口がきけなかったら、あんなふうにはいられないと思うからだ。
ふうは優しくて、と久の卑屈なところや、ずるいところも、わかっていてなにも云わない。飯の時も、自分の食べるものを減らしてもと久におなかいっぱい食べさせてくれたし、作次ができてから頭痛になやまされるようになった母親にかわって、家事の多くをこなした。
――お母さんの頭の痛いのはお父さんの所為なのに、お父さんは働き者の姉ちゃんを酷いところへやった。
母は、作次を生む時に、産婆を呼べなかった。産婆に支払う金も、金のかわりになるものも、なにひとつなかったからだ。
いや、ふうが頑張って森へ行き、薪を拾ったりきのこを採ったりして、雌鶏一羽と交換してもらえる筈だった。ふうがからすに襲われて怪我をしたあとは、と久が間に合うように、薪拾いを頑張った。でも、父親が、ほとんどふうの集めたきのこを、隣町まで持っていって売っ払い、酒にかえてしまった。産婆は酒では来てくれない。
だから、母親は自分で始末をつけるしかなかった。と久を生んだ時に随分無理をして、もう子どもはやめておいたほうがいいと云われたそうなのに、父親が無責任に作次をつくり、安全の為に必要な産婆をとりあげた。
それで、母親は死なないかわりに、一生頭痛持ちになった。作次も、年齢の割に体が小さく、すぐに風邪をひくひ弱な子だ。
――だから、あたしがこうしているのは作次と、姉ちゃんの為。作次がちゃんと育つように。姉ちゃんがたまにでも、ちゃんと里帰りできるように。家がなくなって淋しい思いをしないように。
自分か姉が、どこかへ売られるかもしれない。
と久がそれを知ったのは、去年の暮れだ。父親は大晦までに、地代を払えなかった。それで、正月の終わりまでにはと約束した。娘がふたりいるからなんとかなる、と。
その場面を、たまたまと久は見た。
と久は喋れるのに、こわくて姉に話せなかった。
そして、三月の初め頃に、父親が大金を持って帰った。ふうが、森の奥に住むことになった、分限者の若さまの、お妾になる、と。
両親は喧嘩になったけれど、ふうが行くと承知したので、その場はおさまった。ふうはすぐに森の奥に行ってしまって、それきりだ。
ふうが居なくなって、父親は楽しそうに酒を飲んだ。正月のはじめにもう決まっていたことだった、ここに移ってきた若さまの親戚だという男が、洗濯に出ていたふうを見て丁度いいと思ったそうだ、若さまが来るまで時間がかかったんでこんなに遅くなったけれどよかった、口もきかない娘は俺には居ない――。
金は、地代に消えた。でもそれも、去年の分だ。今年の地代が要る。
父親は、女はたいした仕事もしないのに金がかかると考えたらしい。と久に、隣町での奉公の口をさがしてきた。隣町にある呉服屋で、針子の仕事があるそうだ。ふうを顔も見せない男の妾に差しだしたことを悔いていた母親は、お針子ならまっとうな仕事だと、と久をはげました。
と久は承知して、すぐに迎えが来、村を出た。またすぐに会えるからと、眠っている作次の顔を見ただけで、言葉もかわさなかった。
村から出て歩いていると、迎えの男が気の毒そうに自分を見たのにと久は気付いた。
隣町に着いても、呉服店には行かなかった。宿に泊まり、まっしろい飯と貝の汁、豆腐を食べた。迎えの男はやけに優しい。
それは今もだ。と久は今、陸蒸気にのっている。最近できたばかりなんだぜ、と男は自分がつくったみたいに自慢した。
隣町どころか、と久が向かっているのは帝都だった。
なにかおかしい、と思ったのは、呉服店とやらへ行かずに隣町を出た時だ。と久は風呂敷に包んだきがえが重たいふりをして、速度をゆるめた。
それで、男が振り返り、云った。悪いけど、もうしばらく歩きだ、と。
――お針子、するんじゃないんですか。
――そういうふうに聴いてるのか。
男は気の毒そうだった。――俺ア、女衒だ。
その言葉の意味は知っていた。ふたり、ふうより少しだけ歳が上の子が、男につれられて村を出ていったからだ。母親が、娘を女衒にやるなんてと云っていた。女衒というのは、若い娘を買って、置屋へつれていく男のことだそうだ。置屋というのは、着飾った娘達が居て、男が遊びに行くところだ。
と久はぎゅっと唇を嚙んで、それから、わかりました、と云った。そこから次の日、船に酔うかい、と訊かれるまで、なにも喋らなかった。
「おと久ちゃんは、陸蒸気の揺れは平気の平左だな」
男がのうてんきに云う。と久はなんとも答えず、じっとしていた。本当は、気持ちが悪いし、眩暈もしている。
歩いて、乗り合いの馬車にのって、陸蒸気にのりかえた。家を出てから何日経ったか、わからない。途中、雨で足止めされた。歩きは疲れるし、馬車や陸蒸気のなかではうとうとしてしまう。
しばらくすると、揺れが停まった。と久は、男に腕をとられ、陸蒸気を降りる。
外には、見たこともないような数の人間が居た。
家の裏手に積んでいた薪のなかに、たまたま、うじがわいていたのを見付けた。その時に似た気色の悪さが、さっとせなかを撫でる。空気が悪いような気がする。実際、妙な匂いがしていた。
男は荷物を一旦下ろして、背負いなおした。と久はその間、ぎゅっと風呂敷を握りしめている。「悪いな、おと久ちゃん。もうすぐだからな」
男はやわらかい調子で云って、と久の腕をとった。潰される動物のようにひったてられるのはいやだったが、と久はひとの多いなかを歩くのに慣れておらず、結局は男の判断が正しい。
目を瞑って、男にひっぱられるまま歩いていると、喧噪がやわらいだ。と久はおそるおそる、目を開ける。
そこにも、大勢のひとは居たけれど、外なので圧迫感はない。空気も悪くはなかった。
男が停まる。
「おと久ちゃん、折角東京に来たんだ。うまいもんでもくわせてやろう」
と久は男につれられるまま、歩き、石でできたみたいな建物に這入り、椅子に座っていた。陸蒸気の椅子と違って、手で動かせる。男が椅子をひいてと久を座らせた。
男が向かいに座り、可愛い前掛けをつけた娘がやってきて、男となにか話した。それが食べものを注文するという行為だと云うことを、と久は知らない。ここは置屋だろうか、と不安になっている。
じっと体を小さくしていると、茶色っぽいものが見たこともない白い皿にのせられて、と久の前に置かれた。その横には、白っぽいざると、そのなかに香りのいいまるまっちいもの。
「これは牛の肉を煮たものだ。こっちはパンと云って、小麦の粉を練って焼いたもんだよ」
――仏さまに顔向けできない。
牛の肉を食べるのなら、牛を殺していると云うことだ。だから、それはなんとなくいやだった。でも、男は精一杯、と久によくしてくれようとしている。
と久は結局、男に云われるまま、きらきらしたものをつかって、それらを食べた。牛の肉は存外うまく、胸のつかえがとれたような不思議な感じがした。
「なあ、そこをなんとか……」
と久は正座で、じっとしていた。目の前には、肩から下ろした風呂敷がある。
と久の背後で、男と、ふとったひげの男がいいあっていた。「いい子なんだ。可愛いし」
「どこがだ、あんな山出しの猿。うちは美人しか置かないことにしてるんだっていつも云ってるだろう、松っつぁん。あんたはいつだって、要望通りの娘を見繕ってきてくれたのに」
「いや、おと久ちゃんは絶対にべっぴんになるよ、辰さん。田舎に居たから田舎らしく育っちまっただけで、江戸の水で二月も洗えば、なかから観音さまみたいなべっぴんが出てくるさ」
「そうは云ってもねえ……幾らあんたでも、今回ばかりは……」
「頼むよ。辰さんのとこが一番、女の扱いがいいだろう。おと久ちゃんには苦労させちゃいけねえよ。あの子はあくせくするのには向いちゃいねえんだ。品ってもんがある」
「あのうすぎたないのに?」
自分が値踏みされて、どうやらかいとってもらえそうにない、ということは、と久にはよくわかった。それから、女衒がどうしてだか、自分を高く買っているらしいことも。それがかなり格式の高いらしいこの置屋に娘を売りつける為だけの言葉なのか、本当に自分を思っての言葉なのか、と久には判断できない。
男達の声は低くなり、と久にはもう内容はわからない。それでもと久は、じっとしている。じっと、自分がどうなるか、待っている。
――姉ちゃん、大丈夫かな。
ふうは気が弱く、こわがりだ。森の奥の若さまは、こわいひとかもしれないと、そんな噂もあった。――金があったら、姉ちゃんを買い戻せるのに。
「ああ」
女衒から、辰、と呼ばれた男が、大きな声を出した。と久は体を震わせる。
「あんた、そうだ。二月もすればべっぴんになるんだったな?」
「ああ、請け負う」
「それじゃあ、わたしの弟のとこへつれていくといい。女給をひとりほしがっていた。そっちでしばらく働かせて、本当に美人になったらこっちにひきとる。それでどうだ?」
女衒はちょっと迷ったようだった。
「……わかった、それでいい」
そのあとは値段の交渉があって、と久は自分の処遇がどうやら決まったらしい、そして村へ戻される訳ではないらしいとわかって、こわいようなほっとしたような気持ちになった。
辰の弟の店は、辰の店からそうはなれていないところにあった。
「おと久ちゃん」
女衒の男は、その店の裏口の前で、立ち停まった。「悪いが、俺は千代さんの店には這入れない。こっから這入って、これを渡したらわかってくれるから」
差し出された紙切れをうけとる。男はと久の頭を軽く撫でた。
「達者でな。いい女になれよ」
男が離れていった。と久は男の後ろ姿へ云う。「ありがとうございました」
男は肩越しにと久を見て、軽く会釈した。
男が居なくなり、と久はひとつ、呼吸してから、裏木戸をくぐった。
一番最初に目についたおばさんを捕まえ、紙を渡すと、お勝手に通された。荷物をとりあげられ、手と顔を洗うように云われてそうする。端のほつれた前掛けを渡されて身につけ、すぐに洗いものだ。と久はひたすら、大根や里芋、ごぼう、それに葉っぱの塊みたいな変なものを洗った。
野菜を洗うのが終わると、風呂場の掃除と水くみを仰せつかった。ふうより少し上くらいの娘が、と久に色々と指図をしている。と久は文句も疑問も云わず、云われたことをただこなした。そして、すぐに日が暮れて、風呂にはいって寝るように云われた。
と久のような娘は、数人居た。皆一様に疲れていて、と久に喋りかけもしない。ひとりだけ、風呂桶はここ、手拭いはこっちのをつかっていい、洗ったものはここに置いとけば干してくれる、と教えてくれたが、一度きりだ。
と久は慌ただしく汗を流し、襦袢と手拭いを洗って指示どおりのところへ置いた。そのあとは、また、ふうの少し上くらいの娘が来て、と久の部屋はどこだと教えてくれた。
部屋には布団がいつつ敷かれていて、一番端で潰れたようになっている布団しかあいていなかった。だからと久はそこへ這入りこんで、あかぎれがひりひりするのにちょっとだけいやな気持ちになった。
寝入りばなに、作次と姉ちゃんはどうしているだろう、と思った。