西瓜
Mは語る。
あれは私が小学三年の、お盆の時期でした。
さんさんと降り注ぐ太陽の強い日差しを浴びながら、自由研究のために、セミを探して庭をうろついていた時のことです。背後から突然、
「ねぇ」
と声をかけられました。振り向いた先にいたのは、柔らかそうな物腰の女の人でした。年は二十歳前後でしょう。水色に朝顔の花が咲く、爽やかな浴衣が良く似合っていました。
「これ、重明さんにあげて」
彼女が差し出したのは、スーパーのレジ袋に入った西瓜でした。
「わぁ! 西瓜だ」
私は嬉しくて飛びつきました。彼女の家で採れたという西瓜は、人の顔くらいの大きさで、ずっしりと重みがありました。
礼を言うと、彼女は微笑んで、すぐに背を向けて去って行きました。それを見送ってふと、あの人は誰だったのだろうと考えました。小さな田舎の集落なので、住民同士はほとんどが顔見知りのはずなのに、彼女に見覚えがなかったことに気づいたのです。その上、西瓜に夢中になっていたためか、今見た顔が、どうもよく思い出せなくなっていました。
ともあれ、私は西瓜を抱えて家へと戻りました。
この日、私の家には、お盆ということで、親族たちが集まっていました。その中に、彼女が口にした、重明さん、という人もいました。祖父の姉の孫にあたり、この時は大学4年生でした。県外の大学へ進学して、一人暮らしをしていました。盆や正月くらいにしか帰ってこないと、孫を溺愛する大伯母はボヤいていました。
「おや、西瓜じゃないか。尚子、どうした、それ」
親族たちが談笑する座敷に足を踏み入れると、最初に声をかけてきたのは、父のいとこである斎藤おじさんでした。向かいには祖父がいて、私を見るとにこりと微笑みました。
「外で、女の人に貰った。重兄ちゃんにだって」
私はちらりと重明さんの方を見ました。縁側で座っていた重明さんはきょとんとした顔をしています。隣には、私の高校生の兄、悠太がいました。
「何、重明に?」
途端、おじさんはニヤニヤと笑って、重明さんを振り返りながら言いました。
「罪な男だねぇ」
「やめてくださいよ。おじさん」
重明さんは困ったように笑いましたが、まんざらでもなさそうな様子でした。高校生の頃は野球部のエースピッチャーで、整った顔立ちにすらりとした長身、誰に対しても優しく人懐こいとくれば、女性にもてるだろうことは、幼い私も分かっていました。本人にも自覚はあったのでしょう。
重明さんに憧れる気持ちがあったものですから、何だか面白くなくて、
「私も、これ、食べたい」
と不貞腐れたように言いました。すると、おじさんは何か気が付いた様子で、よしよしとなだめるように頷きました。
「そうだな。重明、みんなで食べないか? どれ、おじさんが切ってやる」
私の手からビニール袋を受け取って、西瓜を取り出した時でした。鋭い悲鳴が部屋に響き渡ったので、私は飛び上がりそうになるほど驚きました。獣か何かかと思ったのは一瞬で、人の声だということにはすぐ気づきましたが、何と叫んだのか分かりませんでした。唖然として、その声の主へと目を向けました。
「……驚いた。何だ、重明、そんな声出して」
おじさんが、まじまじと重明さんを見つめて言いました。重明さんのあんな声を聞いたのは、後にも先にもあの一度きりのことです。彼は、何かから身を守るように体を伏せていました。
「だってそれ! 西瓜じゃ……」
おじさんの言葉に、身を起こした重明さんは、目を見開いて西瓜を見つめていました。
「何だ? どうした」
片手で西瓜を持ち上げていたおじさんさんは、困惑したように周囲と顔を合わせました。
「……いや」
重明さんは掠れた声を出すと、隣の兄をちらりと見た。兄も分かっていないようでしたが、重明さんのただならぬ様子に、青白い顔をしていました。重苦しい、居心地の悪い空気が流れました。
「ハハハッ、重明」
その空気を振り払うように、明るい声で笑ったのは、おじさんでした。彼は西瓜を片手で自分の顔の前まで持ち上げると、からかうように重明さんを見ました。
「お前、意外と怖がりなんだな。どうしたんだ。この西瓜が、生首にでも見えたのか?」
「生首だって?」
祖父が嫌そうな顔をしました。
「何だって、そんな話、なかったかい? 西瓜が女の生首に見える話」
「じいちゃん」
兄が、二人の会話に割って入りました。
「いいから。俺が切ってくるよ。尚子、行くぞ」
兄はおじさんから西瓜を受け取ると、さっさと台所へと歩いて行ってしまいました。
「そういえば、そんな話もあったな」
「昔、ここのおじいさんが話してくれた昔話だったなぁ。あの話のせいで夜便所へ行けなくなって……」
祖父とおじさんは、重明さんの悲鳴など忘れたように、再び談笑し始めました。その間、私はずっと、重明さんの顔から目が離せませんでした。生首と言われた瞬間、重明さんの体がびくりと震え、顔面は血の気が引いたようにさあっと青白くなっていくのを見たのです。
「尚子!」
台所から母の呼ぶ声がして、私は慌てて駆け付けました。テーブルの上に、おぼんが用意されていて、包丁を持った兄が西瓜を切り分けているところでした。
「これ、運んでちょうだい」
切り分けられておぼんの上に並んだ西瓜は、真っ赤に熟れ、見るからにおいしそうです。私は嬉しくてたまりませんでした。
「尚子」
兄が言いました。
「この西瓜、どんな人がくれたんだよ」
「あら、そういえば」
母が手を止めて私を見ます。
「お礼をしないと。誰かしら」
「分かんない」
「分からないって、あんた、知らない人からもらったの?」
母の目に不穏な影が過るのを見て、私は肩をすくめました。
「重明さんにって、言ったんだろ?」
「うん。若い人だったよ。朝顔の浴衣着てた」
「浴衣? 珍しいわねぇ。夏祭りは来週なのに」
母はおぼんの上に西瓜を並べると、兄に手渡しました。兄は西瓜をじっと見つめながら、
「どうしてその人は、重明兄さんの家じゃなくて、うちに来たんだろう」
と、呟くように言いました。
私たちはみんなで西瓜を食べました。しかし、重明さんだけは、一口たりとも、口をつけようとはしませんでした。
それから一週間ほど後のことになります。父が、慌ただしく会社から帰ってきた日がありました。返ってくるなり、仕事用の鞄をソファに投げ出すと、スーツを脱ぎ始めました。いつもよりずいぶん早い帰宅でした。
テレビを見ていた私は、そんな父を驚いて見上げました。駆け寄ってきた母に、父は告げました。
「重明が、亡くなったらしい。今から、通夜に行ってくる。」
重明さんが食あたりによって亡くなったことを知ったのは、しばらく経ってからのことです。家はバタバタしていて、私はそんな大人たちをただぼんやりと眺めていました。人が死ぬということが、今一つ、実感できなかったためでもあったでしょう。そして何故か、あの時の西瓜が脳裏をよぎりました。
夏休みが終わる少し前、斎藤のおじさんがやってきました。おじさんは、盆や正月以外でも、たまにこうしてやってきては、祖父の話し相手をしていきます。庭で遊んでいた私は、おじさんの来訪に気づくと、家へ入って祖母を呼びました。畑で草を刈っていた祖父は、切り上げて戻ってきていました。
おこぼれにありつくべく、お菓子を持った祖母にくっついてやってきたとき、二人は縁側に腰を下ろしていました。
「西瓜が中ったって?」
祖父の声でした。祖母が縁側に飲み物とお菓子を置くと、おじさんさんは軽く頭を下げました。
2人が重明さんの話をしているらしいことは、すぐに分かりました。
「うん。そう言ってたよ。西瓜を食べて、具合が悪くなったらしい」
「どこで」
「さぁ……そこまでは」
お菓子を選びながら、ちらりと二人の顔を盗み見ました。先ほどは笑顔を見せていた二人でしたが、今は真顔で話し込んでいます。
「うちで出した西瓜じゃああるまいな」
「まさか」
おじさんは首を振りました。
「あれは、僕らも食べたんだから」
そして、ちょっと目を伏せると、祖父の顔を伺うように見ました。
「周りのやつらが、重明は呪われたんだって言うんだ」
「呪われた?」
途端、祖父は間の抜けた声を出しました。
「西瓜に中るなんて聞いたことがないし。いや、ほら、重明は、いろいろ……女のことで問題があったじゃないか」
「ああ……」
祖父がちらりと私に目を向けました。私は気づかないふりをして、また一つ、今度はおかきを手に取りました。
「重明には、あの西瓜が女の生首に見えたらしいんだ。ほら、あの時、大声を出しただろう?」
「バカな」
祖父は呆れたようにため息を吐きました。
「ああいうのは、幻覚みたいなもんだ。お前が怪談だの妖怪だの、子供に話して聞かせるから、脳が勝手にそういう幻覚を見せるんだ。お前、大方、その時言ってた女の生首の話、あの二人にしたことがあったんじゃないか?」
おじさんは苦々しく笑いました。
「うん。それだ。思い出したんだよ。女の生首の話。あの子らが子供の頃、話してやったことがあった。しかし、妙なんだよ」
「妙?」
おじさんは頬を掻くと、ぽつぽつと話し始めた。
「朝顔のね、浴衣を着た人が、西瓜を持ってきたらしいってのを聞いたら、重明が真っ青になってしまって……」
私はハッと顔を上げました。
「自殺した子がいたって聞いただろう? 重明のことで」
祖父がふいに、こちらへ顔を向けました。
「尚子、外で遊んできなさい」
普段であれば、動きたくない時は嫌だと駄々をこねるのですが、聞き入れてもらえないだろうことは早々分かったので、私は素直に表へ出ていきました。
セミはもういなくなって、コオロギが鳴き始めていました。自由研究は、ほとんど図鑑を写して終わらせました。結局、一匹も捕まえられなかったのです。この夏以来、我が家では、来客に西瓜を出さなくなりました。
重明さんの話は、大人になってから、改めて祖母から聞きました。当時大学生だった重明さんと同級生の間に、子供が出来たそうです。彼女は重明さんと結婚するつもりだったし、子供も産むつもりでした。重明さんも初めはそれを同意していたようですが、彼は優しい反面、あまり自分というものがない人でした。両親の反対にあって、重明さんはコロリと意見を変えてしまったらしいのです。
重明さんは半ば実家へ逃げるように帰ってきてしまって、その後、彼女とやり取りをしたのは重明さんの両親だったそうです。気の毒なのは相手の女性で、どちらの親も出産は反対だし、男は逃げてしまう、その後、女性は自殺してしまったのだそうです。朝顔の浴衣は、重明さんがその子と花火大会へ行ったときに着ていたものだったようです。そして、西瓜は女性の好物で、重明さんの食べた西瓜に、彼女の怨念がこもっていたのだと、そう言ったのは兄でした。しかし、あの女性が幽霊だったとして、何故、私の家へ西瓜を持ってきたのでしょうか。
「重明の自業自得だよ」
祖母は呆れていました。
「可哀そうなのは相手の子だ。自殺した挙句、呪いなんて言われて。悠太もバカだ。子供じゃあるまいし、呪いなんて、あほらしい」
祖父や両親もまた、兄の言動に少なからず呆れていたようです。重明さんの死に対して、親族たちは皆、同情を抱きながら、しかし、外聞の悪さも感じていたために、極力避けられる話題となって、ほとんど誰も口にする者はいなくなっていました。祖母が話してくれたのも、ずいぶん後になってからのことです。
そして、祖父たちの話していた怪談です。題は女の生首とかいうものだったように思いますが、それは次のような話です。
ある侍の家の小僧が、おかみさんに頼まれて西瓜を買ってきました。侍には、それがどうしても女の生首に見えます。首からは血が滴り落ち、ものすごい形相でこちらを睨んでいるのです。恐怖に耐えて、二つに切ると、生首は西瓜に戻り、中から女の髪の毛が出てきました。小僧と共に、この西瓜を買った行商人を訪ねると、それはある屋敷から買い付けたものだと知ります。最終的に、その家で起こった殺人に行き当たり、可哀そうな女の無念を晴らして、めでたしめでたし、というものでした。
ここまでですと、怪談とか、それこそあの女性の呪いだとか言う話になりますが、実は、これには続きがあるのです。
私の職場に、加藤という人がいます。年は私の八歳上で、気さくな明るい女性です。彼女には二つ年の離れた姉がいて、結婚して県外に住んでいます。この加藤さんと仲良くなり、姉家族を見せてもらう機会がありました。スマートフォンの中で、柔らかく微笑む女性の膝の上に、朝顔の浴衣を着た少女がいたのです。
「……この、浴衣」
「え? ああ、朝顔の浴衣? 可愛いでしょ。あまり良い思い出がないんだけど、珍しい柄だし、上質な物らしいから、子供用に仕立て直したんだって」
私は加藤さんの横顔を見つめていました。その顔に、どこか見覚えがあるような気がしたのです。
「良い思い出じゃないって?」
そっと、相手の様子を伺いながら尋ねました。加藤さんはスマホを弄りながら、少し逡巡するような様子を見せはしたものの、やがて話してくれたのです。
「昔ね、姉さん、ひどいのに引っ掛かっちゃって。子供が出来た途端、逃げたの。あんまりひどいもんだから、私、その男に言ってやった。あんたのせいで、姉さんが死んじゃったって。
学部が違ったらしいから、どうせばれないと思って、言ってやったの。真っ青な顔でブルブル震えてたけど、すぐ忘れるんでしょうね。ああいうやつは」
彼女の口ぶりに、強い感情は感じられませんでした。もう彼女は過去のことについて傷つくこともないし、憎しみを感じているわけでもないようでした。
「お姉さん、かわいそうね。その後、相手とは会わなかったの?」
「それがさぁ」
加藤さんは大げさな動作で、私の肩を軽く叩きました。
「姉さんたらバカだから、あの後も男の家に行ったらしいのよ」
当て付けてやろうと思って、わざわざ親族の家に押しかけて西瓜を渡してやったのだと、お姉さんは言ったそうです。
私の脳裏に、あの鮮やかな朝顔の浴衣が、はっきりと蘇りました。最後に2人が会った時の、彼の手土産が、西瓜だったそうです。