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8、隣人 2

 それからの1週間は、入学式の後、学部説明会、オリエンテーションなどが行われ、大学の準備で慌しく過ごした。大学生活に胸をときめかす新入生にとっては、新鮮で刺激的な日々だ。理工学部は男子学生が多いが、キャンパスの華やいだ雰囲気は、高校と違って確かに自由で開放された気持ちにさせてくれる。一人だった僕にも、自然に話が交わせる友人も出来た。

 きっと楽しいキャンパスライフが送れると、僕は疑いもしなかった。

 しかし、思っていたよりも大学内にいることが多くて、まだバイトを探せずにいた。今度の日曜日に、駅前のスーパーにでも当たってみようと考えている。

 それにこの1週間は、隣の矢木京にも会うことはなかった。勿論、広い学内で、学部の違う先輩に会うチャンスはないに等しいが、マンションでも、彼女の姿を見かけることはなかった。用もないのに尋ねるわけにも行かず、彼女の部屋のドアを見ながら、僕も落ち着かない日を過ごしていた。


 日曜日は久しぶりに朝から雨が降っていた。

 僕は自分の城になった部屋で、履歴書を書いていた。駅前のスーパーに夜の商品補充のバイト募集の貼り紙を見つけ、今日の三時に面接のアポを取った。アルバイトは生まれて初めてだが、売り場に商品を並べるくらいなら、経験に関係なくやれるだろうと思った。晴れて学歴に大学入学と書くのは、気分の良いものだ。一気に大人になったような気がする。大学に慣れたら、家庭教師かなんかと掛け持ちしてやれば、奨学金とあわせて、一人でもやっていけそうだ。本当にここの家賃が、格安なのは助かる。

 鬱陶しい外の雨など気にもせず、茶けた畳の上に胡坐を掻き、小さな白いテーブルの上の自分の書いた履歴書を鼻歌交じりで見直した。何もかもが順調に進んでゆくようで、楽しい気分だった。

 その時、窓の半分だけ開けていたカーテンがふわりと風を含んで揺れた。窓は閉めていたが、隙間風が吹き込んだのかと、ふっと目を向けた。2枚のガラス窓の半分から、灰色の湿った空が見える。そして雨に濡れた一間幅の狭いベランダが……。

「えっ!」

 僕は一瞬、息が止まった。窓ガラス越しに見たベランダに子供が立って、じっとこっちを見ている! 人形のように動きを止めたまま、瞬きもしないでじっと……。

 目を凝らして、その姿を見つめる。髪の長い女の子……?

「誰?……」

 訳が分らないまま僕が声を出すと、その子はふっと姿をカーテンの陰に隠した。途端に、ぞっと体温が下がるような緊張感を背中に感じて、体が強張った。

「ええっ!」

 はじかれる様に窓へ近づき、ガラッと乱暴に窓ガラスを開ける。

 でも、そこは引越しのダンボール箱が無造作においてある以外、何もないベランダ。勿論、三階の高さから見える、雨に煙る街の風景が広がっているだけだ。手で掴んだ濡れた鉄柵も異常はない。

「当然だろ……。三階だぞ。子供がここにいるわけない……」

 そう呟きながら、窓から出て、隣の部屋のベランダを見た。古びてはいるが、しっかりと目隠しのブルーのペンキの間仕切り版が、ひさしの高さまで嵌められている。人が隣から入ってこる事はおろか、覗く事も出来ない。

 僕は激しくなった雨の音に呟くように、

「気のせいだよな……」

 と、煙るように霞んでいる街を見回した。

 気のせいだ。雨で霞んだ風景を子供の形に見間違えたんだ。きっちりと窓を閉めながら、雨粒がガラスについているのを確認した。

 今日のような鬱陶しい雨降りは、有りえないモノを見てしまう事がある。錯覚、気の迷い……その程度の事だ。

 僕は大きく溜息を吐いた。

 一人暮らしに慣れてないから、まだ神経がびくついているんだ。

 確かに話す相手のいない空間にいると、いろんな気配を感じる事がある。誰かといる時は感じない物音や、普通は考えないような事に思考を巡らせたり……。

 まだ、真昼間だ。こんな時間に幽霊やお化けに会えるわけないだろう。

 そう思いながら、窓にカーテンを引いた。もう、鼻歌を歌う気分にはならなくて、ヘビーライズのロックナンバーをデッキに放り込んだ。途端に、部屋の空気は、激しいギターの音に木っ端微塵にされた。

 

 

 それから、僕は面接に行く準備を整え、部屋を出た。

 どこかで腹ごしらえをして、街をぶらついていれば、すぐに約束の時間になるだろう。

 雨は変わらずに、傘に重いくらい強く降っている。春の雨にしては大粒で、気温も高い。穿いているチノパンの裾がすぐに濡らされ、色が変わった。

 足元の水溜りを避けて歩きながら、矢木京の言った言葉を思い起こしていた。


『幽霊が出るのよ、あそこ』


 ピシャッと溜まった水溜りに足を落として、水しぶきでまたズボンの裾を濡らしながら、

「チェッ」

 と、舌打ちをした。

 気のせいだと思っても、不快な気分になるのは、彼女のこの言葉のせいだ。いや、こんな事を聞いたから、余計な幻視に惑わされるんだ。

 なんだか、根拠もないのに聞かせた彼女が、腹立たしく思えた。

 一人で中華料理店へ入り、昼飯を済ませ、少し本屋で立ち読みをして、面接まで時間を潰した。

 ゆっくりと駅前の通りを歩いていると、スーパーの手前に、小さなケーキ屋があった。

 僕は、帰りにここでケーキを買って、矢木京の部屋を尋ねようと決心した。嫌な話を聞かされた文句の一つも言ってやろう。

 

 街は、雨に明るい春の色を流されたように、モノトーンの景色に変わっていた。


 


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