61、 除霊
「あら、眠ったんですね」
戻ってきた京のお母さんがドアを静かに閉ざすと、僕に笑みを向けた。
「ええ」
ベッドで静かに寝息を立てる京を二人で見つめながら、同時に溜息をついた。お母さんは安堵した顔をしているが、僕は言い様のない不安に唇を噛んでいる。
「本当に大事に至らなくって良かった」
お母さんはぽつりと呟くと、ベッドの脇に置いてある椅子を僕の前に差し出した。
「掛けてください。コーヒーを入れるわね」
病室の隅の小さな流し台に向かい、置いてあるトレイに伏せられたカップを、二つ手に取った。
「京は、やっぱり妹の事を気に病んでいたんですね?」
ポットから湯を注ぎながら、背を向けたままで僕に訊いた。部屋に消毒薬の匂いに混じって、インスタントコーヒーの微かな芳しい香りがしてくる。痩せた肩と短い髪のウエーブの乱れに、疲れているのが見て取れる。僕は躊躇いがちに答えた。
「勿論、そうだと思います。いつでもどこにいても、真由子ちゃんの事は頭から離れないようでした。だけど、手首を切るほど思い詰めていたとは思いたくありません」
白いマグカップを差し出す、お母さんの沈んだ顔を見つめた。
「今回のことは衝動的に起こってしまったことだと思っています。彼女の意に反して」
と、受け取ったカップを口元に運びながら言った。
お母さんは僕の言葉に返事はしなかったが、コーヒーを啜る僕を黙って見つめた。
「明日、ここの心療内科の先生にカウンセリングをしてもらうつもりなの。京は私達の知らないところで、死にたいほどに苦しんでいたと思うのよ。それを心配かけないように、一人耐えていたのだと思います。真由子の事件があってから、私も夫も自分の苦しみにもがくだけで、京の気持ちまで考えてやれなかった」
「それは当然だと思います。僕にはわかるとは言えませんけど、事件に対しては本当に憤りを感じます」
お母さんは一段と暗い表情になった。事件の事をつぶさに思い起こしているのだろう。
「京に……、あんたが誘拐されたら良かったのにと、言ってしまいました」
そう言った口を慌てて手で覆った。途端に瞳が潤み、涙が頬に零れた。歪んだ顔が痛みに喘いでいるようだ。
僕はお母さんを見上げて、暫く言葉が出なかった。すすり泣くお母さんを見ていられずに、静かに眠る京を振り返った。確かに京はその言葉に酷く傷付いていた。
「京からお母さんの仰ったことは聞きました。すごく悲しかったと言っていました」
涙を手で拭いながら、お母さんは堅く目を閉じた。
「でも、京は分っていますよ。ご両親の嘆きように苦しんでいたし、その言葉はお母さんとの結び付きが強いから浴びせられたと……。もしお父さんからその事を言われたら、立ち直れなかったとも言ってました。京はお母さんの立場をちゃんと理解しています。そのことで自殺を考えたというのは、絶対に違いますから」
僕は真っ直ぐにお母さんを見た。自分を責めている気持ちは理解できるが、京は自分の事で家族が再び傷付くのを悲しむと思う。そうではないと伝えなければ……でも本当の事をどう言えばいいのだろう。躊躇っている僕に、お母さんは沈んだ声で話しだした。
「この子にはいつも甘えてきた気がします。真由子が生まれて家族を与えられたことで、京も幸せなんだと思い込んでいました。夫は優しい人でしたし、真由子のお陰で笑顔の絶えない家族でした」
「京は幸せだったと言ってましたよ。今でも大事な家族を失いたくないって思っているんです。だから、ずっと真由子ちゃんを探し続けていた」
「京がですか?」
お母さんは驚いたように顔を上げた。
「今のマンションに住みたいと思ったのは、HPに真由子ちゃんの情報が寄せられたからです」
「真由子の? もしかしてあの根拠のない書き込みを信じて?」
お母さんは顔を曇らせて、うろたえた様子で僕を見た。
「そうです。藁にも縋る想いで、引っ越してきたらしいです。勿論、何の根拠もないことはわかってましたけど」
まさか幽霊のことは言い出せなかったが、京の気持ちだけは分って欲しかった。お母さんは涙の滲んだ目で、静かに眠る京を見た。そして力のない声で呟いた。
「真由子の事は、主人も私も諦めようと思っています」
「え?」
「この子をここまで追いやったのは、私達がこの五年間真由子の事件で雁字搦めになっていたからです。嘆き悲しみ、体までボロボロになって、後悔ばかりしながら生きてきました。家族なのに支えあうゆとりもなくて……。昨日主人と話したんです。彼は初めて、諦めようと口に出しました。それは決して言ってはいけないことなのですが、私はその言葉を聞いて、正直とても慰められました」
「そんな、諦めるなんて……」
お母さんは引き攣った僕の表情に、小さく首を振った。
「真由子を探す事を諦めたというわけではないんです。そんなことは絶対に出来ません。帰ってくると信じていますし。そうではなくて、真由子の事件に全てを傾ける事をです。何故真由子がと考えると、京を責め、夫を責め、自分を責める。主人もそうでした。事件の起こった日から、私達は前に踏み出す事が出来ないでいたんです。主人と離婚したのも、子供を守れなかった自分が許せなかったからで、彼も同じ気持ちだったと分りました。京のしたことで、初めて何が一番大事か気付いたんです。嘆き悲しむよりも、真由子の帰宅を待つ家族がしっかり前を向いて生きなくては……。支え合って励ましあってゆく家族の事を一番に考えようと思うんです」
僕は唇を噛んで、話を聞いた。京が聞いたら、どんなに喜ぶだろう。
「京は、真由子ちゃんが戻れば、家族が元通りになると思っていました。両親のためにも、絶対探し出すと決心して……」
「かわいそうに、京は……。たとえ見つからなくても、京の家を失くしたりはしません。この子も大事な私達の娘ですから」
思わず、肩から力が抜けて行った。安堵した気持ちが大きなため息になって口から漏れる。
京が大切に思っていた家族は、運命に翻弄されることなく、彼女を愛してくれている。それがとても嬉しかった。
「お母さん。僕はずっと京の傍にいてやろうと思っています。京は、僕の大事な人なんです」
思わずそう言ってしまって、恥ずかしくて俯いた。お母さんは涙の顔を向け、笑みを浮かべた。
「ありがとう。田崎さんと知り合って、京はほんとに明るくなりました。感謝しています」
二人で眠っている京を見つめた。
これから彼女の身に起こる、様々な事を思うと不安は拭えない。さっき、京の身に起こったことも、尋常なことではない。でもお母さんの言葉は、僕にも力を与えてくれた。
夕食の配膳が始った廊下の音にせかされるように、僕は病室を出た。そして、病院の玄関から外に出ると、高藤にケータイを掛けた。
「高藤さん? 田崎です。京の様子が仰る通り変でした。出来たら、会って話したいのですが」
――――「わかった。車だから、今からそっちに行く。二十分で着く」
「はい。病院の玄関で待っています」
薄い雲が暮れ行く空に影を落としているが、まだ西の空は茜色に染まっている。涼風に頬を撫でられ、大きく息を吸い込んだ。
僕の心に一条の光が差し込んできて、巣食っていた恐れや不安が消え去った気がした。




