57、 変貌 5
僕は咄嗟にベッドに腕を突いて、彼女から体を離した。彼女の言葉を確かめるように、表情をつぶさに見て訊ねる。
「京……。何があった?」
揺れる黒い瞳を、息を呑んで見つめた。逢って、一番に確かめたかった昨日の出来事……でも声が震えるくらい、彼女の答えが怖い。
京も震えている。動く右手で自分の肩口を掴み、堅く目を閉じた。まだ薄い色の唇を噛み締めている。
彼女の真っ黒な癖のない髪を、額からゆっくり掻き上げた。京は僕の指を感じながら、暫く表情を堅くしていたが、薄っすらと唇を開き息を漏らした。そして、ゆっくり目を開け、覚悟を決めたように僕の目を真っ直ぐに見た。
「私、気が変になったの。死にたいって思ったんじゃない!」
彼女の言葉に、ホッとした。
「じゃあ、何かあったんだな? あの部屋で」
「うん……。真由子が毎晩やってくるようになって、深夜まで真っ暗な部屋で遊んでいたの。電気を点けると消えちゃうから、真っ暗な中で二人で。真由子、ディズニーが好きだったから、いっぱい買ってあげて……。笑うのよ……。京お姉ちゃんって言って……。私、すごく嬉しくて、毎晩真由子を待ってたの」
京の瞳はオドオドして、左右に揺れる。眉を寄せて、話しながら目をぎゅっと瞑ったり、見開いたりと落ちつかない。
「千葉へ帰る前から、会ってたのか。まゆこと毎晩?」
こくりと頷く京に、僕はため息を吐いた。まゆこには会っていない様な口ぶりだった。お陰で僕は、妹の事は忘れられるのではと思ったりした。それがこんなことに……。
「僕には言えなかったの? まゆこと会ってるって」
「ごめんなさい。亮は絶対反対すると思ったし、貴方を嫌なことに巻き込みたくはなかった。真由子のことは私の問題だし、それに何が起こるか分らないもの」
「バカヤロウ! 死ぬとこだったんだぞ!」
京の肩を思わずきつく掴んで、怒鳴った。彼女がビクッと体を固くした。
「京の気持ちは分ってるよ。僕のことを考えてくれたんだろうけど、連絡もないし、どんだけ心配したと思ってんだ! じゃあ、ずっとあの部屋にいたのか? 千葉から帰ってから……」
京は目を伏せて、こくりと頷いた。きつい口調になった僕に詫びるように、暗い表情になって見返した。
「本当にごめんなさい! 貴方の電話で真由子が私を探してるって知って、居ても立ってもいられず帰ってきたの。でも、あの女が現われるようになって……。怖くて怖くて、私……。でも真由子を取り戻さなきゃあって……」
京は片手で顔を覆うと、泣き声になって答えた。
「もういい。分ったよ。もう終わったんだ」
僕は堪らずに京を抱き締めた。そして思わず耳元でため息を吐いた。連絡しなかったのは、僕を思ってのことだと分っても、まだ真由子に振り回される京が何となく腹立たしい。怖い目にあっていても、僕に助けを求めなかった京が僕の気持ちを落胆させていた。
「真由子をとりもどさなきゃあ……」
泣き声が途切れ、小さな声で京が呟いた。
「京?」
腕を離して、彼女の顔を覗きこむと、視線を僕の肩越しに向け、無表情で天井を見ている。いや、大きくなった瞳孔には、何も写ってはいないようにぼうっと虚ろな表情になっている。
「真由子を……連れて行かないで!」
と、声を上げると、京の右手がベッドに突いていた僕の腕をやにわに掴んできつく爪を立てた。手の指が筋肉を押し潰すほど、ぐぐっと締め付ける。
「痛い! 京、どうしたんだよ!」
腕から手を離そうと彼女の手首を掴んだ。京の表情は見る見る強張ってゆき、大きく見開いた目が驚いたように僕を見る。そしてただ言葉ににならない声ををうっすら開いた唇から繰り返し始めた。顔は青褪めて、脅えているようだ。
急に様子が変わった京に驚いて、彼女の頬に手を宛がった。その途端びくんと体を震わせると、突然、
「きゃああっ!」
と叫んだ。
「京!」
「いやあっ! やめてえっ!」
腕を突っ張り、体を捩って暴れ始めた。かぶさった僕の体を跳ね除けようともがいて、点滴をしている方の手も振り翳してくる。
「京! 落ち着いて!」
手を押さえつけて怒鳴ったが、激しく暴れ始めた。
丁度、ドアが開いて、看護士が飛び込んできた。
「どうしたんですか?」
「急に暴れ始めたんです!」
看護士は京の点滴した方の手を慌てて掴んで、ベッドのサイドガードに縛り付けた。京は抵抗するように激しく僕の下でもがく。体重を乗せて彼女を押さえつけている間に、看護士は手際よく彼女の両手をガードに固定した。
「今、先生を呼びますから!」
ナースコールを押し、冷静な顔で京を見ると、
「矢木さん! 大丈夫よ。落ち着いて!」
と、引き攣った京の顔を両手で挟んだ。
「助けてえ!」
白い病室に京の悲鳴が響いた。彼女の目は僕を脅えるように見つめている。必死に両肩を押さえつける僕の手から逃れようと、シーツを跳ね除け、足をバタつかせた。
廊下にバタバタと靴音がして、数人の看護士が飛び込んできた。
「矢木さん! 落ち着いて!」
三人の看護士が僕の代わりに彼女を押さえて、かわるがわる声を掛けた。京は泣き叫んでいる。
「大丈夫ですから、貴方は出てください!」
看護士の一人に言われて、僕は京から手を離し体を起こした。丁度、医師が入ってきて、後ろに引いた僕の代わりに傍に立った。
京は僕が離れるとやっと暴れるのをやめ、荒く呼吸を繰り返している。
「大丈夫だから、病室から出ていてください」
振り向いた看護士に言われ、僕は後ずさるようにして室内から廊下へ出た。
半分開いた扉から、京の様子を見ている……。看護士と医師に囲まれて、京はすすり泣いている。カチャカチャと医療器具の金属音がして、医師が彼女の腕に注射をしているのが見えた。
僕は頭の中が真っ白になったまま立ち尽くしていた。「助けて」と、恐怖に顔を引き攣らせた彼女の叫び声が頭に渦巻く。彼女は僕から逃げ出そうともがいたのか……。全身がショックでしびれたように麻痺していた。まるで、彼女に拒まれたような気がした。
暫くして、看護士が僕の前に出てきた。
「大丈夫です。ちょっと何かを思い出して、興奮しただけだから。鎮静剤を打ったので、このまま暫く眠ると思います」
僕は黙って頷いた。
「田坂さん!」
京の両親が戻ってきて、立ち尽くす僕に駆け寄った。
「どうかしたの? 京」
「暴れたんです……泣き叫んで……」
「ええっ!」
両親は慌てて病室へ入った。
中で看護士から話を聞きながら、二人は京の傍へ近づいた。もう彼女は泣きやんでいて、落ち着いたようだった。
だけど、僕は病室に入れなかった。足が廊下に吸い付いたように動かせない。
僕を見る京の脅えた目が、頭の中に何度もうかんで来た。




