56、 変貌 4
次の日の朝、京はやっと一般病棟の個室へ移され、僕達も面会が許された。
「今は眠っていますが、様態は安定していますから、ご心配なく。薬が切れれば気がつくと思います」
と、頭のナース帽に黒い二本線の縁取りがついた四十歳位の看護師が、落ち着いた柔らかい笑みを浮かべて言った。眠っている京は、輸血は済んで、今は黄色い液の入った点滴の管を、細い腕に差し込まれている。
白いカーテンに和らげられた朝陽が、京の眠るベッドを穏やかに包む。昨夜のおぞましい出来事が消し去られたように、室内は暖かくて優しさに満ちている気がした。
「京……」
少し赤みの差してきた彼女の頬に、顔を寄せて母が声を掛けると、京は薄っすらと目を開けた。
「京! 気がついた?」
継父と母がベッドに取り付くように身を屈めて、名前を呼んだ。僕はその後ろから、高藤と覗き込むように京を見る。
「お継父さん、お母さん……。ごめんなさい……。心配かけて……」
京は途切れ途切れにそう言うと、二人の背後から顔を覗かせる僕らに気付いた。
「亮ちゃん……。タカさんも……」
目を細めて、京は笑いかけた。力ない笑みだったが、僕はやっと体から緊張が解けた気がした。ポケットに引っ掛けていた手をグッと握り目を瞑ると、「よかった」と呟いていた。
「ごめんなさい……」
京はもう一度繰り返すと、静かに目を閉じ、眠りに引き戻されていった。
高藤と顔を見合わせ、ほっと息を吐いた。不安や緊張で混濁した頭の中を占めていた彼女に対する腹立たしさも、一瞬で消え失せた。ただ京の安らかな寝顔を見て、無性に抱き締めたくなった。
「高藤さん、田崎さん。本当に有難うございました。一晩中付き添わせて、ご迷惑をかけてしまって。私達が着いていますので、どうぞ休んでください」
京の母がそういって僕達に深々と頭を下げた。
「そうですね。もう心配ないだろうから、京ちゃんが目を覚ますまで、僕達は引き取らせてもらおうか」
と、高藤は僕の肩に手を置いた。
彼女の傍から離れたくなかったが、両親がいれば京も安心できるだろうと、頷いて一旦帰ることにした。
高藤に車でマンションまで送って貰って、部屋に戻った。
鍵も掛けずに飛び出したままの玄関へ入ると、足元にケータイが転がっていた。昨夜の落としたままで、着信の信号を光らせていた。
拾い上げて開けると、桂木からメールと、早朝に長野の母からの不在着信。
「母さん……。何だろ」
直ぐに掛けると、待っていたかのように母がケータイに出た。
「あ、母さん?」
――――「母さんじゃないわよ! 今起きたの? 」
ぼうっとした頭に、大きな母の声がしかりつけるように響いて、思わず顔をしかめた。
「え? ああ、ごめん。何かあったの?」
――――「何かあったのって、あんた何もなかったのね?」
「え? どういうこと?」
――――「何もないならいいのよ。ちょっと気になったものだから……。いえね、夕べあんたの夢を見たんだけど、それが真っ暗な中でずっと泣いてる夢で、あんまり目覚めが悪くて、何かあったんじゃないかと思って」
母はホウッとケータイにため息を吐くと、安堵したのかふふっと笑い声を上げた。
――――「子供じゃないのにねえ」
優しく届く声に胸が詰まる。僕が今まで経験したことがない辛い想いを、離れた母が感じていたのかと思うと、驚きと共に嬉しさが込み上がる。母はどんな時でも僕や妹のことを、一番に思っていてくれるのだろう。
「何もないし、元気にやってるよ。夢見たくらいで心配するなよ」
声が震えないように、すこしきつく言った。
――――「そうね。安心した。それだけよ。じゃあ、切るわね。忙しいから」
「あ、母さん。ちょっと聞きたいんだけど、うちのご先祖に誰かお坊さんとかいた?」
――――「え? ご先祖? お坊さんはいないけど……。ああ、私の実家の方は藩のおかかえの刀鍛冶だったらしくて、地元のお寺を建立する時に尽力したって話だけど……。何なの? まさか、そこで変なことにあったの?」
「このマンション? あ、違うよ。何も無いけど……」
――――「亮輔、大丈夫よ。貴方はご先祖様にしっかり守られているから。じゃあ、切るわよ。また連絡してきなさいよ!」
「あ、ああ。有難う、母さん!」
ケータイの時刻が、午前九時になっていた。近くの会社で事務のパートをしている母の出勤時間だった。何だか、母からもっとご先祖のことを聞きたい気がして、切られたケータイを見つめた。霊感などないと思っているが、高藤が先祖のことを教えてくれてから気になっていた。本当のところ、自分にここで起こる奇妙な現象と戦える力があると、母の口から聞きたかったのだ。
「そんなわけないよな」
靴を脱ぎながら、部屋を一通り見回した。それから、とにかく疲れた体と神経を休めたいと、ベッドへ行って寝転がった。
でも、薄汚れた天井を見ていると、風呂場で横たわった京の姿が浮かんできて、堪らず両手で顔を覆った。
「本当に……良かった。京が死んでいたら、僕はどうなっただろう」
あの時のショックが、再び蘇る。京は死にたいと思って手首を切ったのか、それとも高藤の言うとおりに、あの女の霊に殺されかけたのか……。そんなに京に恨みを持っているのだろうか? あの霊が中本さんの奥さんなら、まゆこに執着する気持ちは分るが、京を殺したいほど恨みに思うことなんてないだろう……。ましてや、妹の遺体が出てきた訳じゃなく、生死は分らない。疲れた脳は堂々巡りに、理由を突き止めようと働く。でも、結局のところ溜息しか出ない。
静かに目を閉じた。とにかく、京が目を覚ませば分ることだ。
静かな部屋に、いつの間にか僕は寝息を立てていた。
午後になり、駅前のファーストフードで軽く食事して病院へ向かった。もしかしたら、京はもう目覚めているかもと、逢いたい気持ちがつのった。
白一色の病院の廊下を、はやる気持ちで歩いた。大学も行く気がせずに、桂木に休むとメールした。でも流石に昨夜のことは彼にも話す気がしなかった。
少し緊張して病室の前に立ち、軽くノックすると直ぐに扉が開けられた。出てきた京の母親が、僕を嬉しそうな顔で見上げ、扉を大きく開けた。眩しいほどに白い病室の中、開いた窓から風が入り、薄いカーテンが波打つ様に揺れている。
「京……!」
ベッドのヘッドを上げて体を少し起こした状態で横たわり、京は顔を向けた。
「亮ちゃん……」
と僕の名を呼ぶと、みるみる黒い瞳に涙を溜めた。やつれた顔に力ない微笑み……。その痛々しい姿に、胸が掻き毟られる。近寄る僕に、京は右手をゆっくり差し出した。その手を掴んで傍に立ち微笑む。彼女を放したくない気持ちで、手に力を入れた。
「田崎さん、いいところに来てくれたわ。主人と交代で食事に行こうと思ってたんですけど、京をお願いしてもいいかしら? 私も済まして来たいので」
「あ、はい。いいですよ。ここにいますので」
疲れた顔の母は、それでも表情が明るくなっていた。気を使ってくれたのか、僕達に微笑み、そのまま廊下へ出て行った。
扉が閉められると、京は僕を見つめて頬に涙を零した。
「亮……。ごめんなさい……」
震えた声でそう言って、唇を噛む。涙を搾り出すように目を閉じ、京は泣きじゃくり始めた。
「良かった……。本当に心配した」
彼女の白い首筋に、顔を埋めた。唇に京の暖かい体温が伝わってくる。京は動かせる右手を僕の頭に宛がい、抱き締める。安堵した気持ちが愛おしさに変わる。お互いを慰めるようにそのまま暫く動けずにいた。
そして京は、
「私、死にたかったんじゃない」
と泣きながら、僕の耳に囁いた。
更新遅くなりました。
また、詰めて書きますので、宜しくお願いします。




