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55、 変貌 3

 トイレから出ると、処置室の前に、高藤と話をしている中年の男女が見えた。

 高藤が僕に気付いて、

「あ、田崎! 京ちゃんのご両親だ」

 と、顔を向け手招きした。やはりと思い、振り向いた二人に軽く頭を下げ、駆け寄った。

「京ちゃんと同じマンションに住んでいる田崎君です。彼が部屋で倒れている彼女を発見したんです」

 高藤がそう紹介すると、両親は僕に体を向け、

「矢木です。この度はなんてお礼を言って良いのか、本当に有難うございました」

 と、揃って僕に頭を下げた。二人とも痛々しいほど蒼白の顔で、お母さんの方は涙の滲んだ目にハンカチを当てた。

「いえ……。近くにいながら、こんなことになって。すみません」

 謝らずにはいられず、僕は唇を噛み締め、下を向いた。京を守ってやれなかった不甲斐なさに、悔しさが込み上げる。

 高藤から無事を聞いて安心したのだろう。まだ緊迫した表情だが、両親は僕に微笑みかけ、感謝の言葉を繰り返した。

 

 処置室から出てきた看護師に、両親が到着したことを伝えると、暫くして医師が出てきた。歩み寄る両親に丁寧にお辞儀をして、医師は京の状態を説明してくれた。

「出血が酷かったので、今は輸血をしています。徐々に脈拍、血圧とも正常値にまで上がると思いますので、ご心配はいりませんよ。ただ、体が酷く衰弱しています。脱水症状もありますし。経過を見ないと詳しいことは分りませんが、特に余病がないとしたら、精神的なものが原因かと……。自傷ですから、体調が戻られたら、カウンセリングを受けられたほうがいいでしょう」

 医師の言葉に、僕達も両親も動揺した。聞くまでもなく、京は自分で手首を切ったのだ。両親は自分達に責任があるというように、暗い表情でうな垂れている。

 医師は両親を気遣いながら、顔を曇らせて話を続けた。

「左腕の傷は、肩から直ぐの位置から手首まで、20箇所に及びます。切り口が浅いものは傷が塞がっているものもあって、何と言うか、発作的に自殺を図ったとは言い難いですね。3、4日前から、傷を作っていて、肩の近くは絆創膏で手当てしてありました。命を絶とうというよりは、自虐的な行為かと。安定剤は使用しますが、暫くは目を離さないようにすべきかと思っています」

 高藤と顔を見合わせた。医師の言葉は、誰か違う人間のことを語っているのではと思えた。

「京を、娘を、そこまで追い詰めたのは私達です……。でも、本当に助かってよかった。この三日程、連絡が取れなかったのですが、大学が忙しいのだろうと思い込んでいました」

 継父は声を震わせ、医師に言った。

「三日前までは、連絡していたのですか? 京は」

 僕は、うな垂れた父親の背中に思わず訊ねた。

「ええ、毎日大学へ行っている。忙しいから、また暫く帰れないと三日前にケータイを掛けてきました。声は明るかったので、まさかこんなことになるとは、思いませんでした」

 京から掛けていた? じゃあ、やっぱり僕達には、意図的に連絡を絶っていたのか。何故?

 僕に振り向いて答えた父に、今度は高藤が静かに訊ねた。

「京ちゃんは、千葉へ帰るまで、全く変わったところはありませんでした。妹さんのことで心を痛めていたのは知っていますが、手首を切るような、そんな精神状態じゃあなかった。失礼ですが、もしかしてご実家で何かあったのではないですか?」

 彼の言葉に、京の継父も母も、ぐっと眉を寄せ辛そうに顔をしかめた。でも、涙声の母親は、首を振りながら、

「帰って来て四日目にこっちへ戻ったんですが、いつもより明るく笑っていました。お継父さんとお母さんのために頑張ると言って……。妹のことがあったので、前向きにやってゆくと言う意味だと思ってました。三人で暮らせることを本当に喜んでいたのに。だから、私達にも本当に思い当たることがないのです。あの子がこれ程思い詰めていたなんて、思いも寄らなかった」

 と、継父の腕を両手で掴み、顔を見ながら、そう打ち明けた。

「今まで、辛いことが続いていたから、京の中で何かが変わったのかも知れない。我慢強い子だと、私達も知らずにあの子に頼っていたし、傷付けていたのかも知れない……」

 継父は、堅く瞼を閉じ、俯いて唇を震わせている。その様子に、高藤も僕もそれ以上訊くことは出来なかった。

「事情はお嬢さんが気がつけば、分るでしょう。あまり考えすぎないで下さい。辛いお気持ちはお察ししますが。状態が安定したら病室へ移しますので、それまでお待ちください」

 医師は、もう一度頭を下げ、また処置室へ戻っていった。

 

 四人で、並んで長椅子に座った。廊下の灯が、肩を落とした僕達を浮かび上がらせる。

 京の顔を見るまで、安心できない。僕は黙って、彼女の母の隣で、膝の上に拳を握り唇を噛み締めていた。頭の中は、思い当たる原因を懸命に考えている。京に会えなくなって十日ばかりの間に、命を絶ちたいと思うほどの原因など、妹のこと以外浮かばない。

 もしかして、あの女の子が真由子ちゃんだと知り、打ちのめされたのか? 最後のケータイは確かに沈んでいた。でも、死んでいると確証もないのに自殺しようと考えるだろうか。京なら、妹に起こった真実を知りたいと思う方だろう。家族を大事に思っている京が、両親を悲しませるようなことをするはずがない。京の行為は、どうしても納得がいかなかった。

 通路の一点を凝視したままで、京のことを考えていた僕に、

「あの……」

 と、母親が顔を覗きこんできた。

「田崎……亮輔さんですね」

「あ、はい……」

 京の母は、彼女とよく似た面長の顔にはっきりした黒い瞳を向けて、僕が顔を向けると口元を少し緩めた。皺が刻まれた目元は、酷く疲れているように見える。

「京から、大学の後輩が同じ階にいると聞いていました。妹のことを打ち明けても、嫌がらず、いつも助けてくれる人だって、嬉しそうに話していました。貴方の名前が話しに出てくるようになって、見違えるように明るくなったんですよ。帰ってきたときも、率先してビラを配ったり、支援者の人に会ったり。今まで、自分のために妹が誘拐されたと言われ、世間の目から逃れるように生きてきた子でしたから、人と交わるのを怖がっていたんです。でも、大学で高藤さんのサークルに入って、少しずつ前向きになり、やっと立ち直ってくれたと喜んでいた矢先にこんなことに……。三人で真由子を待とうと話したばかりだったのに」

 京の母は、辛そうに目を細め、口元でハンカチを握り締めた。

「一人暮らしを心配したら、京は、亮ちゃんがいるから大丈夫と、笑っていました」

 京の母の言葉に、ズキンと心が痛みに囚われる。僕は両手で顔を覆った。自分が許せなくて、奥歯を喰いしばった。何故、連絡が無いことをもっと重大に考えなかったのか。合鍵を持っていて、確かめるなんて容易なことだったのに! 京がいないと思い込んで、あそこから逃げ出していたんだ。京は絶対、僕に助けを求めたに違いない。 

「喉が渇いた。何か飲み物を買ってきます。田崎、頼む」

 高藤が僕の肩を掴んで、立ち上がらせた。そして、僕の背を押して、両親の前を離れた。

 

 薄暗い廊下を、外来受付の広い待合室まで、歩いてきた。昼間の混雑した場所は、通路の照明以外は消され、今は怖いほど静かだ。

 高藤は、並んだ自販機から飲み物を買って、冷たい缶を僕に手渡した。

「なあ、田崎。どう思う?」

「え?」

 四本目のコーヒー缶のプルタブを開けながら、彼は神妙な顔で僕を見た。

「京ちゃんは、帰ってから、ずっと部屋にいたのかなあ。あんなに怖がっていたのに」

「きっと、いたと思います。部屋はディズニーのグッズでいっぱいでした。もしかして、あれは真由子ちゃんのために集めたのかも知れない。京はあの子の姿が見えるようになっていたから、会っていたんじゃないかと……」

 大きく息を吐いた高藤は、険しい顔をして言った。

「会って、妹と確信したのか。彼女……。闘うつもりだったんじゃないか? あの女の霊と」

「まさか……。一人で?」

「彼女が自殺を考えるなんて、信じられるか? 躊躇い傷にしては、20箇所は多い。あの部屋で、何か起こったとしか思えない」

 高藤はコーヒーを一気に喉に流し込むと、暗い天井を見上げ話を続ける。

「京ちゃんが連絡をしなかったのは、ある意味、君を巻き込みたくなかったんだろうな。自分ひとりで、妹のことをはっきりさせたかったのかもしれない。だから千葉にいるからと安心させたんだろう。彼女にも、部屋で妹の霊に会うことが危険なことだと分っていたから、君を遠ざけたんだよ」

「そんな……」

 僕は絶句して、高藤を見た。彼は硬い表情のまま、僕の肩に手を置いて言った。

「京ちゃんは、そんな女だろ?」

 彼の言葉が、胸をえぐった。僕は缶コーヒーを抱えたまま、その場に座り込んだ。

「京……」

 涙が、また滲んできた。でも、今度は嬉しくて泣き出したんじゃない。

 京の気持ちを理解できなかった、馬鹿な自分が情けなくて、悔しくって、心が呻いているんだ。

 

 

 

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