54、 変貌 2
「きゅ、救急車!」
京を抱えたまま、Gパンの後ろポケットに手を伸ばしたが、ケータイがない。さっき玄関で落としたのを思い出した。慌てて京のケータイを探そうと、部屋を振り向いたが、テーブルの上にもローボードの上にも見当たらなかった。
「くそっ!」
ケータイを取りに部屋へ戻ろうと、京を床に寝かした時、突然に部屋のチャイムが鳴った。ドアを振り向く僕に、
「京ちゃん! いるの?」
と、低い高藤の声が聞こえた。
「高藤さん! 京が!」
上擦った僕の声に、ドアが直ぐに開いて高藤が驚いた顔で入ってきた。
「どうしたんだ! 京ちゃん!」
「手首を切った! 早く救急車を呼んで!」
高藤は、靴のままで部屋に上がり、タオルで縛った手首を見て、屈むと京の首筋を触った。
「大丈夫だ。まだ脈には触れる。このまま病院へ運ぼう」
そういうと、自分の薄いジャケットからハンカチを取り出し、傷の上部へ巻きつけ止血した。そして寝室へ入り、ベッドカバーを引き剥がしてきた。
「これで体を包んで。一番近い病院は?」
「大山病院。ここから1キロくらい」
「分った。行こう! ここの鍵は?」
高藤は鍵を受け取ると、京を抱き上げた僕を部屋から出して、
「下の車に乗って」
と言って、鍵を掛けた。階段を降りる僕の後ろで、高藤はケータイで病院へ連絡を入れている。
「救急外来をお願いします。はい、手首を切って出血が酷いです。脈はありますが、意識が無い。車なので、5分で着きますので」
ケータイを切って、彼は僕の背に手を当てると、
「大丈夫か?」
と、訊いてきた。奥歯を噛み締めたまま、こくりと頷くと、
「心配ないよ。こんなことで京ちゃんは死んだりしない」
と言って、見えてきた青い車に駆け寄った。そして後部のドアを開けると、運転席へ乗り込み、直ぐにエンジンを掛けた。僕が京を抱えたまま車に乗り込むと、マンションの前の通りをタイヤを鳴らし、急発進した。
高藤に駅を越えた病院の場所を教え、抱いている京の顔を覗きこんだ。眠っているように見える。頬を近づけると、微かに息がかかる。でも唇が真っ青で、血の気のない顔は能面のようだった。
京を抱き締めた。「何故、こんなことを」と、問いただしたい気持ちが溢れてしまいそうだ。そんなに苦しんでいたのか。どうして僕に打ち明けなかったのか。
「しかし良かった。君が発見して……」
と、高藤は運転しながら、大きくため息を吐いた。その言葉に、僕もぞっと血の気がひいた。もし高遠がケータイをしてくれなければ、もしまゆこが現われなければ……。生きている京に会えなかったかも知れない。
「高藤さん……」
「ん?」
「電気のついていない部屋を見て、京は帰っていないと、実は一旦諦めて自分の部屋へ戻ったんです。そうしたら、例の女の子が現われて、『おねえちゃんが死んじゃう』って教えてくれたんです」
彼は、小さく「えっ」と驚いて声を上げた。僕は京の顔を見つめながら、
「あの子は、間違いなく京の妹です。お姉ちゃんを助けてくれたんだ」
と、意識の無い京の耳元に口を近づけて言った。運転席で高遠が頷き、バックミラーに映る緊張した顔が、ふっと緩んだ。
フロントガラスに、大山病院の大きな建物が見え、『救急入口』という赤い文字の案内板が目に入った。高遠がハンドルを切って駐車スペースに停まると、直ぐに看護師が駆け寄ってきた。暗い病院の入口のドアが開け放され、数人の看護師と医師がストレチャーを持って、待機していてくれた。
僕は京の乗ったストレチャーについて行きながら、彼女の状態を医師に説明した。まだ30代の若い医師は、うんうんと頷きながら、足早に歩いてゆく。そのまま京は、薄暗い廊下の突き当たりにある緊急処置室と書かれた病室へ運び入れられた。
「付き添いの方はここでお待ちください」
と、緊迫した顔で看護師に言われ、僕はその場に立ち尽くした。左右に開く扉から、薄暗い廊下へ中の明るい光が漏れるたび、看護師達が硬い表情で慌しく出入りする。中の声は聞こえなかったが、楽観できる状態でないのは察した。
暫くして、高藤も入ってきて、僕の隣に立った。
「処置中か。とりあえず、彼女の家には連絡しておいた。ご両親は動転していたが、直ぐに来ると言っていたよ。千葉からだと車で一時間くらいは掛かるが、十一時前には着くだろう」
高藤の言葉を聞くと、途端に立っていられなくなり、そのまま簡易なビニール張りの長椅子へ腰を下ろした。頭を抱えた僕の隣に、高藤も息を吐きながら座った。二人とも沈黙したままで、処置室の扉を見ていた。
30分程して、やっと扉が開き、さっきの医師が出てきた。立ち上がった僕達に、軽く会釈をして、
「大丈夫ですよ。手首の傷は縫合しました。動脈を完全に切断した訳ではなかったので、直ぐに出血は止まると思いますが、多量の出血でしたから命に関わるところでした。何にしても発見が早かったので、大事に至らずに済みました。良かったですね」
と、マスクを片耳に引っ掛けたまま、穏やかに話してくれた。
「ありがとうございます」
二人で深々と頭を下げ、また処置室へ戻る医師を見送った。その後、看護師が出てきて、京の身元を高藤にいろいろと訊ねた。両親が向かっていることを話して、僕達が大学の友人であると言うと、看護師は目を細めて「よかったですね」と笑いかけた。
僕は、体中から力が一気に抜けてしまった気がして、長椅子に背を丸めて座っていた。緊張したままだった気持ちがやっと解き放たれたように、目の前が霞んできた。
「本当に良かった……。生きていてくれて……」
僕は溢れてきた涙を、俯いて隠しながら呟いた。隣に座った高藤も肩で大きく息を吐き、言った。
「ああ、本当に。今夜、あのまま出血が続いたら危なかっただろうな。しかし、京ちゃん、直ぐ傍にいながら、どうしてそこまで思い詰める前に連絡しなかったんだ。部屋は真っ暗だったんだろう?」
彼に頷いて、涙を拭おうと手の平を見ると、京の血でべっとり汚れたままだった。掌を広げた僕を見て、高藤は肩をポンと叩いた。
「そこにトイレがあった。とにかく洗ってこい。顔にも血がついてるよ」
「あ、そうですね」
着ていたシャツの胸にも、大きな赤いシミが出来ていた。シャツを脱いで白いTシャツだけになり、そのままトイレに入った。
手洗い台の蛇口を捻って、冷たい水に手を翳した。ジャーッという音と共に赤い水が排水口へ流れる。
京の血……。僕は、再び恐怖と戦慄を覚えた。もし、あのまま京の部屋に入らなかったら、彼女は死んでしまったのか。まゆこが現われなかったら、冷たくなった京と対面したかも知れない。ブルブルと体が震えた。彼女を失うところだったのだ。一番大切な人を失うところだったのだ。顔を上げ、鏡に映った自分を見た。頬にも血が着いている。
「うっ……」
体の奥深いところが締め付けられる。途端にまた涙が溢れてきた。京が生きていたという安堵の涙。僕は固く目を瞑り、呟いた。
「神様……。ありがとうございます。京を死なせないでくれて……。有難う……」
なかなか涙は、止まらなかった。今までこんなに泣いた記憶はない。顔を何度も洗いながら、嗚咽を噛み殺す。
大きく息を吸って、鏡をもう一度見つめた。鏡に映ったぐしゃぐしゃの顔の僕が笑った。
「真由子ちゃん……ありがとう。お姉ちゃんは助かったよ……」
すみません。少し遅くなりました。
次回も近々更新します(予定ですが)




