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51、京の行方 5

「いえ、同じ大学なので、友人として知り合ったばかりですが、彼女が千葉に実家があるというのは聞いてました」

 と、慌てて僕が言うと、

「同じ大学? そうですか」

 と言ったが、まだ僕を訝しんで、硬い表情を崩さなかった。

「千葉にお住まいじゃないんですか? 矢木さんともお知り合いなんでしょ?」

 僕は、戸惑っている彼に、もう一度尋ねた。ご主人がたとえ京の家を知っていても、答えにくいようなことなどないはずだ。

 ただこの偶然は、僕の頭の中で妹の事件と中本さんを、また一つ結びつけることになった。別れた夫の実家とはいえ、誘拐された公園のある地域に、つながりのある家があるのだ。もしかしたら、中本さんも真由子ちゃんと顔を合わせていたかも知れない。もしかして、彼は何か知っている? だから、京を知っている僕に答えられないのか? 僕の疑惑の渦は頭の中で大きくなる。答えないご主人を睨むように見据えた。

 ご主人は言い憎そうだったが、仕方ないというようにため息を吐いて答えた。

「ええ、京という名前は、間違いなくお得意様だった矢木さんのお嬢さんだと思います。私の生家は、父と母がクリーニング屋を営んでいまして、あの事故の後勤めていた会社を辞め、女房と別れてからは千葉へ戻り家業を手伝っていました。矢木さんは同じ町内で、京さんは中学生でしたが、お母さんが看護師さんということで、いつも彼女がクリーニングを受け取りに来ていました。小さい妹の手をひいてね。近所では、妹の面倒をよくみる評判のよい子でしたよ」

「ご近所ということは、彼女の妹の誘拐事件もご存知なんですね?」

 ご主人は、僕に、またきっと険しい目を向けた。

「勿論知っていますよ。同じ町内で起こった事件ですから。しかし、どうして貴方には関係ないことを尋ねられねばならないのですか? まるで尋問ですね」

 僕は慌てて両手を挙げ、違うという風に振った。

「いえ、尋問だなんて! ただ矢木さんが妹のことを打ち明けてくれて、必死で妹を探しているのを知ったものですから。彼女に関わる話は、どうしても妹の事件に向いてしまうんですよ。他意はありませんから、気を悪くしないで下さい」

 彼の眉がピクリと動いた気がした。僕は不機嫌になった彼に、笑いかけたが、強張った表情は変わらなかった。何か、その過敏な反応に違和感を覚える。

 ご主人は険しい目を僕に向けて言った。

「京さんはなぜここに? 女房とは面識などないはずだが、妹さんの事件に関わりでもあると思っておいでなのですか?」

「い、いえ、そういうことじゃないです。彼女が引っ越してきたのは、ここのマンションで妹を見たと言うメールが来て、それを確かめるためのようです。勿論、何の手掛かりもなかったようですが、でも諦めていないようですよ」

 彼の反応を確かめるつもりで、京の目的を話してみた。ご主人は目を泳がせ落ち着かない様子で、明らかに動揺しているように見えた。

「そうですか、メールが……。では、京さんは、まだここで妹さんを探しているんですね」

「はい、他に手掛かりが何もないからと言ってました。僕も事件を知って、友人として力になりたいと思っているので、立ち入ったことを窺がってしまいました」

「京さんの気持ちは分ります。妹さんのことは本当にお気の毒です。私もお得意さんだったということもあり、両親と共に当日も捜索に加わっていましたから、本当に他人事ではない気がしますよ。同じ年頃の子供も持っていましたし……。でも、女房がここに住んでいたことも死んでから知ったんです。このマンションのことは本当に何も知りません」

 そう言うと、彼は静かに目を閉じた。そしてもう一度、顔の前で手を合わした。真一文字の口元からは、何も呟かれなかったが、堅く瞑った目元には皺が幾筋も刻まれて、深い苦渋が浮き出ているにように思えた。僕はそれ以上、訊き出すのが辛くなった。ましてや、亡くなった場所にまで来て手を合わす人に、まるで故人が犯人だと疑っているようなことを訊くことは出来ない。他人の僕が関わっていいはずがない。

 床の上に置いた線香が筒の中で燃えきってしまったようで、煙がフッと途切れた。すると、ご主人はぼんやりとその線香立てに目を落とし、

「康子を守ってやるつもりだった」

 と、呟いた。

「え?」

「子供なんていなくていい。一緒に生きていければそれで良かった。やり直そうと言ったのに、それなのに……」

 ご主人は、合わせていた手で口を覆った。込み上がってきた嗚咽に、声を殺して肩を震わせている。丸まった背中に、内に秘めた悲しみの大きさが見える。暫くの間、静かな時の止まった空間に、彼は悲しみを吐き出した。

「……すみません。ここに来ると、五年前に引き戻されてしまって……。泣こうがわめこうが、どうにもならないことなのに」

 彼は、ジャンパーの袖口で目を擦り付けた。そして、消えた線香立てを掴むと、立ち上がった。

「今日は有難うございました。見ず知らずの方に手を合わせてもらって、女房はびっくりしたかも知れませんね」

 と、僕に頭を下げると、奥の六畳間へ入って、ベランダのガラス戸をカラカラと閉めた。

 僕は間仕切りの襖を外された鴨居を見上げた。ここで首を吊ったのかと思うと、ゾクッと寒気が走った。

 ご主人の前には、幽霊になった中本さんは現われないのかと、窓を閉める彼の背中を見た。

「え?」

 彼の黒いジャンパーが背中で突然皺になった。そして、そこに二本の白い手が薄っすらと見えはじめた。僕は瞬時に体が強張って、息を呑んだ。長くて妙に痩せた腕が次元の隙間から現われたように、彼の背中にぶら下がっていた。しっかりとジャンパーを鷲掴みにして……。

「さあ、出ましょうか」

 と、彼が振り返ると同時に、腕は消えた。

 気のせいだ……と、玄関へ向かうご主人の背中を、もう一度見た。もう手はない……。でも、掴まれていた部分が皺になっている。僕はゾッとして、首を竦めた。そして、彼に続いて、慌てて部屋を出た。

 バタンと扉が閉められ、カチャッと鍵が掛けられると、やっと安堵した気持ちになれた。

「では、私はこれで……」

 ご主人は軽く会釈すると、周りを気にするようにキャップのつばを目の位置まで下ろして、階段を降りていった。

 鍵の掛かった中本さんの部屋をもう一度振り返り、薄気味悪さに僕も足早に階段を降りた。あの手は、もしかしたら、彼を闇の中へ引き込もうとしたのか。そう思うと、あの部屋にいたことが恐ろしくなり、僕は飛び込むように自分の部屋に戻った。


 部屋の空気は、ベランダから入った日の光に、むっと暑いくらいだったが、それが心地よかった。大きく呼吸をすると、汗が体に滲んでくる。

 靴を脱いで、重い気分で部屋に上がると、四畳半の真ん中に置いたテーブルの上のケータイが、チカチカ光っているのに気付いた。誰かがメールを寄越している。僕はケータイを掴むと、急いで画面を開けた。

 メール2件。

「京!」

 鼓動が駆け足状態の時のように速くなる。メールを呼び出す。


『To.亮輔 From.京

 ごめんね。連絡もしないで。まだこっちにいます。どうしてもやりたいことがあって、ケータイできません。

 心配しないでね。家族のために頑張ってるから』


 短いメールだった。直ぐに返信したが、また繋がらなかった。

「京……。やりたいことって何なんだよ」

 フラストレーションの溜まる文面に腹が立ったが、彼女が家族のために何かしようとしているのが分って、僕はホッとした。

 本当は何でもいいんだ。京が元気でいれば……。僕から、離れて行かなければ……。

 体から力を抜くように、ごろりと寝転がった。そして、もう一度メールを眺めた。千葉にいるなら安心だと、ケータイを閉じる。

 京が帰ってきたら、思いっきり抱き締めてやろうと考え、僕は唇を噛み締めた。何故かせつなさに胸が疼く。

 

 中本さんのご主人のこと、高藤のこと、階段で見た中学生の幽霊のこと……。今すぐ京に話して、楽になりたかった。

 本当は抱き締めて欲しいのは僕の方なんだ。

「京……」

 一人の部屋に、空しく声が響いた。





  


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