50、京の行方 4
「あ、あんた、何で女房のことを……」
男はそう言うと、絶句して僕を見た。驚くのも無理はない。既に五年も経った自殺した女性のことを口に出す奴がいるなんて、思いもしなかっただろう。
僕の方は、中本さんのご主人と分り、途端に警戒心を解いた。
「すみません。驚かれたでしょう? 実はここに入居して、直ぐ上の階で亡くなった女性のことをご近所で聞いたんです。確かもう直ぐ命日だということも」
男は強張っていた顔をふっと緩めた。そして、ゆっくり息を吐くと、僕に淋しそうな表情で笑いかけた。
「そうですか……。女房は、ここの方達に、随分迷惑をかけてしまいましたからね。忘れてほしいと思っても、ここがある限り噂になるんでしょうね。そういっても、私自身、まだこの部屋に女房がいるようで、毎年こうして命日の頃、訪ねてくるんですよ。いや女房だなんて、とうに縁を切った女なんですが」
匂いを嗅ぐ様に抱いた百合の花に顔を近づけ、彼は淋しそうに微笑んだ。細めた目の周りに、やつれたような深い皺が刻まれている。中本さんの死は、この人にとっても辛い過去なんだと思った。
僕は少し躊躇ったが、中本さんの死の真相をどうしても知りたいと思い、思い切ってご主人に言った。
「あの、大変不躾で恐縮なんですけど……、良かったら、僕も手を合わさせて頂けないでしょうか? 僕は三階で、奥さんの部屋の直ぐ下なんです。こんなところでご主人に会ったのも何かの縁かもしれないし、ぜひ……」
彼は思いがけない僕の申し出に、驚いて見開いた目を向けたが、直ぐに嬉しそうに口元をほころばせた。
「すぐ下の部屋にお住まいなんですか……。そうですね、あんな死に方をした人間の部屋の真下というのは、やっぱり気持ち悪いですよね。宜しいですよ。貴方のお気持ちがそれで晴れるなら、一緒に拝んでやってください」
彼は、僕に不信感は抱かなかったようだ。僕はほっとして、男に頭を下げた。
下りてきた階段を、中本さんの部屋に向かって上がっていった。前を歩く主人の背を見つめながら、その丸まった肩に背負ってるものが酷く悲しく思えた。子供を亡くし、妻が自殺した中年の男。6月には暑過ぎる黒のジャンパーが、まるで弱った自身を守るための鎧のように見え、少しも変だと思わなかった。彼は前を向いたまま、トントンと階段を上がってゆく。
幸せに生きるための場所だった家庭が壊れた人は、どこに安らぎを求めるんだろう。自分を解き放って、笑ったり泣いたり怒ったりできる場所が、彼にはあるのだろうか……。五年経っても、花を抱えてやって来た男の背中は淋しいものだった。
僕は、京の家族に想いを馳せた。彼女もこの人と似たような境遇で、家庭を失った。それが当然のように、暖かい家族の中でぬくぬくと育ってきた僕には、京の辛さも、この人の淋しさも、到底理解できない。「お継父さんが戻ってくる」と声を弾ませた京を思うと、胸が苦しくなった。両親が家に戻ったら、彼女も一歩、暗い箱の中から出られるのかも知れない。きっと今は、家族のことで気持ちはいっぱいだろう。
黙って階段を上るご主人の後姿を見ながら、連絡がないなどと些細なことで、思い悩んでいる自分を恥ずかしく思った。
四階のドアの前まで来ると、
「院長のご好意で、鍵は借りたままなんです。もう誰も住まわさないから、いつでもここへ入ってよいと言ってくださって」
と、ご主人は僕に断わって、ドアに鍵を差込みカチャリと回した。
僕は黙って彼の背後にたち、ドアが開くのを待った。体が緊張感で強張る。僕の勘のようなものが、ピリピリと不穏な空気を嗅ぎつけているようだ。
ギギッと、錆び付いた音がして、重いドアはゆっくりと引き開けられた。肌の表面が冷気に晒されるように、ゾワッと寒気を帯びる。どこかの物語の開かずの扉が開かれるように、その向こうにあるものが忌み嫌われる闇の使いのごとく、災いを連れてくるものではと、妙な緊張感に包まれる。
「さあ、どうぞ。畳がないので、靴のままで入ってください」
そう言ってご主人は、靴のままで部屋に上がった。
僕は扉を一歩入り、立ち止まった。すえた匂いとかび臭さが合わさって、中の空気は白濁していると思うほど淀んでいる。息を止めたくなるような、重い空気が僕をゆるりと包む。部屋は畳が全て上げられ、まだらに濃淡をつけたコンクリートの床がむき出しで、本当に廃墟の一室だ。ただカーテンのない窓からは、明るい陽が差し込んでいる。
しかしここで人が死んだと思うと、何も無い空間が余計に不気味だった。
「今、窓を開けますから」
カラカラとベランダが開けられた。
すると突然僕の後ろで、開いていたドアがバタンと勢いよく閉まった。淀んだ部屋の空気が外に吸いだされたからだろうが、まるで現世への扉が閉ざされたようで、嫌な気分に陥った。
気持ちを落ち着かせるように肩で息を吐くと、コツコツと靴音をたて、僕は屈んだご主人の傍へ近づいた。
ご主人は、4畳半の中央に膝をつき、
「康子、一年ぶりだね」
と言って、花を置いた手前に、ジャンパーの内ポケットから線香立てを取り出し、それに線香を立てた。右手に持った100円ライターで火をつけると、そっと目を瞑り手を合わせた。僕も彼の横に座り、手を合わせる。
立ち上る線香の香りが部屋に充満する間、彼は微動だにせず、こうべを垂れ拝み続けた。
しばらくして、はあっと大きく溜息が吐かれ、ご主人は手を下ろした。そして、
「こんなことをしても、女房は許してはくれないでしょうが……」
と、苦笑とも取れる薄い笑いを浮かべている。
僕は返事に困って、床に置かれた純白の花束を見つめた。
「女房の命より大事だった子供を殺してしまったのだから……」
小柄な彼は、一段と肩を落として小さくなった気がした。殺してしまったと言った主人の顔は、苦痛に歪んでいる。そして俯いたまま、独り言のように呟く。
「本当に天国から地獄というのは、あるもんだと思いました。幸せすぎる日常が突然途切れてしまうなんて、思いもしませんでした」
初対面の僕に、懺悔するように聞かせる言葉は、ずっと彼を苦しみに縛り付けている消せない過去。それがあふれてしまうほど、今でも罪の重さに苛まれているのだろう。彼の丸まった背を見て、心が締め付けられた。
「子供さんを亡くされたんですね……。交通事故と聞きましたが、不可抗力でしょう。本当にお気の毒としか言えません」
慰めるように、そう言った僕に、彼はチラッと視線を向けた。
「不可抗力? あれはそんな言葉で許される事故ではありません」
「ご主人……」
「あの時、助手席の娘は、買ったばかりの子猫が入ったバスケットが気になって仕方なかったんです。悲しそうな声でニャーニャー鳴いてましたから。ダメだといったんですが、可哀想だといって外に出してしまったんです。脅えて興奮していた猫は抱いていた娘の手の中で暴れて、顔を引っ掻きました。血が出るほど爪を立てられ、娘は悲鳴をあげました。その瞬間、私は運転から気を逸らしてしまったんです」
彼は辛そうに目をぎゅっと瞑った。
「運悪くゆるいカーブに差し掛かっていて、ハンドルを切り損ねた車はノーブレーキで、防音壁の支柱に助手席からぶつかりました。娘は……大破した車に挟まれ、死にました。あの時、私がもっときつく猫を出すなと言っていれば、あんな事故は起こさなかった。いや、ねだられても猫なんか買わねば良かったんだ。女房は反対してたのに」
膝の上で強く握り締められた手が、震えている。僕は言葉も掛けられず、下を向いたままで、彼の話を聞いた。
「幸せなんて、脆いものです。娘を亡くした女房は、あまりの悲しみから精神を病んで、生きることさえ放棄しました。入院して、体は回復しましたが、私を見る目は段々と憎悪を増してきて……。女房のために、離婚する方が良いと思い、娘が死んで2年後別れました。私は、何もかも失ったんです」
ご主人は話し終えると、立ち昇る線香の煙を追って、ゆっくり顔を上げた。
「すみません。何だか、傍に聞いてくれる人がいる思うと、つい鬱陶しい話をしてしまいました。五年も前のことですのに、女房の事を少しでも知っていてくれて、手を合わして貰えたなんて、嬉しかったものですから」
ご主人は僕に顔を向け、少し穏やかな目をして頭を下げた。
嬉しかったと微かに微笑んだ顔を見て、離婚をしたと言っても彼にとってはずっと「女房」だったんだと、僕はせつない気持ちになった。やり直そうと思わなかったのだろうか。
「別れられてから、奥さんが自殺されるまで、お会いになっていなかったのですか?」
と、僕が遠慮がちに訊ねると、ご主人は少し間を置いて、
「ええ、会っていません」
と、キッパリ言った。僕の言葉に、少し気分を害したのか、目を逸らし口元を堅く結んだ。
その様子が気になったが、僕はもう一つ訊ねた。
「あの、さっき、下で矢木さんがお得意さんのお嬢さんだとか言ってられましたけど、もしかして今は千葉にすんでおられるんじゃあ……」
ご主人は怪訝な顔をして僕を見た。そして低い声で、
「あなた、矢木さんのことをご存知なんですか?」
と、逆に訪ねてきた。彼の寄せられた眉根が、不快な表情に見えた。




