46、 命日 10
「!!」
もつれる足を必死で動かして、自分の部屋のドアに取りすがる。背後を気にしながら、震える手で鍵穴にキーを差し込もうと焦る。
何なんだ、一体! やっと開いたドアを勢い良く閉め、飛び出しそうな心臓を押さえ、その場にへたり込んだ。
どうかしてる! 壁に手を伸ばし、明かりのない部屋のスイッチを入れた。狭いキッチンがパッと明るくなり、まるで聖域のように見慣れた空間が現われた。
僕は大きく深呼吸して、恐怖で震える体を立ち上がらせた。
「ここはお化け屋敷か……」
そう呟きながら、4畳半にも灯を点けた。体を抱くように膝を抱え、部屋の隅々に目を走らせる。シンと静まった部屋には僕一人しかいない。やっと、ホッとして肩の力を抜く。
膝に額をつけ、目を閉じる……。さっきの女の子が頭の中に現われる。ぞうっとまた髪の毛が逆立ち、背中が凍りついた。
血まみれの顔。僕を睨みつけた目には、怒りが浮かんでいた。あの子も幽霊?
――――あいつが殺した。
確かに僕にそう言った……。『あいつ』に殺されたってことか?
「ううっ!」
混乱する頭の中を掻き出す様に、頭皮に指を立て掻き毟る。
「気が狂っっているのは僕か!」
まゆこの霊といい、女の幽霊といい、ありえないものに脅えている自分の姿が現実とは思えない。今まで生きてきて、こんな恐怖は感じたことがなかった。ここに来たばかりに、見なくてもよいものを見て、追い詰められているのだ。
もう限界だ――――。両手に抱えた頭が叫んだ。
ブー、ブー、ブー……。
ハッとして、Gパンの後ろポケットに手を当てた。取り出して、着信を見る。
「京!」
慌てて耳にあてがう。
――――「もしもし? 亮ちゃん? 遅い時間にごめんね」
耳に響く京の声が、次元の違う明るくて暖かい場所から聞こえて来るようだった。声を聞いただけで、闇が払われたような気がして、途端に安堵した涙が滲んできた。
――――「もしもし? どうかした?」
「あ、いいや。なんでもない。気にしないで。で、どう? そっちは」
――――「うん。今日は一日、支援してくれる人達と一緒だったの。勿論、両親もいるよ。皆でビラを配ったり、刑事さんに会ったりで、大変だった」
「そうか……。朝のTVで、事件のこと見たよ。沢山の人が支援してくれているんだな」
僕がそういうと、京は沈黙した。
「京? どうかした?」
――――「真由子の幽霊のこと、言えなかった……」
「京……」
――――「皆、元気でいると信じてるって言ってくれるの。お継父さんもお母さんも生きてるって思ってる。だから、何も言えなかった」
京はケータイの向こうで、声を震わせた。
「当然だろ? あの子の霊のことは、確信がある訳じゃないんだから、言わない方がいいよ。いつかきっと真実がわかるときが来るよ。それまでは、生きてるって信じないとダメだ」
――――「うん……」
京は、鼻を啜りながら泣いている。僕は胸が詰まり、どう声を掛けていいのか躊躇っていると、京がため息をついて話し出した。
――――「亮ちゃん……。慌ててこっちへ来ちゃったけど、今すごい会いたい……」
トクンと胸が鳴る。僕はケータイをぎゅっと握り締めた。
「僕も。今日は一日、京のことばっかり考えていた」
――――「うん……。出来るだけ早くそっちに帰るね。あの幽霊は出て来ない?」
「女の幽霊?」
ぞくっと背中に戦慄が蘇る。部屋の中をもう一度見回して、壁や襖のお札を確認する。怪しいことは何もない。
「大丈夫、出て来てないよ」
――――「良かった……。とにかく、両親と話が済んだら帰るから、待ってて。実は今ね、この家で真由子を待とうって話しているの。つまり、お継父さんが戻ってくるって言ってくれてるの」
京の声が、明るくなった。どうやら復縁の話しをしているらしい。
――――「離婚の理由が、お母さんが真由子の事件は自分のせいだって、お継父さんに申し訳なく思っていたからなの。でも、やっぱり家族でいたいって、お継父さんが言ってくれて……。夕べ、三人で泣いちゃった」
「そっか、良かったな。きっと元に戻れるよ」
――――「うん!」
京が、泣き笑いしているだろうと、僕も笑みが漏れた。
辛いことや悲しいことが起こっても、時は止まったままではない。少しずつ、あるべき状態へたどり着いて行くものなのだろう。
京とのケータイを切って、僕は塞いだ気分が随分軽くなった。
たとえここが「お化け屋敷」でも、「悪霊の巣窟」でも、京が一緒にいたら闘える気がする。単純な自分に笑ってしまったが、愛することって、力の増幅器のような作用なのかも知れない。本能というのは、巧くできている。
さっき見たおぞましい学生服の女の子のことも、すっかり恐怖は薄れていた。僕は京の顔を思い浮かべ、千葉へ会いに行こうかとか考えて、口元を緩ませた。
そして、何気なく自分の肩の付け根に目がいった。
「えっ?」
もう一度、離した視線を、ゆっくりと自分の左肩に向ける……。見間違いではない。
僕の肩を、しっかりと白い手が掴んでいた。




