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45、 命日 9

 5月29日――――。

 今朝は、良く晴れていた。掴んだカーテンを両側に引き開けると、斜めに射してくる陽光に、部屋の中が生き返ったように呼吸を始めた。

 僕は窓を開けて、爽やかな街に流れる空気を吸い込む。ここに住んでから、朝を迎えることが、本当に素晴らしいと思える。朝日の清らかな光は、夜の不浄で不快なものを全て消滅させるようなエネルギーを持っているし、その清々しさは、重い気分も晴れやかにしてくれる。

 しかし、今朝だけは違う。僕は重苦しくため息をつく。

 五年前の今日、矢木家を襲った悪夢は、まだ続いているのだ。京の家族を飲み込んだ不幸。彼女の未来さえも奪いかねない、妹の誘拐事件。

 京は、千葉の実家でどんな朝を迎えただろう。そう思うと、途端に気持ちが塞いでくる。

 彼女が、両親と向かい合い、少しでも心がやすらぐ様に祈らずにいられなかった。

 

 一人の朝は久しぶりだった。いつも必ず京が起こしに来てくれたから。朝を待ちわびるように部屋に来て、コーヒーを入れてくれる。そして、朝食の支度をしながら、「亮ちゃん、亮ちゃん」と、うるさいほど話しかける。

「良い女房だよな」

 と、自分で入れたコーヒーを飲みながら、「女房」という言葉に、照れ臭くて笑ってしまった。

 寝室に戻り、パソコンの電源を入れた。リモコンを手に取って、TV画面に切り替える。最新の機種は本当に便利だと、ベッドに寝転がって画面をぼんやり見る。今日は午後からの講義に出ればいいから、ゆっくり朝を過ごせる。動き出した画面には朝のワイドショーが映り、男のアナウンサーが眉間を寄せて話し捲くっていた。

「今日、5月29日で、真由子ちゃん誘拐事件から、丸五年を迎えてしまいました」

 僕は跳ねるように上半身を起こした。

「いまだ、何の手掛かりもなく、真由子ちゃんは見つかっていません。昨日から、支援している人たちが、この駅周辺でもビラを配り、情報を呼びかけていました。しかし、忽然と消えてしまった6歳の少女の行方は、ようとしてわからないままです」

 画面がアナウンサーから、妹の笑ったアップにかわった。僕は早鐘を打ち始めた胸に、額に汗を浮かべた。今まで、気にもしなかった事件の報道。まるで自分の家族のことのように、取り乱して見ている。身近な人間の関わることが、絵空事くらいにしか見ていなかったTVで報道されるのは、心底驚嘆した。

 おまけに世間の誰一人知らない情報を、僕は知っているのかもしれないのだ。それは、「もしかしたら、もう死んでしまっている」という、あまりに過酷で残酷な情報……。僕は息を呑んで画面に釘付けになった。

 更に映像は、誘拐された公園に変わった。まだ緑の多い近辺に、周りを木で囲まれた静かな場所。広い敷地に遊具が置かれて、木の下には木のベンチが並べられている。ありふれた街の中の公園だった。そのベンチの一つに、姉を待つ少女が淋しそうに座って、前の通を見つめていたのか……。

「真由子ちゃんに声を掛けた女は、しばらくベンチに並んで座り、楽しそうに話していたといいます。姉を待っていた少女に、お姉ちゃんのところへ連れて行ってあげるとでも言ったのでしょうか? 真由子ちゃんは何の躊躇いもなく、車に乗ったのです。自分の母親と同じくらいの女に、警戒心を抱けというのは無理なことだったのでしょうか」

 マイクを持って、公園の前に立つアナウンサーのしかめられた顔が、余計に悲壮感を煽っている。

「夕方になると、ここは遊ぶ子もいなくなり、少女が一人でいるには、あまりに淋しい場所に変わります。薄暗い公園で一人で待っていなければならなかった真由子ちゃんの気持ちを思うと、心が痛みます。もう少し、早くお姉さんが帰っていたら……」

 僕は、TV用のリモコンを握り締めると画面を消した。そして、それをベッドに投げつけた。

「京を責めるのか!」

 瞼に残ったアナウンサーの残像に僕は、怒りをぶつけて叫んだ。もし京が見ていたらと思うと、奥歯を噛み締めた。

 

 京は、どんな気持ちでこの映像を見ただろう。



 ***


 忌むべき日は、いつもと変わらず過ぎてゆく。

 午後から大学へ行って、小難しい自然科学の講義を聴いて、桂木のつまらないジョークに笑う。同じ学部の知り合い達と食堂でお茶を飲んで、他愛のない会話をする。

 頭の中の一部分で京のことをずっと思いながら、残った部分は平生を保とうとする。事件のことを、桂木にさえ語る気がしなかった。

 四時からの最後の講義を受けるため段状教室で、桂木とぼんやり座っていると、隣の席に女の子がやってきた。

「田崎君、横、空いてる?」

「うん。どうぞ」

 チラッとその子を見上げて、机に広げたテキストを自分の前によけた。女の子は同じ学部で、同じ学科の子だった。名前は忘れたが。

「ねえねえ、唐突なんだけど、この後、ヒマ?」

「え? バイトだけど」

「そっか。残念」

 女の子はカールした髪を持ち上げるように首筋に手を入れながら、ため息をついた。桂木が僕の横から顔を覗かせている。

「あの、良かったら、暇なとき飲みに行かない? 同じ学部だし、懇意になりたいなあとか思ってるんだけど」

 女の子は、顔に自信があるのか更に近づけて、上目遣いでじっとりと僕を見た。

「今、忙しいから。悪いけど」

「そう……。ところでさあ、いつも一緒にいる女の人は、カノ女?」

「は? ああ、京のことか。うん、嫁さん」

「ええ? 結婚してんの?!」

 こくりと頷くと、彼女は顎を引き、妙に長い睫をバタバタさせ驚いた。そして、「何それ!」と吐き捨てるように言うと、席を離れていった。

「お前、正直言って、馬鹿だろう」

 桂木が、不機嫌そうに口を尖らせる。

「はは、信じたかな。軽いジョークのつもりだったんだけど」

「お前はおっさんかっ! ひくだろ、誰だって。ああ、もったいねえ」

 桂木は自分のことのように落胆して、机にうつ伏した。

 仕方ないだろう。僕には京しか見えないのだから。


 

 電車が駅に着くと、その足でバイト先へ向かった。少し時間が早かったが、部屋に京がいないと思うと足が向かない。そのまま駅前をぶらぶらして時間を潰した。

 夕陽がビルの陰に消えた後、真っ青だった空が、次第に東から墨を混ぜるように暗い色に変わってくる。今夜は星の似合う藍色の夜空かも知れない。

 

 京は、どうしているだろう。そう思って髪を掻き上げた手首に、ジャラっと水晶玉のブレスが鳴った。自分の腕には似合わないが、見ているだけで心が和む。高藤からのもらい物だが、「一番大事な人」と言って、京が嵌めてくれたのだ。たとえご利益がなくても、こんな心強いアイテムはない。

 しかし、僕は京のことばかり考えているのに、彼女からはメールも来なかった。

 こんな日に、男から電話が掛かるなんて、顰蹙ものだと自重していたが、鳴らないケータイがポケットで妙に冷たく感じた。便りのないのは良い便り――なんて、心で繰り返し思っては、ケータイをチェックした。

「明日なら、掛けてもいいよな」

 京のアドレスを見ながら呟いて、ケータイをポケットに突っ込む。

 何だか夕暮れが、この世の終わりみたいにもの悲しく感じた。



 11時を回って、やっとバイトが終った。

 明日、売出しがあるとかで大量の商品が入っていて、若者は容赦なくこき使われた。肉体労働はじめじめした気分には、結構発散できて効果的だと知った。

 しかし久しぶりに疲労感を感じて、重い足取りでマンションへ向かう。


 相変らず暗いマンションの門の前に立った。

 キッとした目で建物を見上げる。今夜は傍に京がいないと思うと、何だか不安になって背中が寒い。そんな気持ちを隠すように、胸を張って入口へ向かった。

 薄暗い階段を上っていく。この時間は本当に静かだ。物音一つ聞こえない。ただ僕の靴音だけが、トントンと響く。

 大丈夫だ。部屋はお札がいっぱい貼ってある。貼ってから気味の悪い現象は起きていない。

 Uの字の踊り場を曲がり、もう直ぐ三階の廊下へ上がるところで、背後に足音が聞こえた気がした。誰かが上ってきたのかと、何気なく振り向いた。

「うっ!」

 階段の踊り場に女がうな垂れて立っている! 薄暗い中にぼやっと立つその子は、ショートヘアに制服姿。顔は下を向いたままだ。中学生? こんな時間に、いつから後ろにいたのか。 

 その子はゆっくり顔を上げた。

「ひっ!」

 その顔の右半分が、真っ赤な血で染まっている!

 僕は驚いて、階段にへたり込んだ。すると女の子は、無表情のままで階段を上ってくる。一段一段ゆっくりと……。

「うわっ!」

 引きつった顔でその子を見る。僕の横にすうっと立ったその子は、虚ろな片目をぎろりと剥き、血まみれの口を開けた。あまりのおぞましさに、僕はギュッと目を閉じた。


――――あいつが殺した。


 確かに僕の耳に、そう聞こえてきた……。

 脅えながら、目を開ける……。

 しかし、もう女の子の姿はなかった。

  



 




 

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