4、気配 1
田舎の家にいたときは、夜遅くまで、母の片づけをする物音や、話し声やTVの音なんかが、二階の自分の部屋に微かに聞こえてきた。それがどんな時も当たり前の事だった。初めての一人だけの空間は開放感に浸れる反面、頼りないような寂しいような、小さな不安を背中に感じた。
引越しの片づけで疲れていたこともあり、僕は10時にはベッドに潜り込んだ。真新しい布団に包まって、良い感じの寝具合に満足していると、ふっと矢木京の顔が浮かんだ。
「一つ年上か」
頭の中で、彼女の黒い瞳が細められ、小さな口元が横に開き、柔らかい笑顔になった。確かに奇麗な女の子。同じ大学だというのも、何だか妙に運命を感じる。文学部なら同じ敷地内だろうし、通学も一緒になる事もあるかも知れない。でも、彼氏くらいいるよなあ。少し火照ってきた頬を持ち上げながら、女子学生がいたというだけで、ウキウキしている自分に苦笑した。
しかし、女の子がこんな古い薄汚れたマンションによく住む気になったと、驚いてもいた。僕と同じく、格安のところというのが条件だったのかも知れないが、レディス用のワンルームは意外と多くて奇麗なところが多いし、家賃も安い。ここまでボロいところに住むこともなかったろうに。
彼女のことをあれこれ詮索しているうちに、僕は次第に眠りに落ちていった。
何時ごろだろうか……。
眠っていた僕は、物音で目を覚ました。何だろうと耳を澄ますが、カーテンで隠された窓の外からは、風の音もしない。真っ暗な部屋は、闇にどっぷり浸かった様な静寂。自分の耳鳴りが聞こえて来そうなくらい、部屋の中は、しんと静まり返っている。
何の音に目を覚ましたのだろうか……。僕はそんなことを思いながら、また枕を抱えるように横を向いて、重い瞼を閉じた。
うつうつと、意識が眠りに誘い込まれようとしている時だった。
コンコンコン――――。
ドアがノックされた。今度はハッとして、目を見開いた。
僕の部屋のドアがノックされている! 慌てて枕もとの目覚まし時計に手を伸ばし、時間を確かめた。
午前一時三十分……!
コンコンコン――――。
またノックされた。もしかして、酔っ払いのおっさんが帰る部屋を間違えて、ノックしているのかもしれない。
僕は、まだぼんやりする頭を、バリバリと掻きながら、半身を起こした。その時……。
キィ……。バタム!
ドアが開けられる音がした。そして、勢いよく閉まった。
「えっ!? 嘘だろ!」
サアッと背筋に冷たいものが走った。
ベッドから飛び出し、閉めていた襖を慌てて開け、玄関へ走った。誰かが、僕の部屋に勝手に入ってきたのだ!
「誰だ!」
真っ暗な玄関に叫びながら、壁に手を這わせてパチンとスイッチを入れた。キッチンがパッと明るくなり、突き当たりの玄関ドアが現われた。
ドアは、チェーンをしっかり掛けたまま、開いた様子などない。勿論、誰も入ってきてはいなかった。
「なんだ……。気のせいか……」
僕はドアの前に立って、強張った体から力を抜くように息を吐いた。
その時、天井に物音がした。またビクッと体を震わせ、見開いた目を天井に向ける。
トントントン……。タタタタタ……。
「なんだよ。上の部屋に誰か帰ってきたのか。脅かすなよ」
真夜中だから、余計に音は響く。その天井から聞こえてくる音は、人の足音に間違いない。声は聞こえなかったが、子供の走ってる音だ。
そう言えば、上の階の部屋には挨拶に行かなかった。お袋は上下も行くようにと、余分に挨拶まわりの箱を用意してくれていたが、矢木京に会って、何だか他の部屋に挨拶に行く気が失せてしまったのだ。
僕と近所付き合いできるような人たちが、他に住んでるとは思えない。いわば、大学生の彼女がここに住んでいたというのは、奇蹟に近い事だ。
六畳の奥の部屋へ戻り、体を投げ出すように、ベッドのスプリングを軋ませて寝転がった。
外の街灯の明かりで、カーテンにうっすら窓枠が見えるくらいで、部屋は闇が溶け出したように真っ暗だ。時計やデッキの表示版の小さな明かりが、際立って明るく見える。時計の秒針の音や、冷蔵庫の音、それに僕自身の呼吸の音。それ以外の音はピタリと止まっている。上の階も、静かになった。
ベッドの上で、冴えてしまった目を動かし、部屋を見回す。
何だろう……。気持ちが落ち着かない……。
何だか、酷く嫌な感じがする……。
闇の中に何か……いるような気がする。気のせいか……?。
この部屋の中に何もないことを確認する事は、僕の本能の支持であるかのように、瞬きもせず何かの気配を探した。




