36、幼い霊 4
真っ暗な天井に、現われたその姿の恐ろしさに、恐怖以外の感情が吹き飛んでしまう。僕の本能が逃げろと叫んでいる。カタカタと噛み締めた歯が鳴る。どうすることも出来ない!
その時、京が、苦しそうに声を絞り出し、その女に向かって言った。
「だ、だめ……。真由子を連れて行かないで……」
床を引っ掻く音がする。京が押さえつけられた力に抗いながら、すこしずつ六畳の和室へと、爪を立て行こうとしている。僕と同じ様に体の自由を奪われても、向かっていっているのか……。
女は逆さまのまま、釣りあがっていた目を細め、にっと口をうっすら横に開いた。その顔には、おぞましくて冷ややかな笑みが浮かんでいる。そして僕達の方へ、すうっと片手を伸ばした。
その瞬間、目の前に消えていた女の子が現われた。小さい肩を窄めながら立っている。
「真由子……」
京が手を目いっぱい伸ばして、目の前のその子を捕まえようとしている。女の子は、チラッと京を振り返った。しかし、見る見る姿は白い靄となって消えてしまい、手を差し伸べている女の元へと昇ってゆく。
女が満足そうな顔で、その子の白い影を抱き寄せると、自分もボウッと姿を霞ませ、天井に吸い込まれるように消え去った。
「待って!」
京が叫んだときは、もう二つの影は跡形もなく消え失せ、和室は元の静かな暗い空間に戻っていた。
やっと体から力が抜けていき、大きく息を吐いた。
「京!」
目の前に下がった電灯のプルスイッチを引き、明るくなった部屋に京の姿を確かめると、ふらつきながら彼女の元へ行き、体を抱き起こした。
京は、蒼白の顔に体を震わせながら、僕を見上げる。見開いた目が、脅えて揺れている。
「亮ちゃん! 真由子だった……。真由子だった! おねえちゃんって言ってくれた……」
「分ってる。それよか大丈夫か?」
京は僕の腕の中でやっと力を抜くように、体を預けてきた。
「でも、あの幽霊……。真由子を渡さないって……。連れて行っちゃった……」
そう呟くや否や、わあっと声を上げて、京は泣き出した。
「真由子だった……真由子だった……神様……」
繰り返し呟きながら、泣き声を張り上げ、僕の胸に顔を擦り付けた。僕はただ抱き締める事しか出来ない。
京は泣きじゃくりながら、僕のシャツを強く掴んで、苦しい胸の内を吐き出すように言った。
「もう……真由子は生きてない!」
「京!」
悲しみに、呻くように泣く京を強く抱く。僕の目にも涙が溢れてくる。
これが夢でないなら、あまりに過酷な現実。自分を愛してくれる人たちの元へも帰れず、この古いマンションで彷徨っている小さな妹は……、もしも、本当にあの霊が妹だとしたら……、既に死んでいるってこと……。
でも、こんなことを誰が信じてくれる? 幽霊が妹だからと警察に訴えたところで、調べてくれるなんて考えられない。それに妹のいた痕跡など、五年も経っているのに残っているわけがない。死体は……? あの子の体はこの建物のどこかに、まだあるのか? 妹と決め付ける前に、あの子と女の霊のことを知るべきだ。
僕はぐったりして泣き続ける京の肩を掴み、顔を覗きこんだ。
「諦めるな! 妹の遺体が見つかってもいないのに、あの子を見ただけで決め付けるな。僕達は五年前に何があったのか、それを知らなくちゃあ。もしかしたら、今見た全てが夢かも知れないし、それこそ思い込みかも知れないじゃないか。確証を探さないと……」
「確証?」
「そうだよ! あの子が真由子ちゃんだという確証。それに……」
僕は言葉を躊躇ったが、じっと見つめる京の不安そうな顔に、息を吸って言った。
「それに、死んでいるというなら……、死体をみつけなくちゃあ……」
京はクッと唇を噛んで、目を閉じ顔をしかめた。




