33、幼い霊
重い足音が階段に響く。僕達は無言のまま、一段一段踏みしめるように上って行った。
三階へつくと、京は、
「亮ちゃん、私の部屋へ来て」
と、自分の部屋のドアの前に立った。僕は頷いて、京が緑のドアを開けるのを待った。
彼女が鍵を回し、ギッと軋むドアを開けて、中に入り靴を脱ぐ後ろ姿を目で追った。その肩を落とした丸い背中に、なんて言ったらいいのだろう。また、泣き出すかも知れない。悲しみに叫ぶかも知れない。
僕は後悔している。あの子の名前を言ってしまった事を……。何の根拠も、確証も無いのに、ただ、頭の中に聞こえてきた名前を、妹だと断言するような言い方をした。
「どうかした? 入って。何か作るから……」
玄関に立ち尽くした僕に、京が振り向いて言った。「うん」と、俯いて靴を脱ぐ。
「テーブルに座ってて」
と言って、そのまま冷蔵庫を開けて、中を覗き込んだ。
「焼きそばで良い?」
「うん……」
ダイニングテーブルに掛けて、キッチンに立つ京を見ていた。僕の視線に気付かないように、フライパンを振る彼女の背中は、力なく沈んでいる。
僕は、たまらなくなって、京に話しかけた。
「中本さんって、本当に不幸な人だね」
京は手際よく作った焼きそばを、皿に取り分けながら、
「うん……」
と、小さく返事をした。
それからテーブルに二つの皿を置いて、コップにペットボトルのお茶を注ぎながら、京は僕を見ようとしなかった。
黙って、僕の前に座る。僕も話し掛け辛くて、差し出された焼きそばを食べ始めた。
二口くらい、箸を口に運んだところで、やっと彼女は僕を見た。
「亮ちゃん……。本当にまゆこって言ったの?」
箸を止めて、京をじっと見つめた。その暗い表情に、どう答えて良いのか戸惑う。でもこれ以上、あの子のことを隠している訳にもいかない。
「京の妹だと確信しているわけじゃない。でも、間違いなく噂の女の子の幽霊は現われたし、僕にまゆこと言ったよ」
京は箸を置くと、両手で顔を覆った。肩が震えだし、押し殺した声が泣き声に変わる。
「京……」
僕は手を伸ばして、彼女の肩を掴んだ。そして、その手を髪の掛かった耳元に滑り込ませた。親指に涙が伝ってくる。
「院長の言うとおり、正体のはっきりしない子を妹だなんて思うのは止めよう。実際、君は見ていないんだから。だけど、僕はあの子の正体を知りたい。妹だからじゃない。僕の前に何故現われるのか、僕にどうして欲しいのか知りたいんだ。あの女の霊にしても、中本さんだと言い切れない。だけど、女の子と一緒にいるのは間違いない」
京は手を下ろすと、涙で濡れた顔を上げ、僕を見た。
「こんな現実離れしたことに関わるのは怖いよ。自分の頭がおかしいんじゃないかと思うこともある。でも、京がそばにいてくれるなら、僕は逃げ出さないよ。君が女の子の正体を知りたいなら、ずっとここで頑張ってみる」
「亮ちゃん!」
顔に宛がった僕の手を掴むと、自分の口元に持っていった。
「有難う。私……、その子に会いたい……。もし真由子がもう生きていなくても、家につれて帰ってやりたい。だから私もそのこの事を知りたい。だって今の私達にとって、唯一の手掛かりなんだもの」
「わかった。今度あの子に会ったら、京に教える。あの子は僕達に何かしようなんて思ってない。ただ淋しいんじゃないかと思う」
僕の言葉に、京はまた肩を振るわせ始めた。僕の手を両手でしっかりと握って……。
それから、彼女の部屋で、二人とも泥のように眠った。自殺した中本さんの悲しい話や、あの女の子のことで、沈んでしまった心を回復させるように眠り続けた。
夕刻になってやっと起き出し、二人で駅前までやってきた。もう陽は沈み、いつものように駅は帰りを急ぐ人で混雑している。
僕はバイトに行く彼女を駅の改札で見送った。大学の近くの学習塾のバイトを、彼女は気に入っているようだ。京は少し元気を取り戻して、笑顔で手を振った。その後姿を、ホッとして見えなくなるまで見つめた。
帰りに駅前で待つ約束をして、僕もその足でバイトに向う。
あの部屋で待っていられるより、安心できる。そう思い、夜空を仰ぐ。星の見えない空は、何だか濁った感じがした。
いつか京に僕の田舎の信州の降るような星空を見せたいと思う。
彼女の心に巣くった悲しい想いを少しでも消し去れたなら、楽しいことでいっぱいに満たしてやるのに。
11時。
バイトが終わって、僕は駅へ急いだ。流石に人影の無くなった街に、女の子がひとりで待っていると思うと心配で、全速力で走った。
「亮ちゃん!」
駅の改札を出たところに立つ京の姿を見て、胸を撫で下ろした。彼女の前まで行って、ゼイゼイと息をして体を屈める。
「やだ、走ってきてくれたの? 大丈夫なのに。ごめんね」
京は嬉しそうな顔に、心配そうな顔をミックスして、僕を覗きこんだ。
「京の忠犬ハチ公ですから」
「ふるっ!」
と、京は僕の腕につかまって、楽しそうに笑った。
学習塾のバイトも楽しかったようで、夜道を歩きながら、生徒のことをいろいろと聞かせてくれた。中学生の受験古文を担当しているそうで、大好きな源氏物語を語ってきたと明るく顔を向ける。将来は国語の教師になりたいと、初めて僕に教えてくれた。
淋しい真っ暗な通りも、二人でいると全く気にならない。
人って、つくづく寄り集まって生きる種なんだなと思う。
僕も京に力を与えて貰っているし、きっと僕も彼女に与えている。二人なら、どんなことも乗り越えられるし、強くもなれる気がする。
京というひとりの人間と出会えた事を、自分の運命に感謝したいくらいだ。
話を弾ませながら、僕達はマンションの近くへ戻ってきた。
緑の木々の上から、暗い外壁を覗かせる建物を見上げて、京も僕も、しばらく口を閉じた。脳裏に瞬間、昨夜の騒ぎが思い出される。僕は京と組んだ腕に力を入れた。
また現われるかも知れない……。
窓の明かりもほとんど消えている。これ程闇が似合う建物もないと思うほど、夜空を背景に闇に溶け込んでいる。
ブロック塀から枝を縦横に広げる木々が、夜風にざわっと葉を鳴らした。
その時、僕の耳に、突然音が入ってきた。
キイィ……、キイ……キイィ……。
思わず足を止めた。この音は……。規則正しいリズムで闇に裂け目を作るように響く、甲高く微かな金属音……。
「どうかした? 亮ちゃん?」
京が立ち止まって、宙を見る僕を訝しげに見ている。僕は、ゆっくり顔を音のする方へ向けた。
路地の突き当たりの公園……。
僕は、京の手を握り締めると、ブロック塀と人家の間の細い路地へ入った。
「何? どうしたの?」
京は引っ張られるように、僕の後ろを歩く。
公園が現われた瞬間、ゾクッと背筋を凍らせた。
やはり、ブランコはゆっくり揺れていた。ゆっくりと……。
そしてその台座には、俯いた女の子が身じろぎもしないで座っていた。白い手が錆びた鎖を握って、ゆらりゆらりと揺れている。
「まゆこ……」
僕の呟く声に、京が驚いて立ち止まり、僕の視線の先に顔を向けた。




