32、一人の女 4
「本当なの? 本当にまゆこって言ったの? 嘘でしょ?」
京の消え入りそうな声に、僕は答えられなくなった。真っ青な彼女の顔を見つめられなくて、下を向いた。
「まゆこという名前を、私も聞いたことがある」
と、僕達の様子を黙って見ていた院長が、突然顔を歪め言った。その言葉に、僕も京も驚いて顔を向けた。院長は躊躇いがちに、僕達を見つめながら、記憶を辿るように話した。
「あのマンションの住人で、予備校生の男の子がいたんだが、ここの心療内科に診察に来た事があってね。母親がひどく落ち込んでいるのを心配して連れて来たんだが、その時の担当の医師が、奇妙な事を口走ったと私に教えてくれた……。なんでも、女の子の幽霊が出るって、ひどく脅えていたらしい」
「女の子が?」
強張った顔で食い入るように院長を見る僕達に、少し口ごもってため息を吐きながら言った。
「その女の子はまゆこと言ったらしい。いや、信憑性については、聞いた話だから分らんし、精神的に参っていた子の言う事だから、現実と虚構の区別がつかなかったのかもしれない。ただその後、親元に戻ることになって、引越しの前日、泊り込んでいた母親の目を盗んで自殺してしまったから、その話が真実かどうかなど確かめる事も出来なかったが」
京を見ると、二の腕に体を抱きながら、蒼白な顔で微かに体を震わせている。
僕の握り締めた両手も震えていた。堅く握っても震えは治まらない。
院長は、そんな僕らを前にひどく困惑した様子だったが、
「君達が彼女が誘拐に関わっていると思っているのなら、その疑惑を晴らすために話そう。だけど、けっして故人を汚すようなことは他言しないと誓って欲しい。まゆこという名前だけで事件と関係があると言うのは、どう考えても無茶な話だ」
と、僕に向かって身を乗り出した。
「はい。勿論です。その女性が犯人だと思っているわけではありません。自分でもすごく馬鹿げたことを言っていると思います……」
「うむ……、まあいいでしょう。事件が事件だから、お姉さんの気持ちを思うとむげに断われない」
そう言って、縋りつくような目をして見ていた京に、やんわりと微笑んだ。
「彼女、中本靖子さんと言ったかな。あの人はこの街に住む、元々うちの産婦人科で不妊治療を受けていた患者さんだよ」
「不妊治療?」
「そう、結婚して10年近く子供が出来なくってね。それで二年間治療して、その甲斐あって無事妊娠した。それはすごい喜びようで、ご主人と二人で外科の私のところへも報告に来られたほどだよ。出産は帝王切開だったが、元気な女の子を出産して、本当にご夫婦とも幸せそうだった。ところが、何が起こるかわからんのが、世の常で……」
院長は眉間に縦皺を作り、暗い表情になった。僕は息を殺すように院長の話しを聞き入った。京も瞬きもせずにじっと見つめたままだ。
「その子が5歳の時、ご主人が車に乗せていて事故を起こしてね。高速道路で防音壁に激突したんだ。不幸なことに、助手席に座っていた子供は即死。原因は子供が連れていたペットの猫が気になって、よそ見をしたらしい。ご主人は運よく、肋骨にひびが入った程度の軽い怪我で済んだが、一粒種の女の子を可愛い盛りに亡くしてしまったんだ」
僕も京も、無言で息を呑んだ。あまりの不幸な話しに相槌も打てない。
「それから、彼女の様子に変化が起きてきた。外に出なくなって、家事も出来ない。ただぼんやりと子供の仏壇の前に座っているだけの日常だったらしい。それから四十九日の法要が済んだ後、家で手首を切った。それで再び、うちで治療をすることになったんだが、入院してきた彼女の状態はひどいものだった。生きる事に絶望していて……。悲しみは大きすぎて、なかなか治癒できずに二年ほど入院と自宅療養を繰り返したかな。やっと退院がきまって、普通に生活できるようになったのだが、それと同時にご主人と離婚してね。何かと支えになっていたご主人だったが、やはり彼女の中で、子供を殺したのは夫だという気持ちが消えなかったようだ。実家から通院するのは無理があると言う理由で、あのマンションに住んでもらった。まあ、今にして思えば、一人にしてしまった事がマイナスだったのだろうが、もう外を出歩けるくらいに状態は良くなっていたし、仕事を探しているような事もきいていたから、私達としては安心していたんだ」
「気の毒な人だったんですね」
と、僕が言うと、院長は頷いて、
「また子供をつくれるという希望を持てれば、彼女も違う生き方が出来たのだろうが、出産にも問題が生じて、母体のために子宮を全摘してしまったからね。二度と子供を生めない体だったから、余計に亡くなった子供への執着が強かったのかも知れない。ご主人も辛かったろうと思うよ」
と、遠くを見るように窓に目を向けた。
そして、
「彼女のことで、私が知っているのはここまでだ。自殺して発見されるまでの生活は、分らない。遺体は母親が引き取って、葬儀も故郷の方で済ましたと聞いている」
と、僕と京を見ながら、大きくため息を吐き、ソファに背を持たした。
「有難うございました。お忙しいのに無理を言って申し訳ありませんでした」
僕が立ち上がって、頭を下げると、
「あのマンションは、何かと妙な噂が立って、本当は取り壊したいと思っているんだが、住んでいる人達に迷惑が掛かる。皆、それぞれに苦労した人が多いのでね。君達も、出来るなら、もっと良い環境のところへ移りたまえ。矢木さんも幽霊の事を妹だなんて思い込んではいけないよ。人の思い込みほど、怖いものはない。辛いと思うが、気持ちを強く持たないといけない」
と、立ち上がって言った。
「はい。ありがとうございます」
京は、院長の言葉を噛み締めるように頷き、丁寧にお辞儀をした。
病院から出ると、もう十二時を回っていた。
僕達は言葉を交わさず俯き加減に、マンションへ帰る通りを歩いた。
僕が「まゆこ」と明かしてしまった幽霊の事を、京がどう思っているのか不安だった。でも、それに触れることはもっと怖かった。
二人で並んで歩いている間を、風が吹きぬける。京の肩に掛かる髪が後ろに流れ、風に細められた目は、前を向いたままだ。
僕は、Gパンのポケットに突っ込んでいた手を出して、京の下がった手を握り締めた。
彼女は、チラッと顔を向けただけで、また前を向いて歩いた。でも、繋いだ手をしっかり握り返した。
マンションの門の前まで来て、僕達は同時に足を止めて、明るい日差しを受ける建物を見上げた。
何の変哲もない、古いだけの建物。院長の言ったように、妙な思い込みが僕達を苦しめているのかも知れない。門を入ると、壁をつたっていたつる草が、黄緑の葉を広げていた。敷地の木々も緑の影を落としている。それに、ブロック塀と木の間に植えられたつつじが赤と紫色の花をつけている。
「奇麗……」
と、咲き乱れたつつじを見て、京がポツッと言った。彼女も、昼間見るマンションの穏やかな風景に、安堵した顔をしている。
「気付かなかったね。朝はバタバタ出て行っちゃうし、帰りは夜だから」
「うん……」
と、京がつつじに近寄った。そして、屈むと花に手を伸ばした。
「あら、こんにちは」
僕達の背後から声を掛けられた。振り向くと、京の隣の部屋の山田さんが大きなトートバッグを提げて、マンションから出てきたところだった。
「こんにちは」と僕が会釈すると、急に笑いかけた京に向かって、
「矢木さん! そのつつじの根元、踏まない方がいいわよ」
と、顔をしかめて言った。
「え? ここですか?」
「そう。その辺にね、前に住んでいた人が猫の死骸を埋めたのよ。嫌でしょ、気持ち悪い!」
山田さんは怒ったように口をへの字にした。
「ホントですか……」
と、京は慌てて、僕の方へ駆け寄った。
「うちの旦那が深夜に帰ってきたら、女が一人で土を掘ってるから、気味悪くて見たら、傍に猫の亡骸が転がっていたって。四階の女の人だったんだけど、ちょっと変わった人でね。猫と一緒に住んでいたの。その猫をとっても可愛がっていてねえ、サユリだかカオリだか、猫らしくない名前で呼んでいたよ。その後、すぐ首を吊っちゃって。猫に死なれたショックだろうって言ってたのよ」
「山田さん、その人、中本さんって人ですか?」
僕が、急に声を荒げたので、山田さんは、
「そ、そうだけど。知ってるの?」
と、訝しそうに目を大きくして、仰け反った。
僕と京は顔を見合わせた。猫にもしかして、自分の亡くなった子供の名前をつけていたのか……。そう思うと、二人ともまた沈んだ気分になった。
「ここにはね、いろんな人が住んでいたの。旦那さんの暴力から逃げ出した人や、身寄りのない年寄り、仕事が無くって生活保護を受けてるような人。アル中って人もいたわ。お互い事情が複雑だから、干渉はしないように暮らしてきたんだけど、あの人の自殺は衝撃だったわよ。後で聞いたら、鬱病だったというから、発作的に自殺したんだろうけど」
山田さんは、奇麗なつつじの一角を見ながら、そう言ってため息を吐いた。
「まあ、五年も前の事だから、もう土に帰ってると思うけど」
軽く笑いかけ、彼女は門から出て行った。
山田さんを見送るように見ていた京は、二の腕をさすりながら、
「亮ちゃん……。部屋へ戻ろう。何だか疲れた……」
と、僕を蒼白の顔で見上げた。ひどくショックを受けたようだった。
僕は京を支えるように背中を抱え、マンションへ入った。




