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31、一人の女 3

「京、確か、真由子ちゃんが誘拐された日って、五月だったよね?」

「五月二十九日」

 僕の言葉に一瞬顔をしかめて、返事を拒むように短く答えた。僕は握った京の手に指を絡ませ、その白く透き通るような指を見つめた。あと一週間で丸五年かと思いながら、口には出せず頷く。

 二人とも沈黙したままで座っていると、

「今日みたいに、とってもいい天気だった」

 と、突然京は、次々と忙しく応対している受付のカウンターに顔を向けながら、遠くを見るように焦点の合わない目をして話し出した。

「いつものように幼稚園バスから降りて、近くのお友達と一緒に帰ってきて家に入ったって、お友達のお母さんが確認してくれた。うちで遊ぶって訊いたら、お姉ちゃんとお買い物に行くから家で待ってると、手を振ってドアを閉めたって……。母が夜間勤務の日だったから、私がご飯作って二人で食べるの。真由子は一週間に一度の二人だけの日を、楽しみにしていた。買い物しながら、アイス食べたりバーガー食べたり……。二人で好き放題できるのが楽しかったのね」

 僕は黙って、話しを聞いていた。京の手は、脅えるように僕の膝を強く掴んでいる。

「真由子がいないと分って、母は半狂乱だった。仕事を優先していた自分を責めながら、真由子を放っておいた私の頬を激しくぶった。継父の前で、お前が誘拐されれば良かったのにって、泣き崩れた。鬼みたいな形相で……。ひどく傷ついたけど、今思うと、継父の思いを代弁したのだと思う。継父の口からその言葉が出ると、きっと家族関係はその場で壊れる。母は、私と自分は真由子以上に強く繋がっていると思っていたのね。確かに、それで母を恨むような事は無かったから。でも、今では継父も出て行って、守りたかった家庭なんて、あとかたもないのに」

 京は泣かなかった。待合室のざわめきの中に、ただ言葉を吐き出すように話す。

 僕は何も言えず、唇を噛んだ。胸の痛みと同じだけの、慰める言葉など浮かんでこない。

「私……。真由子はもう生きてないんじゃあって、思っている」

「京!」

 僕は驚いて、彼女を見た。京は変わらずに虚ろな目で前を向いている。

「もうすぐ6年目になる。小さかった真由子はもう中学生だよ。生きているなら、私達に会いたいと思うなら、何か手掛かりがあってもいいと思う。でも、まるで神隠しにあったように、噂すら聞こえてこない」

 胸がドクッと鼓動を大きくした。僕の脳裏には、あの女の子が浮かんできた。あの子のことを京に言うべきなのか……。漠然と生きていると信じて待っていることが、どんなに辛い事か……。たとえ死んでいても、行方を知りたいと思って、彼女は幽霊の噂のあるマンションに住み始めたのじゃないか……。

 僕が気持ちの踏ん切りをつけられず迷っていると、京が大きくため息を吐いた。

「ダメだよね。信じないと」

「京……」

「両親が待っているのに、生きて帰ってこないと……。私が諦めたら、本当に会えなくなる」

 京は力の宿った黒い瞳を僕に向けた。僕は京の肩を抱いて、天井を見上げた。痛々しくって悲しくって、滲んできた涙が零れないように。


「お待たせしました。院長がお会いするそうです」

 それから一時間ほど経って、やっと受付の女性が、ソファで待つ僕達の元へやってきた。

 僕達は三階にある院長室へ、案内された。

 街が遠くまで見通せる大きな窓のブラインドは全開になっていて、新緑の頃に相応しい陽射しが燦燦と降り注いでいる。

 女性は、

「すぐに参りますから」

 と言って、そのブラインドを半分閉じ、陽光を遮り、出て行った。

 ゆったりした革張りの茶色のソファで、京と二人、緊張して待っていると、すぐにドアが開いた。

「随分お待たせしましたね」

 恰幅の良い六十歳くらいの医師が、首に聴診器を掛けて入ってきて、立ち上がった僕達の前に立った。

「お忙しいところ、すみません。突然に」

 僕が丁寧に頭を下げると、

「大山マンションの入居されているんですね?」

 と、ソファに掛けるように手で勧めて、ゆっくりと向かいに腰を下ろした。思っていたより紳士で、温和な感じの院長を見て、少し緊張がほぐれた。

「はい。三階を借りている田崎と言います。こっちは同じ階の矢木さんです。四月からお世話になっています」

「ああ、不動産屋からW大の学生さんが入ったと聞きました。それで、何か不都合でもありましたか?」

「いえ、そうではなくって、以前あそこに住んでいた女性の事を窺がいたいんです」

「以前、住んでいた人の事?」

 院長は怪訝な顔をして、僕達を交互に見た。明らかに不快そうな表情になった。

「五年前に自殺した人のことです」

 コホンと握った手を当て咳払いすると、

「何かの取材ですか? つまらない噂の」

 と、膝の上で手を組み、口を歪めて笑いかけた。

「違います。実はその女の人が、僕達に関わりのある人ではないかと思って。どうしてもその人の事を知りたいんです」

「関わりって、彼女には身よりは、遠方にお母さんがいるだけだと聞いていたけど、親戚か何か?」

「いいえ。違います」

 僕が否定すると、院長は深く息を吐いて、

「それじゃあ、故人のことを明かすわけにはいかないなあ。うちの患者だった人だしね」

 と言うと、困ったように口角を下げた。

「実は、その人が、矢木さんの妹の事を知っているんじゃないかと思っているんです」

「亮ちゃん!」

 京が驚いて、体を向けた。

「院長先生には、正直に話して協力してもらおう。他に真由子ちゃんの手掛かりは無いんだし」

 僕の言葉に、院長は、

「真由子ちゃん? その子がどうかしたのかね?」

 と、沈んだ顔の京に視線を向けた。僕は俯いた京に代わって、院長に答えた。

「はい、実は行方不明なんです。五年前に誘拐事件に遭って」

「誘拐事件!?」

 院長は、僕に驚いた顔を向けたまま、しばらく言葉を失くしていた。そして、眉間に深い縦皺を刻み、考え込むように目を閉じた。

「あっ、思い出したよ。五年前、そう言えば千葉の方で幼稚園児の誘拐事件があった! 確かまだ見つかってない筈だが……」

 院長は太い腕を組んでソファの背に体を沈めると、京を目を細めて見た。じっと耐えるように京は俯いたままだ。

「お母さんが看護士で、夜勤の日に誘拐されたんだよね。うちも人ごとではなくって、職員の前で注意をしたのを覚えているよ。そうか、貴女はお姉さんなんだね。驚いたなあ」

 京がこくりと頷いた。院長は、うな垂れたままの彼女に、

「辛かっただろうね……。小さい子を一人で遊ばせていたとか、心無い中傷がTVで流されたし、被害者の家族でありながら興味本位の報道に傷つくことも多かっただろう。なんて言ってあげたら良いのか、言葉もない」

 と、温和な顔を曇らせて、優しく言った。

 京は、黙って目元に指を宛がった。僕も院長の穏やかな声に、目の前が涙で霞んできた。

「で、どうして彼女に関わりがあると?」

 院長は、声の調子を変えて、僕に尋ねた。そんな事件に自分の患者が関わっている筈がないと言わんばかりの、厳しい顔になった。

「何も根拠はありません。ただあのマンションで、真由子ちゃんに似た子を見たと情報をくれた人がいました」

「え? あそこで? 本当に? でも、自殺した彼女と関係があると限らないだろう」

「僕も見ました」

 僕は院長を真っ直ぐに見据えて言った。京が驚いて顔を上げた。そして慌てて、腕を掴んできた。

「亮ちゃん! その事は……」

 京の言葉を制するように、院長は低い声で尋ねた。

「見たって、彼女の妹をか?」

「はい、はっきりと。名前も聞きました。その子はまゆこと言いました」

 僕は言った後で、京を見た。彼女は目を見開いたまま、言葉を失っている。

 凍りついた京の驚愕した顔は、僕の胸を、苦しいほど締め付ける。

 

 


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