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3、新しい部屋 2

 玄関ドアを開けると、北に面した廊下側は、コンクリートの腰までの手すりの下に、夕刻の闇に包まれ始めた家の屋根が、遠くまで広がっている。よく晴れていた空も、東から夜の闇が迫ってきている。マンションの裏はぐるりとブロック塀で囲まれて、その狭い間にも、伸び放題の木が塀と壁ににぶつかるようにいびつに枝を広げていた。

 三階は五つの部屋があったが、表札が上がっているのは僕の部屋を入れて四つ。すぐ隣の一室は空き部屋だった。

 肩で一つ息を吐くと、意を決して、端部屋の僕の部屋から一番遠い部屋のドアの前に立った。今時珍しいスチール製の、緑色のペンキが塗ってある重いドアが、一層開きにくそうに、四隅の塗装がはげ赤茶色の防錆塗料が浮き出ている。そのドアの左上の壁にに付いた、小さな玄関チャイムをゆっくりと押した。

 ピンポ〜ン……。

 弱々しい掠れたチャイムの音が鳴って、しばらくするとドアの中から、同じ様に弱々しいかすれ声が聞こえた。

「はい……。どちらさんですか?」

 年配の女性の声。

「あ、突然すみません。あの、今日ここに引っ越してきた者なんですけど」

「はあ、何か御用ですか?」

 小さなしわがれた声は、ドア越しに聞き耳を立てないと聞き取れない。僕は、反射的に声を高くして答えた。

「あのう、ご挨拶に来ました!」

「え?」

 ガチャンと取っ手を回す音がして、ギギッとドアが開けられた。でも中から人が出てくる様子もなく、ぴんと張ったチェーンは外される事はなかった。

「はい、それはご丁寧に……」

 10センチのドアの隙間から、薄暗い中の様子が覗けた。僕は、廊下の天井灯の灯に、年老いたおばあさんの小さい顔を半分見ると、

「田崎と言います。よろしくお願いします。301号室です」

 僕が隙間から、石鹸の箱を差し入れると、ミイラのように骨が浮き上がった手が出てきて、

「これはご丁寧に。こちらこそ宜しくお願いしますね」

 と、言った声は少し明るく聞こえた。

 部屋の奥のほうで、

「誰か来たのか?」

 と、男の人の声がした。その声もやっぱりしわがれた弱々しい声で、どうやらご主人がいるようだ。

 おばあさんは、その声には答えず、

「では、失礼しますね」

 と言って、またギギッとドアを鳴らして、バタンと閉めた。

 まあ、別に接点のない隣近所なんてこんなものだろうと、愛想のない住人に口元が歪んだ。 親しくするとは限らない。都会の集合住宅なんて、誰が住んでいるのかも関係ないって言うし。僕は気を取り直し、その隣の部屋のチャイムを押した。

「は〜い」

 と、今度は普通に聞こえる大きさの女性の声。そして、すぐに扉が開いて、チェーンの掛かった隙間から顔が覗いた。

「あの、今日引っ越してきたので、挨拶に……」

「あ、ちょっと待ってね」

 一旦バタンとドアを閉めると、ガチャンとチェーンを外す音がして、すぐに勢いよく開けられた。

 50歳手前くらいだろうか、太った女の人が、細い目を大きく見開いて、僕をじっと見た。

「あの、301に越してきた田崎です。お世話になります」

「あら、ご丁寧に! 山田です。うちは子供はもう独立してるので、今は夫婦だけなんですけど、良かったわ、空き部屋が多いと、何だか淋しいから」

 そういうと、差し出した手の包みを掴んだ。

「有難う。もしかして学生さん?」

「はい。W大の理学部です」

「あら、優秀なんだ。そういえば、確かうちの隣の女の子もW大って言ってたような……」

「え? ここ、大学生住んでいるんですか?」

 僕は驚いて、聞き返した。

「そうよ、隣の矢木さん。ほんとに学生さんが入るのは珍しいのよ。彼女も一昨日越してきたばっかりよ。貴方と同じで、きちんと挨拶に来て……。何だか、このマンションのこと、いろいろ尋ねていたよ。ほら、やっぱり古くてきたないでしょ? 格安な理由とか気になったみたいで」

 太った体を乗り出すように、僕に顔を近づけて、山田さんの奥さんは顔をしかめた。確かに、女子学生がいるとは、僕も驚きだった。それも同じ階に……。

「あら、帰ってきたんじゃない? 声掛けてみたら?」

 五つ並んだ部屋の中央に階段が位置しているが、その下の方から、カツカツとヒールの靴で上ってくる足音がした。

 僕は、快く迎えてくれた奥さんにもう一度頭を下げて、ドアを閉めた。

 山田さんの隣の部屋のドアの前に立つと同時に、その足音の主が廊下に上がってきた。

「あ……」

 部屋の前に立っている僕に、怪訝な顔を向けて、その人は立ち止まった。

「あの、うちに御用ですか?」

 肩までの黒髪は、癖のないストレートで、揃った前髪が目線まで下りている。大きな黒い瞳が印象的な奇麗な女の子。つい、見惚れてしまって、言葉がすぐに出てこなかった。

「どなたですか?」

 彼女はぐっと睨むように視線を送ってきた。

「あ、あの、すみません。今日、ここへ引っ越してきたので、挨拶に回っているんです」

「ああ、301に入った人ですか。ごめんなさい。びっくりして」

 僕に向いていた顔がにっこりと笑顔になった。

「はい、田崎と言います。あの、山田さんに聞いたんですが、貴方もW大の学生なんですか?」

「ええ、文学部の2回生ですけど。貴方もですか?」

「はい。と言っても、まだ始ってませんけど」

 彼女はふふっと軽く笑うと、

「そうですか。後輩なんだ。矢木 (きょうです。きょうは京都の京です。よろしくお願いします」

 と、笑顔で会釈した。

 同じ階に、一人暮らしの女子大生。それも同じ大学。僕は、何だかパッと目の前が明るくなった気がした。いや、勿論下心は先輩に対して失礼というものだが、この薄汚れた古いマンションが、途端に住み心地の良いところに変わったのは確かだ。

 僕は、テレながら石鹸を手渡すと、

「よろしくお願いします」

 と笑いかけた。彼女は包みを受け取りながら、ふっと僕の肩越しに視線を止めた。

「あ、猫……」

 振り向くと、端部屋の老夫婦の部屋が音もなく開けられていて、ドアの影から、真っ黒な猫が覗いていた。

「ニャアア……」

 低い声で一声鳴くと、ヒョンと飛び出してきて、僕達の足元を足音も立てず走り抜けた。そして、階段の降り口で、振り返りじっと僕を見上げた。

「なんだか、猫にまであやしいヤツって思われたのかな?」

 と、僕は彼女に笑いかけた。

 でも、彼女は僕を振り返ることもなく、サッと姿を隠した猫のいた場所をじっと見つめたままだ。その顔は、何故だかとても暗い表情になった気がした。

「あ、ごめんなさい。じゃあ、これで」

 僕の前で鍵を開け、彼女は暗い顔をしたままで、部屋に戻った。


 ふうっと息を吐いて、夜の帳が降り始めた三階からの風景に目を向けた。住宅街の夜は意外に暗い。僕の故郷の町も都会の街も夜の静けさは同じ感じがした。

 僕は、矢木 京という女子学生の部屋に未練を残しながら、自分の部屋に戻った。 

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