28、恐怖の始まり 3
「亮ちゃん! タカさん!」
部屋のドアを開けると京が立っていて、安堵した顔で僕達の名前を呼んだ。
「良かった。何だかすごく心配した」
目を潤ませながら、部屋に上がった僕に抱きついてきた。高藤の前だったが、僕も彼女を力いっぱい抱き締めた。
「何にも無かったのね。タカさん」
京が高藤に笑いかけたが、彼は冷たいほど冷静な顔を京に向けて言った。
「京ちゃん、田崎、ここから出るぞ。準備して」
「え? 出るって」
高藤は靴を脱ぐと、流し台の横の冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を取り出した。
「とにかく今夜はここにいちゃあいけない。また女が現われるかも知れない」
そう言うと、ペットの水をゴクゴク喉を鳴らして飲んだ。京は、彼の様子に不安そうな顔を僕に向けた。
「女って?」
「大丈夫。でも、高藤さんの言うとおり、今夜はここにいない方がいい。どっか泊まるとこを探そう。急いで準備してきて」
「あ、うん。わかった」
京は、僕達の様子に只ならぬものを感じたのだろう。慌てて自分の部屋へ戻っていった。
僕も高藤も、突っ立ったままで、肩で息を吐いた。
「あの女は何ですか、一体……」
屋上での女の顔が浮かんできて、ぞくっと身を震わせて、高藤に言うと、
「このマンションで自殺した女の霊のようだ。俺にここから出てゆけって、何度も言ってた」
と、最後の一口を喉に流し込んで、強張った顔で言った。
「そうか……。五年まえ、このマンションのどこかで首を吊って亡くなった女の人がいるって聞いたけど、その人かな。まだ成仏してないんだ」
「ああ。ここにすごく執着しているようだ。恨みというより、このマンションに立ち入られるのを拒んでいるようだった」
「何か、理由があるんでしょうか」
そう呟いたあと、『おばちゃん』と言った女の子を思い浮かべた。一緒にここにいるように言っていた。
僕は女の子の事を話すのを迷ったが、もう、そんな悠長なことを悩んでいる事態ではない気がした。もしかしたら、高藤は屋上から飛び降りていたかも知れないのだ。
「高藤さん、実は僕、噂の女の子に会ってるんです」
高藤が驚いた顔を向けた。
「確かにあの子はいます。噂どおり幽霊です。名前はまゆこって言ってました」
「ホントなのか?」
彼の顔が見る見る青褪めた。開いた唇が、微かに震えている。その唇から、小さな声が漏れた。
「まゆこって……。京ちゃんの妹と同じ名前? まさか、そんな……」
流石の彼も、苦渋に顔を歪めている。
「きっと妹だと思います。HPで顔を見ましたが、顔も背格好も似てます。でも、京には見えなくて……。だから、彼女には何も言っていません」
高藤は眼鏡の奥の目を大きく開いたままで、呆然と僕を見た。霊がいたということよりも、京の妹と聞かされたことが衝撃だったようだ。
彼は額に手を当て、滲んでいた汗を拭い取りながら、
「そんなことがあるのか? だったら、彼女の妹は……」
と、考え込むように俯いて、低い声で呟いた。
「あの子が本当に真由子ちゃんなら、もう生きていないかも知れない。僕が会った子は、まるでバーチャル映像のようで、突然に消えたり現われたりするんです。それにあの女の霊のことをおばちゃんと呼んでいた。ここで一緒にいるって……」
「どうしたらいいんだ!」
高藤は突然搾り出すように言って、いつも落ち着き払っている顔を両手で覆って、そのまま頭を抱え込んだ。
僕は彼の取り乱した様子を見ながら、
「とにかく、妹のことは死んでいると決ったわけじゃない。京にはまだ言うつもりはありません。無駄に悲しませることになってもいけないから。でも、あの女のことは調べてみようと思います。自殺騒ぎのことはこの街でも有名だし、あの女の子の事も何か分るかも知れない」
と言うと、高藤は口元を真一文字に結んで、こくりと頷いた。
「誘拐も自殺も五年前……。ただの偶然だったらいいんだけど……」
二人で思わず顔を見合わせた。嫌な予感がしているのは、僕だけじゃない。
しばらくして、ドアがガチャッと開き、京がバッグを提げて入ってきた。
「待たせてごめんなさい」
「よし、じゃあ出よう」
フックにかけたジャケットを手に掛けて、僕は二人の後に続いて部屋を出た。灯を消した真っ暗な部屋の中を、もう一度見回してドアを閉めた。
外は、何事も無かったように寝静まっている。時折聞こえる犬の咆える声と、通りの車の音以外、静寂を破るものはなかった。
僕達は、足音を気にしながらマンションから出た。門のところで、何となくホッとして建物を振り返る。帰ったとき灯が点いていた窓も、今は消えていて、本当に真っ暗だ。人のいる気配さえ消し去って、古びた建物は夜の闇に捕りこまれている。僕はぞっとして、慌てて踵を返した。
マンションの前に止めてあった高藤の車に乗り込んだ。後部座席に京と座り、僕は体を寄せて、彼女の手を握り締めた。京は不安な顔をして、運転する高藤と僕を交互に見ている。屋上で何があったのか聞きたいようだったが、僕らは押し黙ったままだ。あの女の霊の事を口に出すのが憚られた。この夜の闇の中では。
住宅街を抜け、車がまだ行き来している国道へ出てきた。六車線の大きな道路へ出て、僕も高藤もやっと安堵したように息を吐いた。緊張が解け、僕はシートに背を沈めた。
京がその様子を見ていて、堪らずに尋ねてきた。
「ねえ、いったい何があったの?」
「え、ああ。女の霊を見た。高藤さんも僕も……。多分、京を襲った霊だと思う。地縛霊らしい。あのマンションに居ついている霊だ」
「え……」
京は途端に恐怖に引きつった顔で、僕を食い入るように見る。僕は彼女の肩を引き寄せて、しっかり胸に抱いた。
「大丈夫だよ。僕達に恨みを持っているというわけではなさそうだ。霊感のある高藤さんをみて、自分の住処が荒らされると思ったんじゃないかな」
「それは一理ある」
と、ハンドルを切り替えしながら、高藤が相槌を打つように言った。
「何が理由かは分らないが、相当にあのマンションが気に入っているみたいだ。五年も経っているのに成仏できないでいるんだから。今度は京ちゃんには姿を見せなかったから、俺がターゲットだったんだな」
京は、首を絞められた事を思い出したのか、身を竦めて僕の胸を掴んだ。バックミラーを覗くと高藤の顔がニコリともせずに、僕と京を見ている。
「大丈夫だよ、京ちゃん。後をついてきたりしていないから。今夜はゆっくり眠れるぞ」
「で、高藤さん。僕らはどこへ行くんですか?」
「その前に確かめときたいんだが、京ちゃんはこいつのことを好きなの?」
京は高藤のあけすけな質問に真っ赤になって、僕に寄り添っていた体を起こした。
「つまり、付き合ってるのかってこと」
デリカシーのない言い方にムカッとしたが、京の答えが気になって、チラッと彼女の顔を見た。京は俯いたまま、恥ずかしそうにして、
「え、あ、その、好きです……」
と、答えた。瞬間、僕の頭から幽霊を見たことがぶっ飛ぶ。顔を熱くしながら、バックミラーの高藤の顔を気にして覗き込んだ。
彼は動じる様子もなく、
「そっか。じゃあ……」
と、急にハンドルを切って、信号を右折した。広い道路から、狭い路地へ入る。
「俺のワンルームに、三人はとてもじゃないけど寝られないからね。この時間じゃあ、ビジネスホテルも取れないし」
前方に、暗いビルの間から、奇妙なほど明るい一角が見え始めた。カラフルなネオンがまだ煌々と灯っている。
彼は車の速度を落とした。京も僕も驚いて、その煌びやかなネオンを見ている。
「あ、あの、もしかしてココですか?」
高藤は、相変らず平坦な言い方で答えた。
「そう、ラブホ」
「…………」




