27、恐怖の始まり 2
人は太古より夜の闇を恐れてきた。それは闇の中に蠢く得体の知れないものに、身の危険を感じるからで、まさしく今の僕も同じだった。死というものを身近に感じず生きている僕らにとって、既に死んだ人間と対峙する事はこの上ない恐怖だ。
今、僕の近くに、説明できない恐怖が迫ってきている。その予感を打ち消すことが出来なかった。
どうしたら良い? もしあの子が京の妹なら、もう死んでいるかも知れない。
彼女に知らせたほうが良いのか……。僕は迷っている。それに、京の首を絞めてきたという女、窓に見た白い手……。
カーテンの向こうは、底の知れない闇が支配する禍々しいモノ達の世界と変わり果て、僕を呑みこもうとしているのかもしれない。
弱々しい人工的な灯の下でやっと安堵している僕は、何の力もない脆弱な肉体を守ろうと、ただ脅えるだけだ。
さっき見た全てを、誰が信じてくれるのか。この恐怖を誰がわかってくれるのか。
僕は京の帰りを待ちわびた。僕の部屋の明かりを見たら、きっと訪ねてくれる。京にあえば、この悪夢から覚める気がする。
長い時間が経ち、やっと11時になった。僕は自分の周りのあらゆる音に敏感に反応しながら、身じろぎもしないで、彼女を待っていた。
京は帰った様子はない。高藤と一緒なのだろうか。
連絡しようとポケットのケータイを取り出して、ハッとした。やっと充電切れしていることを思い出した。
「バカだ。これじゃあ、彼女にケータイもできねー」
大きくため息を吐き、動かない体をやっと立ち上がらせた。
その時、外の廊下にせわしい足音が響いてきた。
カツカツカツカツ……。
階段を駆け上がるヒールの音。段々近づいてくる。聞き覚えのある靴音。
「京!」
僕は玄関のドアに走り、鍵を外した。
「亮ちゃん!」
押し開いたドアへ、京が飛び込むように入ってきた。
「遅いよ、京」
そのまま抱きとめて、彼女の肩に顔を埋めた。やっと触れた人のぬくもりにホッと息をついた。でも、京は息を弾ませて、脅えた顔で僕を見た。僕の腕を掴んだ手が、痛いほど食込んでいる。
「亮ちゃん、変なの、高藤さんが……。一人で上の階に上って行ったの。ねえっ、何とかして」
彼女は、声を震わせて蒼白の顔を強張らせて言った。僕は京から体を離し、顔を覗きこんだ。
「上って行ったって、どうして? 何があったの?」
「分らない! 車で送って貰って、貴方の部屋の明かりを見たら、彼が会うって言い出して上がって来たの。そしたら、二階の踊り場で急に立ち止まって、階段を睨みつけてた。私に亮ちゃんの部屋に行けって怒鳴って、自分は上の階へ上っていったの」
「上へ?」
と、尋ねて、ぞうっと背筋が凍りつく気がした。
まさか、屋上へ……。スーパーで聞いた自殺の話が思い出された。しかし、冷静な彼に限って、滅多なことにはならないと思ったが。
「京! 君はここにいろ」
そう言って、彼女を部屋に上がらせて、靴を引っ掛けた。
「亮ちゃん!」
「心配するな。高藤を連れてくるから」
ドアを勢いよく閉めた。そして一目散に上へ上って行った。
薄暗い階段を一つ飛ばしに駆け上がった。何だか、胸騒ぎがする。
「高藤さん?」
四階の廊下を見たが、姿はない。体を翻し五階へ上った。
ダダダッと息を切らして、一気に五階の薄暗い廊下へ上がったが、やはりいない!
そのまま、勢い良く屋上へ続く階段を駆け上がる。
屋上へのアルミのドアが見えた。ドアは半分開いている! そこから、ゆるりとした風が流れ込んできた。僕は、一瞬たじろいだ。
「た、高藤さん……」
止まった足は、屋上へ上るのを拒否するように動かなくなった。ドアから半分覗いてる暗闇を、息を呑んで見た。
招き入れるようなドアの向こうの闇に、体が恐怖で縛られる。
「高藤さん!」
叫んで、大きく息を吸い込んだ。躊躇っている場合ではないと、何かに背を押された気がして唇を噛み締めた。一歩ずつ、ドアに近づく……。
ドアの冷たいノブを掴んで、グッと力を込め大きく開け放した。真っ暗な屋上が広がる。
「あっ……」
目の前の光景に、声を上げそうになり噛み殺した。
広い、ガランとした屋上は、腰高の鉄柵に囲まれている。灯もなく、近くに高い建物の影もなく、暗い空へ繋がっているように見えた。
そこを高藤の黒い影がゆっくり歩いている……。
「うっ!」
彼の向かう先に、信じられないものがあった。僕は足を止め、それを息を殺して見た。体から体温が奪われたように、背筋が凍りついた。髪の毛が逆立って、粟立つ皮膚が小刻みに震える。
その鉄柵の向こう、つまり、屋上の向こう側に白い衣服をはためかせた人が、夜空に浮かんでいた。
ぶらりと下がった白い足と手は、空に吊り下げられたように力がない。闇が動いているように、大きく髪が横に流れていて、白い顔が無表情のまま、細い目を虚ろに開いていた。白いワンピースを着た女の人! その人に向かって、高藤は進んでいる。
「た、た、か、とう」
声が出せない。彼は一歩ずつ、曳かれる様に宙に浮かんだその女へと近寄ってゆく。
あと数歩で、屋上の鉄柵……。高藤は何をしようとしているのか……。
凍りついたように、立ち尽くす僕の後ろで、突然声が聞こえた。
――――おばちゃん、こわい。
ゆっくり、その声の方を振り向く。
すっと僕の隣に、あの子が現われた。その目は何故か脅えるように、闇に浮かぶ女を見ていた。
――――おにいさん、おちちゃう。
「えっ!」
高藤を見ると、鉄柵を片手で掴んでいた。
「高藤さん!!」
縛りが解けたように、僕は彼に向かって走った。全速力で!
「やめろーっ!」
浮かぶ女の白い影に大声で叫んだ。女の冷めた顔が、僕の視線と絡む。虚ろな目がカッと見開いて、ぎりっと鋭い視線が向けられる。
僕はそのまま、高藤に背後から飛びつき、彼を冷たいコンクリートに倒した。勢い余って、鉄柵に体をぶつけた高遠が「ううっ」と苦痛に呻く。
彼に覆いかぶさったまま、僕は顔を上げその女を睨みつける。冷ややかな顔は、美しかった。しかし、その目は突き刺すように僕を見つめた。その目付きにぞくっと言い知れない冷たいものが背筋に走る。でも、僕は目を逸らさなかった。
ところが、女の顔は突然崩れ始めた。皮膚に赤黒い点が現われたかと思うと、どろっと皮膚が剥がれた。
「ううっ!」
体がぎゅっと強張り、息が出来なくなった。そのおぞましい姿。白い体も、どろどろと溶けるように赤黒い色を帯び、崩れてゆく。そして、見ている僕の前で、頭から闇に呑まれるようにその姿を消していった。
空にはまた、静かな闇が戻る。僕は、息を殺して、辺りを見回した。でも、女の姿も、そして、あの子の姿もなかった。
「田崎……」
僕の体の下で、高藤が苦しそうに声を出した。僕は体を離して、彼を起こした。
「大丈夫ですか?」
「ああ、どうしたんだ。俺は……」
「覚えてないんですか?」
「ああ……。階段で、女にあった。はっきりと見た。でも、人じゃない……」
「僕もここで見ました。睨んでいた……。僕達、友達だとは思われていませんよ」
高藤の手を取って、立ち上がらせた。彼は背中に痛みがあるようで、苦痛に顔を歪めた。
「大丈夫ですか? とにかく部屋へ戻りましょう。京が待っている」
彼は、
「急ごう」
と言って、歩き出した。僕はもう一度振り向き、女のいた辺りを見た。変わらない夜がそこにあるだけで、気配もない。
とにかく、早足で屋上を出た。




