26、恐怖の始まり
「き、君は、矢木真由子っていうの?」
――――まゆこっていうの。
「おねえちゃんがいる?」
――――いるよ。がっこういってる。
「まってるの?」
――――うん。でも、おうちわかんない。
「なんで、わかんないの?」
――――おばちゃんがつれていってくれないから」
「おばちゃん……と、どこにすんでるの?」
――――ここ。
「え? このマンションのどこ?」
僕を見る深い闇の潜んだ目が、動きを止める。
女の子は首をひねって、口を閉ざした。何か、考えているような様子。
僕は息を潜め、女の子を見つめた。まるでバーチャル映像だ。体の半分がないなんて……。
その子の肌が白いのではないと、気付いた。色がないんだ。髪の黒色と、真っ黒な目……それ以外は、白……。つまりは、色黒の画像を見ているような感じだった。
得体の知れないものに、恐怖を感じるのは備わった本能だろう。この世で見たこともない子供の姿。この部屋に入ってから、髪の毛が逆立つような恐怖を感じている。心臓は爆発しそうなほどに脈を打つ。
悲鳴をあげて、すぐにでも逃げ出したい。それほど女の子は、奇妙で不気味だった。
でも、彼女はにっこり笑っている。僕に危害を加えるつもりはないと思えた。気持ちを落ち着かせて、女の子にまた尋ねた。
僕はこのチャンスを逃す事は出来ない。
「お、おばちゃんは、今どこにいるの?」
――――おばちゃん? あ、あっち。
女の子は振り返ると、すうっと窓に寄っていった。曳かれる様に後ろを追う。自分の呼吸する音が、震える唇から漏れるのを恐れるほど、部屋は静寂に満ちていた。
「ベランダ? 外にいるの?」
女の子はコクリと頷くと、僕を上目遣いに見ながら、すうっと宙に浮いた。
「あ、待って!」
僕が手を伸ばしたと同時に、カーテンを引いた窓に吸い込まれるように消えた。
「う、ううう……ああっ」
ワケのわからない言葉が漏れた。その場に力が抜けてしまって、ガクッと膝をつく。ぶるっと体が震えた。
僕が今会っていたのは、幽霊なのか? 話した……話したぞ……。おばちゃんとここにいるって……。
ふらっ立ち上がって、窓に近寄った。まだベランダにいるかも知れない。僕はカーテンに手を掛けた。そして、力強くひっぱり開けた。
暗い窓は、玄関に点いた天井灯の薄暗ぼんやりした明かりを反射している。僕は闇に沈んだような、真っ暗な窓に顔をつけ外を窺った。
目を凝らして、ガラス越しに闇を見る……。その時、僕の鼻先に突然何かが現われ、視界を遮った。
「ひっ!」
引きつった声と共に、後ろへ飛びのいた。窓に白い手が闇から飛び出してきた! 大きく指を広げて、まるで僕を掴もうとするかのように、左右の手がべったりと窓に張り付いている!
「うわあっ!」
ドンと尻餅をついたまま、2,3歩後ずさった。
手はそのまま、ゆっくりとガラスを引っ掻くように指を曲げると、ふっと消えていった。
「な、なん……何なんだ……」
錯覚か? 窓は何も変わらずに、真っ暗な闇を覗かせている。僕はぞっとして、飛びつくようにカーテンを引いた。
冷たい汗が背筋を伝う。やっと息を整え、四つん這いになって、四畳半へ戻ると、慌ててプルスイッチを引っ張り、部屋に灯を点けた。部屋の隅々まで明るく照らされ、やっとホッと息を吐いた、
崩れるように膝を折って、テーブルに伏した。そして頭を両手で抱え込んだ。
「やめてくれ……。一体、何だって言うんだ!」
呻くように呟く。
張り付いた手は大人のものだった。いや、気のせいだ。何かを見間違えたんだ。
部屋はまた静寂を取り戻した。僕はその静けさに、また恐怖を覚え体を強張らせた。
「ヤバイよ……。京……」
時計は、そろそろ10時になるところだった。




