25、呪縛 4
時間は八時過ぎ。
許しを貰って店を飛び出たが、京はまだ帰ってはいないだろう。だが、彼女が帰る前に、あのマンションで待っていてやりたいと思っていた。そして、昨夜の暴言を謝ろう。一番に……。
家々から漏れる灯で、街はまだ明るい。通りも、家路を急ぐ人が駅から続いている。
マンションへの道を歩きながら、夜空を見上げた。都会の星のない空は、街の灯に炙られる様に闇色が薄い気がする。西に傾いてきた、夜の隙間のような細い三日月も、心なしかその光が弱い気がした。
田舎の夜は、漆黒の闇と闘うように、月は鮮明な輪郭で夜空を切る。二階の自分の部屋の窓から惹かれるように見た、その清澄な光を懐かしく思い出した。
マンションに戻ってきて、門のところで建物を見上げた。カーテンから漏れる薄暗い灯が、それぞれの階のベランダの窓に灯る。 三階の京の部屋には、まだ灯は点いていない。一部屋空き家を挟んだ僕の部屋も真っ暗だった。
「まだ、帰ってないのか」
そう呟いて、建物を見渡す。半分以上暗い窓の中に、ポツリポツリと灯る明かりは、ひっそりと息を潜めているようだ。
あの暗い窓のどこかに、山崎さんが言った自殺した女の部屋がある。首を吊ったままで腐っていた死体……想像するだけで、ゾウッと背筋が凍る思いだった。
「まさか、僕らの部屋だって言う事はないよなあ」
じっと立ち止まって見つめていると、暗い窓に見たくないものが見えそうで、慌てて下を向いた。本当に高藤の言うとおり、とんでもないところに住んでいるのかも知れない……。
マンションの端の欠けた三段の階段を踏みしめ、玄関に入り、ゆっくり薄暗い階段を上って行った。どう言って謝ろうか……そればかりを考えながら。
廊下のぼんやり灯る天井灯で、ドアに鍵を差し込む。ガチャリと音がして、ノブに掛けた手を回した。ギッとドアが軋んで、真っ暗な部屋を覗く。一瞬届いた廊下の明かりが、バタムと閉まったドアに遮られた。
手探りで部屋のスイッチを探す。いつもなら、京が「おかえり」と嬉しそうに迎えてくれるのに……。そう思うと、何だかジンと、目頭が熱くなった。
「ホント、バカだな、僕は……」
滲んだ目を指でこすり、気を取り直して、再びスイッチを探そうと壁に手を這わせた。
――――にゃあー。
「え?」
四畳半に置いたテーブルの上で何かが動いた。
猫? 暗い部屋に浮かび上がるように、のっそりとその姿が立ち上がった。そしてピタリと動きを止めると、丸い眼でじっと僕を見つめる。
「何で、部屋の中に?」
僕の声が聞こえたのか、音もなくテーブルを飛び降りると、少し開いていた襖へ滑り込むように入った。
「何でだよ!」
やっと手に触ったスイッチをパチンと入れ、明るくなった玄関で慌てて靴を脱ぐ。もしかしたらベランダを開け放して出たのかもしれない。京のことで落ち込んでいたから、忘れたのかも……。
四畳半を突っ切り、少し開いた襖に手を掛けた。
ガラリと、勢い良く、半間分が開き、六畳間に明かりが入った。
「あっ!」
目に飛び込んできた部屋の様子に、一瞬心臓が飛びはね、荒くなる息にあわせるように胸で早鐘を打ち始めた。
襖に手をかけたまま、仁王立ちの体は、手足に杭を打たれたように動かない。
半分明かりに照らし出された狭い部屋に、まるで水中を泳ぐくらげのように、ゆっくりと長い尾を曳いた朱色の光が飛び交っている。五つ……いや六つ……。何の音も立てず、静寂の中をまるで広い空間を行き来するように、壁にぶつかるとスウッとそのまま吸い込まれる。そして壁から天井から、畳から、うつぼが這い出すように現われ、ゆらゆらと揺れながら縦横無尽に飛んでいる。
何なんだ? これは……。気が遠くなるような音のない空間に、体が平衡感覚を失っているように、寝ているのか立っているのか、生きているのか死んでいるのか、自分の全てが分らなくなった。
ただ、目の玉だけを動かして、飛んでる光を追う。すると、部屋の隅に小さな手首が二つ浮いているのに気付いた。ふわふわとタクトを振るうように空中に揺れて、光に指を広げる。僕は息を呑んで、その様子を見ていた。すると、次第に頭が現われ、長い髪を垂らした肩が浮かぶように見えてきた。
――――きゃっ、きゃっ。
白い小さな顔が現われた時、その子は笑っていた。鈍い朱色の光を弄ぶように。
「まゆこ……」
擦り切れたように声を失くした声帯を震わせ、やっとの思いで名前を呼んだ。
女の子が僕を見た。じっと、いつもの無表情な顔で……。
「まゆこちゃんだよね……」
搾り出された声に、女の子は胸から上だけの姿で、すうっと僕の傍へ近寄ってきた。
――――おにいちゃん。
その子の声が聞こえたとき、飛び交っていた光が一つに纏まりながら消えていった。すると、現実に戻ったように、ダンと体に重力を感じた。2、3歩ふらつき、息を吐き前を見る。
――――あそぼ。
差し出された白い手。
僕は、女の子に微笑みかけた。




