14、君のために 1
二時間くらい眠って、九時から始る講義のために、何とか目を覚ました。
夕べは酷い目にあったと、はっきりしない頭を振りながら、あくびを繰り返した。冷たい水で顔を洗ったが、目が覚めるどころか、その場に寝転がってしまいたい気分だ。
でも彼女のためだったんだし、二人でここに居たんだ。そう思うと、顔がにんまりしてしまう。
「京……」
洗面所の鏡に向かって、声に出して名前を呼ぶと、照れ臭さで真っ赤になった顔が映った。アホだろ、僕って。お陰で目が覚めてきた。
着替えを済まし、初めての講義のために購入したてのテキストを鞄に詰めていると、玄関のドアが「コンコン」と軽くノックされた。
「はい、どなたですか?」
「京です」
「矢木さん?」
また何かあったのかと、ドキリとして慌ててドアを開けた。驚いている僕に、
「おはよう。あの、ゆうべは本当にごめんなさい。これ、良かったら食べて行って。朝一の講義に出るんでしょ?」
と、彼女は夕べの様子とは打って変わって、明るく微笑み、僕に皿に盛り付けたサンドイッチと、ミルクの入ったコーヒーのカップの載ったトレイを差し出した。
「うわ、感激だなあ。でも、京ちゃん、こんなの作って、あれから寝てないの?」
「私は今日は、午後からなの。今から眠れるし。でも、田崎君はバイトも今日からでしょ? 私のために迷惑掛けちゃって……」
黒い前髪の掛かった瞳に、長い睫が影を作る。伏せ目がちに話す彼女は、何だか年下のかよわい女の子に思えてきた。
「そんなこと気にするなよ。それより京ちゃん、ケータイ持ってる? また、何かあった時にかけて欲しいから、ケーバン教えるよ」
「あ、うん。実は私も訊きたかったの」
京は、Gパンのポケットから、赤いケータイを取り出した。
赤外線でアドレスの交換をしながら、彼女も同じことを思っていたのかと、ほくそ笑んでしまった。少なくとも、僕の事を嫌な奴だとは思ってないんだ。
「じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
京は、上目遣いに僕を見て、少し赤くなった頬を持ち上げて笑った。
「うん。京ちゃんも。バイトから帰ったら、連絡する」
廊下を、振り返りながら部屋へ戻る彼女を見ながら、僕はケータイを宝物のように握り締めた。この中に、夕べの京の細い体が入っているような、そんな気がした。
始ったばかりの講義は、緊張感もあったが、教授の雑談の方が多くて寝不足の頭には有難かった。教授のおかしなオチに笑いも起こって、とても「物理学概論」などという小難しい講義の最中だとは思えない。僕は余裕で寝てしまった。
おまけに、胸ポケットのケータイが始終気になって講義どころじゃない。京のことばかり考えてる。もしかして、これはヤバイ気持ちなのかと、頭を抱えた。
彼女のことなど何も知らないし、彼女の気持ちだって、隣の後輩くらいにしか思ってないとしたら、ひとり相撲で喜んでる訳で……。何と言っても、あの高藤という男が気になる。
昨夜のおぞましい体験は、お陰ですっかり忘れられたが、何だか次々と考える事が生じてくる。
昼休みに、同じ学部というので知り合った桂木という友人と、学食で昼を食べる事にして向かっていると、突然胸のケータイが唸った。
「あ、ちょっと待ってて」
上着から取り出したケータイには、入れたばかりの矢木京の名前。僕は急いで開き、耳に当てた。
「京ちゃん? どうかしたの?」
昨夜の事が脳裏に浮かんで、慌てて訊いた。
――――「田崎くん? ううん、何も無いよ。違うの。私も学内にいるから、一緒にお昼食べないかと思って」
「え? ああ、いいけど。どこにいるの?」
――――「正面の門で待ってる」
「OK、今、行く」
隣に立っていた桂木に手を合わせて謝って、僕は急いで京の待つ門へ向かった。
同じ大学って言うのは何かと都合がいいなと、自然に緩んでくる顔をポンポンと叩いた。講義の合間に会いたいと思えばいつでも会えるし、大学から帰っても隣だなんて、これはまさに運命というヤツじゃないか。
門の両側に咲き誇る桜を、浮かれた気分で見ながら、僕は駆け足で門に近寄った。
「田崎君!」
僕に気がついて、京が明るい笑顔で手を上げた。
「京ちゃん……」
と、答えて叫んだが、途端に足を止めた。京の隣にひょうっと男が立っていた。高藤!
「田崎君、眠くて辛かった?」
京は、僕がむっとした顔をしたのを、眠いからだと思ったのか、心配そうに覗き込んだ。
「いや、大丈夫だって。あれ、高藤さんも一緒なんだ」
わざとらしく言って、軽く会釈すると、彼は眼鏡の奥の瞳を細めて、唐突に夕べの事を尋ねてきた。
「京ちゃんが、迷惑かけたんだって?」
「別に迷惑だなんて思っていませんけど」
彼女が話したと思ったが、言い方も癪に障る。不機嫌に口を尖らすように答えると、高遠は、
「彼女から今聞いて、驚いた。女に首を絞められるなんて、僕もそんなこと思いも寄らなかった」
と、眉間を寄せ困惑するように、額に手を当て沈鬱な表情になった。
「まさか、京ちゃんに害を及ぼすような奴がいるなんて、信じられない」
「高藤さん! 害を及ぼすって、あれは悪夢を見たんですよ。実際にそんなこと、起こる訳ないじゃないですか!」
脅える京の前で、平気で話す彼に腹が立った。その場で見たわけでもないのに!
彼は、怒った顔を向ける僕をじっと見つめて、不愉快そうな顔をするわけでもなく、淡々と話し続けた。
「とにかく、何か手はないか考えてみる。僕は研修があって、京ちゃんについててやれないから、君、彼女のこと頼むね。君ならきっと大丈夫だ」
「分ってますよ。京ちゃんは僕が守ります。でも、貴方が言うような霊感じみたもの、僕には全くありませんよ」
高藤は、僕の剣幕に薄ら笑いを浮かべると、
「霊感? そんな特殊な能力じゃない。君は、君自身をしっかり守って貰っているんだよ」
「はあ? 守ってもらっている? 誰にですか?」
彼は、僕の肩越しに背後を見つめた。
「君を愛しく思っている守護霊たちに……」
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