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10、隣人 4

 上の階から覗き込んだ顔を息を呑んで見つめた。青白い無表情な顔に掛かる長い髪。動かない光のない目。その顔は、薄暗くなった階段の湿気のある淀んだ空気に溶けてしまいそうに見えた。僕はその子をはっきりと見ようと目を凝らした。

 どこの部屋の子だろう。

 上から黙って見下ろされているのが堪らずに、声を掛けようとした時、女の子の小さな顔が、ひやっと笑ったように見えた。声も立てず唇がうっすら開いている。

 ぞくっと、言いようのない不気味さが僕の体を縛った。子供らしい可愛い笑顔には程遠い。むしろ気持ちの悪い笑み。だけど視線を反らせられない。

 僕は目を見開いて、その子に釘付けになる。まるで、蛇に魅入られた蛙のように……。


「田崎君!」

「ワッ!」

 突然、階下から声を掛けられた。驚いて振り向いた瞬間、持っていたケーキの箱が手を離れ、階段でバウンドしてコロコロと踊場まで転がり落ちた。

「あ、ヤバッ!」

 箱は不思議な顔をして見上げている、矢木京のGパンの裾から覗いた茶色の靴の前で止まった。

 彼女は、白い箱を拾い上げると、

「どうかしたの? そんなところに突っ立って」

 と、それを僕の方に差し出しながら、眉根を寄せた。

「あ〜あ、ケーキが……」

 彼女の元へ階段を下りて受け取り、組まれていた箱の上部を開いた。京も箱の中を覗き込んで、

「わあ、いちごチョコチーズ生クリームケーキになってる」

 と、ぶっと噴出し、クスクス笑った。

「笑い事じゃねーよ。折角矢木さんと一緒に食べようと……」

「え? 私と?」

「あ、うん、あの、なんて言うか。その……、この前聞いた幽霊の話、もう一回聞きたいと思って……」

 彼女の端正な顔を間近に見て、途端に照れくささで、焦って幽霊話を持ち出した。

「このマンションの?」

「そ、そう。女の子……だよね。髪の長い……」

 そう言った僕を、彼女は強張った顔で見て、

「髪の長いって……、見たの?」

 と、脅えた声で言った。僕はさっきの女の子を思い出した。幽霊なんて言葉を使ったから、何となく背筋に薄ら寒さを覚えながら、

「いや、見たのは幽霊とかじゃなくって、今この階の上の手すりから女の子が覗いていたから」

 と、吹き抜けの階段を指差して見上げた。

「嘘!」

 京は、僕を押し退けるように階段を見上げながら、一目散に駆け上がった。そして4階へ続く階段の途中で、真剣な顔で辺りを見回している。しかし、さっきの子供の姿は、どこにもないようだった。

 幽霊をそんなに見たいのかと、半ば呆れて彼女を見上げていると、

「君、本当に見たの?」

 と、僕の背後に男の声がした。

「え?」

 振り向くと、僕より長身のひょろりと痩せた男が、銀縁の眼鏡を掛けた顔に神経質そうに眉間に皺を作って立っていた。

「女の子を見たの?」

「何ですか? あんた」

 不躾に愛想のない表情で突然尋ねられて、僕がムッとした顔を向けていると、矢木京がカツカツと階段を下りてきて、

「うちの大学の先輩の高藤たかとうさん。例のサークルの代表よ」

 そういうと、彼の前に立って、

「タカさん、誰もいないわ」

 と、浮かない顔で言った。

「そう簡単に出会えるもんじゃないよ。チャンスはこれからきっとあるよ」

 答えた男の言葉に呆れた。

 チャンス? 幽霊に会うチャンスってことか? 彼女は頷いて溜息を吐いている。 

 怪訝な顔で二人を見ていた僕を気にする様子もなく、矢木京は笑顔になって振り向いた。

「良かったら、田崎君もうちへ来ない? お茶を入れるわ。ごちゃ混ぜケーキもあるし」

「え、ああ、お邪魔でなければ」

 二人は、肩を並べ彼女の部屋へ向かった。後に続きながら、京は部屋に入れるつもりでこの男を呼んだんだと思うと、不愉快になった。

 彼氏なのか? だったらお邪魔虫は僕の方だ。

「遠慮しないで。どうぞ」

 玄関で躊躇っている僕に、彼女は平然と言った。男の方はさっさと部屋に上がりこみ、仁王立ちに中を見回している。

 京の部屋は、同じ間取りでも、僕の部屋より明るく感じた。窓に掛けられた花柄プリントの可愛いカーテンのせいかもしれない。 

 四畳半の方の部屋にカーペットを敷き詰め、4人掛けのダイニングテーブルを置いていた。 そこに男が座って、向かい合って僕も腰を下ろす。

「タカさん、どう? このマンションは」

 小さな赤いケトルをガスレンジにかけながら、彼女は男に尋ねた。彼は部屋を眺めながら、

「今は何も感じないが、あんまり良い状況とは言えないね」

 と言うと、頬杖をつき組んだ手に顎を乗せると、今度は僕をじっと見た。眼鏡の奥の切れ長の目が、真っ直ぐに向かってくる。

「何ですか?」

 男の視線にムカついて、もろに不愉快な顔で言うと、

「君はしっかり守られているね。君なら京ちゃんを助けてやれるかも知れない」

 と、突き刺すような眼差しを向けたままで答えた。

「は? 助ける?」

 

 訳の分らない男と同時に、キッチンでコーヒーを入れている矢木京を見つめた。


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