ミスティ・ブルー
人はミスティ・ブルーの夢を見るという。
ならばものは?
どんなものでも夢を見るのではないだろうか。僕はそう思いながら暮らしている。
ふと、真夜中に目を覚ました。
そとは暗かった。深夜だ。窓の外からは遠い夜景のみが光源としてぼんやりと降り注いでいる。月明りも混じっているようで、どこか幻想的に揺らいでいる気がした。
真夜中、月夜。その言葉に僕は浮かれた。
そうだ、趣味の散歩に出よう。そう決断するのに時間はかからなかった。
僕は早速、寝間着兼部屋着のまま適当な靴をひっかけて外に出ようとした。かがみこんだところで、視界に黒い革靴が入る。
ああ、こんな靴もあったっけ。
僕はしばらく前まで通っていた会社のことを考えた。くたびれたスーツを着てださい社員証を首からぶら下げたその姿は〈疲れたサラリーマン〉以外の何物にも形容できなかった。僕はその姿に辟易して、自前で革靴からスーツからベルトなどの小物まで、通勤着一式を新調した。
その矢先のことだった。心を病んで会社を辞めたのは。
今はといえば失業手当を喰い散らかして、適当に病院に通い、効いているのかどうかもよくわからない薬を飲んで暮らしている。それが良くないことだとはわかっていたけれど、それ以外の暮らし方をしらなかった。今まで、真面目一辺倒で暮らしてきた僕に、堕落は苦痛でしかなかった。
時間が、僕の心を圧し潰した。ずっとベッドの中に引き籠り、何もせずにいた。それを苦痛だと知っていながら、治療だと思って耐えた。
しかし、あるとき〈街を散歩する〉という趣旨のテレビ番組を見て気持ちが変わる。ああ、こんな生き方もあるのだ。
そうして見つけた趣味が散歩である。ひたすらに道を呆と歩きながら、景色を楽しむことは楽しい。そう気が付いたのは最近のことだった。以来、僕はことあるごとに外を歩きたがり、すっかり外出好きになっていた。
人生のフラッシュバック。こんなこと思い出さなきゃよかったのに。そう思った僕は、履こうとしていたサンダルで革靴を押しやった。
否、待てよ。
僕はクローゼットに眠っている〈あるもの〉を思い出す。
それは、金持ちの友人が道楽で開いた、立食パーティーに出席しなくてはならなくなったとき買ったもの。一回だけ袖を通して、それっきり箪笥の肥やしになっている燕尾服だ。
気取ってそれを着て、散歩に出るのも良いかもしれない。そう思い、僕は部屋の中へ取って返す。
クローゼットを開けると、カバーに埃がたっぷりと被った服が何着か目に入る。その中から、目当ての燕尾服をすぐに見つけ出す。
すっと袖を通す。自堕落な生活で体型が変わっているかもしれないと危惧したが、それは心配に終わり、前ボタンもウエストも以前着たときと全く変わらない状態で着ることができた。
なんだか楽しくなってきた。立ち襟に蝶ネクタイを結ぶと、なんだか髪をセットしたくなってくる。僕は洗面所に向かって電気シェーバーで髭を剃って髪をオールバックに整えた。
自分はまだこんな表情ができたのだ。
嬉しくなる。もう長いこと笑顔なんてものを忘れていた。表情筋が久々の動作に戸惑っているような気がする。
僕は最後に靴下を履いて、革靴に足を入れた。
ドアを開けると、外は薄っすらと藍かった。月明りに天鵞絨が照らされ、散らされた宝石のように星が瞬いている。
足を一歩踏み出すと、凛と冷えた外気が顔に触れた。心地よくなって、その空気を肺いっぱいに吸い込む。
このまま、どこへなりと。
僕は革靴の音を立てながら、あてどなく街を彷徨った。
何を見たか、と問われれば何も見ていないという言葉が正しいだろう。印象に残っている景色は少なかった。きらきらと光る夜景の中に身を浸して歩くのは気分が良かった。手を軽く振って、革靴の音の調子をとる。恰好もあいまって、まるで指揮者にでもなった気分だ。
どこまででも歩いて行けそうだ。どこへ行こう。
そんなことすら考えなかった。ただ自分の足が踊るままに行こう。
いつの間にか、景色は都会の中心からエアポケットのように開けた公園にたどり着いていた。おや、こんな所まで来てしまったか。僕はこの景色に見覚えが無い。相当遠くへ来てしまったのだろう。
道に迷ってしまったかな? と首を傾げていると。
ひら。
何かが、瞳の中で舞った。
花びらの様でいて、蝶の様で、バレリーナに似ている。僕はそれが気になって意識を目の前の光景に向ける。
そこには、ミスティ・ブルーのワンピースを着て踊る女性の姿があった。
女性は、妙齢と言われればそうとも見えるし、少女と思えばそう見えるし、中年と言ってしまうこともできるような、よくわからない印象の顔をしていた。どんなに目を凝らしても、その年齢を特定することができない。
ただひとつ言えるのは、美麗と言っていいほどに姿が美しかった。芯のある姿勢が、幅広で長いワンピースの裾を蹴り上げ、纏わせ、舞わせる。
その姿は花びらのようでいて、蝶の様で、バレリーナに似ている。
女性は踊り続ける。足元を見ると、黒いトゥシューズを履いていた。固いつま先が女性の舞に合わせて何度も地面の上で重力を失う。
思わず、その姿に見惚れた。
僕はそれしかできなかった。
人はミスティ・ブルーの夢を見るという。
ならばものは?
どんなものでも夢を見るのではないか。
そう、これはきっと革靴が見せた夢だ。ならばどんなことが起こっても不思議ではない。僕はきっと夢の中にいるのだ。
だったら、この夢に――嗜癖を持つべきではない。
この光景に依存してはならない。中毒性のあるこの光景の虜になってしまってはいけない。
怖気づいた僕は、ぐっと念じる。夢よ、夢よ覚めろ。こんなものを見せるんじゃない。僕はミスティ・ブルーの夢なんか見たくない。
そんな僕を馬鹿にしたように、女性の舞は唐突に終わった。
「ねえ」
僕は捉えられてしまう。女性に、女性の言葉に、期待してはならない。身構えて、何を言われても追尾しない、と心に決める。
「次の満月の夜に、またここで」
女性の言葉はそれだけだった。
だが。
僕に嗜癖の種子を植え付けるには十分な言葉だった。
以来、僕は何度もその場所に足を運ぶことになる。律儀に毎回、正装をし、革靴を履いて。
革靴を履いた満月の夜中でないと、きっとこの夢は見られない。
僕はこの光景に執着し、何度も女性の舞を見ることになる。
人はミスティ・ブルーの夢を見る。
革靴だって夢を見る。
その夢に嗜癖が付いたのならば、ともに夢を見ればいい。
何度だって、夜は来るのだ。