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無駄だと解っていながらも、俺は極力足音をなくして気配を消して歩いていた。
理由はもしかするとまだそこらに暦がいるのではないかという危惧があるからだ。先程の事も去ることながら、何よりも今暦と会ってしまう事が不味い理由は俺の制服のポケットにあった。
一度玄関まで行ってわざわざ教室に戻ってくる理由。
下靴と共に下駄箱に鎮座していたのは手紙の中身はごくシンプルで、そこには一つの文章が綴られていた。
『放課後の教室で待っています。必ず来てください』。
文章の最後に差出人を示す名前が記されており、その名前こそが何よりの問題だったりする。というよりそいつが俺を呼び出す理由が解らない。学校の教室。放課後。手紙を下駄箱に忍ばせるなんて手を使う事もそうだが、加えて教室に呼び出すなんて。
そいつにはそんな事をする意味なんて無いというのに。
現在の廊下。視界に納まる分には無人。
俺は一人分の足音を停止させ、教室の扉の前に立った。
この中で自分を待っている人物が誰であるか解っている所為もあり、こんな状況に至っても俺は何の緊張もしない。……経験は無いが、こういう時ってもっと特別な感情が湧いて出てくるものじゃないのか? 不安と期待の入り混じった、表現するならば青春を感じさせるような……
「……アホらしい」
呪文のような一言を口切りに扉に手を掛け、迷い無くスライドさせた。
教室の中はそれこそ燃えるような真っ赤。机も床も黒板さえも夕日の赤に染め上げられた。
この光景も見る人物と状況によっては地獄絵図にも見えかねない。……ことも無いか。
首を捻ったりして人影を探すまでも無い。
その少女は、俺の予想通りの位置に立っていた。
教室最後列。俺の隣の席。
あたかも当然のように。少女はそこにいた。
「久しぶり。遙瀬くん」
先に口を開いたのは少女の方。
「久しぶりってお前――」
その言葉を否定しようとして、ようやく気付く。
夕暮れ色の教室。いつかのことを思い出させられる。
記憶の回帰の方が思考よりも千倍早い。
彼女は今なんと言ったのか。久しぶり。そんな言葉を開口早々に言われるような相手ではない。それでも俺はその一言を否定できないのだ。
夕日の逆光で影に覆われたその表情を知ってしまったから。
「ああ――なるほどそういう事か」
この状況を把握するには、それだけで十分だった。
「確かに。久しぶりだな……えーと、何て呼べばいいのかな? お前もやっぱり」
「わたしには名前なんて無い。それはあなたも知ってるはずだけど」
口篭る俺にすぐさま答える。軟らかい笑みを湛えた彼女の表情はしかし、どこまでも儚い。
さて、と一息吐くように彼女は息を吐く。少女は腰を下ろしていた机から立ち上がった。
「来てくれてありがとう。遙瀬くん。本当ならこんな回りくどい事しなくていいんだけれど。でもこの方が落ち着いて話が出来ると思ったから」
「そうかい。そいつはありがたい配慮だね。それで、お前が俺に何の用だ? いやそれ以前に――」
自分のシリアスな声に驚きつつ、俺は決定的な疑問を投げた。
「――なんでお前が、ここにいるんだ?」
「ふふ。うん。そうだよね。やっぱり――そう思うのが当然だよね」
何が愉快なのか。彼女は喉を鳴らして笑っていた。
決して笑う事の無い表情。偽物の微笑みは仮面と何ら変わりない。――彼女の笑顔には、何の感情も無い。ただ笑い方を知っているから、それを試してみただけ。それだけの事に過ぎないのだ。それはまるでスイッチ一つで表情を切り替える事の出来る、空っぽの人形。
「わたしが笑うのがそんなに不思議?」
心を見透かした一言に、俺はなんと返答したらよいか。
彼女はくすりと笑い、
「それとも、どうしてわたしが笑えるのか。そこが不思議なのかな? でもこんなのは不思議でもなんでもないの。だってそうでしょ? 人の脳は記録した事柄を再生する事の出来る装置。脳が備える機能はこの四つ。わたしはその内、再生と再認を行っただけなのよ」
「そうかもな」
ぶっきら棒に俺は言って、
「で、その笑い方はいつ銘記して、保存に至ったんだ?」
相変わらず微笑みを絶やさない少女はそれこそ愚問だと言いたげだ。
「そんなのは簡単。元からそこにあった。それだけよ。勘違いしてるのなら言っておいて上げる。わたしの記憶はわたしの記憶だけど、同時にわたしの記憶じゃない。……ちょっと違うかな。例えるならば日記。白紙のページに出来事を記録したのはわたしじゃないわたし。わたしはそれを読み上げているだけ。解りやすかったと思うんだけど……どうかな?」
「それ、例えになってねえよ」
「あはは。そうだね、その通り。それじゃあ質問はそれだけ? そろそろわたしの用件を伝えたいんだけど」
「待った。最初の質問にまだ答えてないだろ」
笑顔に差した僅かな曇り。長い説明はそれを誤魔化そうとしていたのかもしれない。或いは、彼女は彼女の記憶――さっきの例えを採用するのなら日記だ――から、彼女もまた笑って話をはぐらかそうとしていたのか。
「どうしてわたしがここにいるのか、だったかな?」
まるで隠すつもりは無いとでも言うかのような口調。俺はそれに首肯した。
「どうしてわたしがここにいるのか、さて、どうしてでしょうね」
「…………」
そこで初めて彼女の口調に変化が現れた。彼女の湛える笑顔、或いはその存在さえも偽りだったとして、けれどその言葉だけは真実であるらしく、微笑みながら肩を竦める仕草はこの上なく人間味があった。
「敢えて言うのなら、それが初めから決まっていた事だから、かな。始まりが在るものには必ず終わりがあるっていうのは必然でしょ。だったらその逆も成立する。終わりがあるものには必ず始まりがあるの。わたしは『邂逅』から『終焉』の閉じた輪の中を永遠に彷徨う存在だから。終わりの次には必ず始まりが在る」
「敢えてって……余計に意味不明になってるぞ。何が言いたいのかまるで解らん」
「ごめんなさい。でもわたしに言える事はこれくらい。人は誰も自分の存在意義なんて、自分では理解できないものでしょ? それと同じ。その理屈はわたしにも当て嵌まる。わたしがここにいる理由は、わたしにも解らない」
それだけで十分だと言いたいのか、そこで言葉は途切れた。まだ質問はある? と問いたげな瞳は正面から俺の姿を捉えていて、これ以上追加で何かを訊いてしまえる雰囲気ではなくなっていた。
訊きたい事ならまだあるし、兼ねてよりの疑問も解決していない。
「そうか。解った。自分でも何が解ったのか解らんが、取り合えずもういい。――それじゃあ、次はお前の番だ。待たせて悪かったな」
「別に謝る事なんて無いのに。久しぶりの再会に質問攻めは付き物だからさ」
それは……違う気がする。
「本当なら色々話したかったんだけど、残念ながらあんまり時間が無いみたいだから手短に訊く事にするね。答えはイエスかノーで十分。それじゃあ、訊くね。
――遙瀬くん。わたし達がはじめてあった時、二年前の事を思い出せますか?」
その瞬間。俺は彼女の笑みの認識を改めさせられた。
初めから儚かった表情。しかしそれは俺の一方的な思い込みだったらしく。
――笑っているはずの彼女の表情は、どこか泣いているようだった。
それは二年前の事を思い出した所為か。
それは彼女が彼女である所為か。
「……ああ。思い出せる」
ややあって、質問と同時に発生した回答を俺は口にした。
「そう――それだけ聞ければわたしは満足。それじゃあ、この先に何が起きてもあなたは大丈夫。わたしも安心して、また眠っていられる」
語るその瞳は思い瞼を無理してこじ開けているよう。俺は何か言おうとして結局何も言えない。何を言うべきなのか。声にすべき文章を頭の中で推敲する事が出来ず、思考が追いつかない。
二年前。その言葉だけが、うっかり開けてしまわぬように鍵を掛けて閉ざした記憶の引き出しを開いてしまったらしい。単純な脳の作りが嫌になる。絶対的に関連性のあるキーワードを、パスワードとして設定してしまうのだから救いようが無い。
開けてしまったパンドラの箱。
その中から溢れ出す禁忌の記憶。
「……次に会うときは、全てが終わった、時」
眠そうな瞳は遠くを見つめている。
誰にも見えない何かを見据えているような瞳は、これから起きる事を見ているかのよう。
まさにその通り。この時から彼女は知っていたのだ。
孤独、罪、禁忌、絶望。
四つの想いが奏でる四重奏。今日この場での会話は序奏に過ぎない。
――日常に紡がれた多重奏。それは脆い砂の土台の上に立てた日常の楼閣を一瞬にして風化させ、落城させた。
「それじゃあね、遙瀬くん。
……最愛なるわたしの――絶望」
再会の約束。
開演の祝詞。
最後の一言を言い終えて、彼女はその場で眠りに落ちた。
物語の幕は上がり、愉快、爽快、痛快、後悔。
夢のように儚い日常の終焉と共に始まる物語。俺はただ舞台の上で筋書き通りの役を演じるしか無い。それが無為にして滑稽であると解っていながらも。彼女の謳う物語の上で。
「こっちの質問にはまともに答えないくせに、勝手な事だけ言いやがって……」
死んだように眠る人形のような少女を見下ろしながら、俺は溜息混じりに呟くのだった。
(第一章:日常旋律/了)