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 ……




 ――小さい頃の、夢を見た。

 凍えた月の夜。

 見上げた蒼穹は翳り無く煌びやかで。

 三千世界を満たす理は綺羅星の様。

 小さな頃の夢は溢れんばかりの禁忌に犯されて。

 いつしか何もない空白ばかりを求めていた。

 見えてるものは世界の理。ずっと遠くの開闢。

 見えないものは自分の心。ずっと近くの終焉。

 手にした叡智は色褪せた世界。

 鏡写しの心象。

 幻想にも似たいつかの理想、見失ったいつかの純真。

 わたしは陽が暮れてからも家に帰らず、近所の公園にいた。ぼろぼろで、酷く廃れた公園だった。遊具はどれもこれも錆付いているし、昼間だって人は寄り付かない。公園には何もなかった。否、この公園には生きているものがなかったのだ。

 既に使われることがなくなった鉄の遊具たちも、空間の中央に屹立する一本の木も――ここにいるわたしでさえも。何もかも生きていない。生きた、心地がしない。

 こんな世界にほとほと嫌気が差していた。

 みんなが自分を偽って、薄汚れた世界に。

 学校で会う同年代の子供達は割合綺麗なものだった。けれど、学校という社会の縮図は、どんな綺麗な子供達でも時を経て汚れていくという証明でもあった。わたしの周りにいる、まだ汚れていない彼ら彼女らも、いつかあんな風に汚れてしまう。

 でもそれは仕方のないことなんだ。

 綺麗なものはいつか汚れる。永遠の輝きなんてない。いずれは色褪せ、風化して崩れていくのだから。それが大人になるということ。それが、人として完成するということ。大切な幻想と引き換えに、夢の欠片もない現実を手に入れていくこと、それを受け入れるということが成長。

 ならば、わたしは大人になりたくなかったのだろうか。

 大人になって、汚れてしまうのが嫌だったのだろうか。

 それも違う。

 唯寂しかっただけなのかもしれない。誰かに手をとって欲しかったのかもしれない。

 でもわたしには、自分と変わらないはずの友人達が穢れに見えてしまって――自分から、触れることを拒絶していた。こんな言い方をすれば正しいと思う。わたしは、怖かったんだ。知らないものに触るのが。その知らないものが自分を汚すのが。

 だからわたしは、いつまで経っても子供のまま。

 大人になる為の知識は沢山持っているのに、知識よりも大切なものを手に入れられなくて。遙瀬空は、ずっとあの日のままなんだ。

 そう思うと、何だか家に帰るのがバカらしくなった。

 そんなことには必要性がないみたいに思えてきた。

 家に帰れば、父と母と兄がいる。

 みんな、わたしのことを解っていない。わたしが抱えてる思いなんて、知りもしない。

 学校の帰り道、ふと立ち寄った公園でわたしはぼんやり時間を過ごした。

 錆付いたブランコに乗ってみたり、錆付いた滑り台を滑ってみたり、錆付いたシーソーを一人で揺らしてみたり。公園の前を歩いていく学生や大人や親子や恋人や――兄弟や姉妹を見送って。泣きそうになる自分にも気付かずに、黙って空を見上げた。

 そして今に至る。別に何がしたかったとか、そういうのはない。思いついたからこうしていただけ。家にも帰らず、ぼんやりと世界を眺めていた。夜空には星が瞬いて、月が輝く。今頃は、みんながわたしを探しているかもしれない。

 でも、いい。

 家への帰り道は、思い出そうとしても思い出せない。思い出しても、きっと辿ろうと思わない。そうと解って、気が付いた。わたしは帰り道を思い出せないんじゃない。思い出したくないんだ。 

 誰もいない公園。一人きりの世界。

 まるで時間が止まったみたいだった。勿論錯覚だけど。でも、本当に。

 自分だけが世界から取り残されて、置いて行かれているように思えた。

 思っていたのに、

“やっと見つけた”

 そんな風に、話し掛ける声があった。

 わたしは声の方を見る。そこにはわたしより一つ年上の兄がいて、白い息を吐いていた。

“なにしてるんだよ、ほら、帰ろう”

 そういって兄は手を差し出す。わたしはそれを一瞥し、拒絶した。

 人との係わり合いは避けていた。理由なんてなくて、無意識の内に。寄ってくるものは傷付けてでもはね退けた。他人と馴れ合うのに意味を見出せなかったから。それに、みんな今はわたしと変わらなくてもいつか大人になる。わたしを取り残して、違うものになる。

 だから先にはね退けた。

 いずれみんながわたしを拒絶するのなら、先にわたしがそうしてしまえば傷付かない。彼らは、わたし一人に拒絶されても孤独じゃないから。自身の存在自体を否定されてしまうことは、ないのだから。

 わたしの拒絶は兄にまで至っていた。兄だけじゃない。母親も父親も。大好きだから遠ざけた。

 だって、わたしは可笑しい子供だから。

 破綻して、停滞した偽者だから。

 それがばれたら嫌われる。嫌われて、拒絶される。

 遙瀬空は、そうやって自分の居場所を失くしていった。

 わたしは世界に一人だけ。

 世界にわたしは一人だけ。

 ずっと変われない、変化することのない永遠の時間。

 孤独なだけの、破綻した時間。

“空……?”

 兄が首を傾げている。差し出した手は今もなお、わたしの手に握り返されるのを待っていた。

 ぎぃ、と錆びた鉄の擦れる嫌な音。

 見れば、空白だったわたしの隣のブランコに兄は座っていた。

 それから、会話のない時間が流れる。

 兄は無理矢理わたしを連れて帰ろうとしないし、説得しようとする気配もない。呆れ果てて途方に暮れている風でもないし、何か善後策を講じている風でもない。兄は無表情に鎖を握り、時折吐き出す息を曇らせながら果てしない暗闇を眺めている。

 早く帰ればいいのに、そう思うとわたしは知らず口を開いていた。

“どうして”

 と。弱々しい声だった。

“どうして、帰らないの?”

 じっ、と観察するように兄の横顔を見る。

 ぎぃぎぃ、ブランコの揺れる音だけがこの世の全て。冷たい風。凍えた月。夜の世界は悉く体温を奪っていく。容赦などなく、慈悲などなく。兄の顔を見れば、寒さを堪えているのは明らかだ。だから早く帰ればいいのに。なのに、兄は帰ろうとしない。身を裂く痛みも同じ寒さに耐えて、わたしの隣にいてくれる。

 兄は――橙弥は、いった。

“だって、空はまだ帰らないんだろ?”

 当然のようにいって、無邪気に微笑む。

 橙弥の笑顔が、わたしには信じられないくらい暖かくて。その温もりがわたしに向けられているのだと解って。心の奥が、ぎゅっ、と痛む。こんな優しい温もりをわたしは拒絶していたのかと思うと、大切な物をネコソギ切り捨てていたことがとても哀しかった。

“先に、帰らないの?”

“うん。空を連れて帰らなくちゃいけないから。だから待ってるよ”

“わたし……わたし、は……”

 なんといえばいいのか解らなかった。

 心を知らないゼンマイ仕掛けの人形。中身は空っぽで、空っぽなのに世界の全てが入っている。その全ての中に、遙瀬空は含まれていなくて。忘れてしまった自分自身を思い出せなくて。

 人であることを忘れていた。

 わたしは世界の全てを、『穢れ』と『そうでないもの』に分けて隔たりを作っていたから。万物は総じて枠の外。そうして作り上げた自分だけの世界は、空っぽで一人ぼっちの綺麗な世界。空に輝くのは綺羅星の如き禁忌。触れようと願っても届かない、尊い想い。

 触れてみたい。関わってみたい。

 初めてわたしはそう願った。自分が遠ざけたもの、切り捨てたもの、零してきたもの、傷つけてきたもの、壊してしまったもの、破り捨てたもの、拒絶したもの、忘却したもの、目を背けたもの、遙瀬空という存在、遙瀬橙弥という兄に、触れてみたい。

 でも出来ない。

 だって遠ざけたのはわたし自身だから。手を伸ばしても星には届かない。水面に映る月を救い上げても、それは余計に二つの距離を広げるだけ。わたしが自ら離れていったものに、今はもう届かない。

 どうして拒絶してしまったのか。

 どうしてもっと、大切な物を残しておかなかったのか。

 そう思った瞬間。

“ねえ、どうしてセカイは汚いのかな”

 涙と一緒に、その言葉は溢れ出した。

“……さあね。そんなこと、わからないよ”

 声は質問に答えられないというよりも、そもそもお前は何を言っているのかわからない、と言っているみたいだった。それが気に入らなくて、わたしは少し口調を強くして問いかける。

“みんな、ウソツキばっかり。本当のことなんて一つもないの。ねえ、どうして?”

“ううん……。ウソツキばっかりとは思わないけど、でも、それは仕方ないことじゃないかな”

“どうして仕方ないの?”

“だってみんな、人には嫌われたくないから”

“違うよ”

 わたしは首を振った。

 ムキになって、さっきまで自分が泣いていたことなんてすっかり忘れて。

“そんなの、絶対に違う。だって、嫌われたくないからウソなんて言わないんでしょう?”

 わたしの反論に、う、と痛い所を疲れたように少年は口ごもる。

 本当は、少しだけ意地悪してみたくなっただけだった。

 だって、わたしの言ってることはそもそも矛盾してるんだから。でも、彼にはそんなこと解らない。

 人に嫌われたくないから、嘘を吐かない。それが出来るなんて、理想だ。嘘無き平和な仲なんて幻想に過ぎない。だって、人間はみんな汚い世界に生きているんだから――それとも、汚い人間ばかりだから世界が汚いのか――誰だって心のどこかに汚い部分を持っている。それを隠すために嘘を吐くんだ。

 それが、結果として自分を汚しているとも気づかずに。或いは、気づきながら。

 負の連鎖は螺旋のように続いていく。出口のないトンネルみたいに。明けない夜みたいに。

 わたしもそうだった。

 だから、もしかしたら、それを否定して欲しくてこんなことを言っているのかもしれない。わたしだけは違うんだと、綺麗な誰かに言って欲しかったのかもしれない。それこそ、幻想でしかないというのに。

 それを言ってもらえれば、わたしもいつかのように、あの星達と同じ場所に帰られる気がして。

“でもさ、ウソをついてまで好きになってほしいって気持ちが本当なら、そのウソも本当のことなんじゃないのかな”

“そんなのは都合のいい理屈です”

 少しだけ、歳にそぐわない口調をしてみる。

“相手を欺いて、自分を偽るなんて、それこそ偽者の自分を押し付けてるだけ”

 ――わたし、みたいに。

 橙弥は首を横に振った。

 それから困ったような顔になって、考え込む。その動作があまりにも歳相応過ぎて、どこか羨ましい。汚れを知らない、純粋無垢なその瞳には確かに綺麗な理想が見えているだろうから。それがわたしには遠すぎて泣きたくなる。その感情は兄への憧憬でも、わたし自身への嘲笑でもない。名前なんて無い、どんな定義も無い、戯言みたいな一片の感情。

“なんて言うか……わからないけど、それは違うよ。好きになってほしいから、ウソをついて……それで、結果が騙すことになってしまっても……ううん……えっと、それは”

 言いたいことは解らないでもない。でも、正しいのはわたしだから、橙弥は反論できずにいる。

 その姿が可笑しくて、羨ましい。

 自分には無いものを見ている気がして、遠い。直ぐ隣にいる一人の何でもない平凡が、ずっと眩しい。やがてとおくを見ながら橙弥が言う。数秒、ともすれば実際は数瞬の刹那。そんな途方もない間を置いて、兄は、言った。

“空はきっとキレイだから、このセカイは汚く見えるんだよ”

 どうして、少年の、兄の、橙弥の言葉は。

“わたし、は……だけど”

 遙瀬橙弥の言葉は、寸分狂いなく遙瀬空の心に突き刺さる。

“空は難しく考え過ぎなんだよ。だからもっと楽に考えればいい。ほら、例えばさ、星がキレイだからって、どうしてそう思うのかなんて考えないだろ?”

 話が脱線してる気がしたけれど、少年にしてみれば百点満点の回答だったのだろう。

 誇らし気に笑って、わたしを見る。

 ……そうか、このときなんだ。

 橙弥は兄としてわたしに接してくれている。兄だから、妹に優しくしてくれる。彼にとってそれは当たり前のことで、その考えはこの先汚れてしまうことはない。……だからわたしは、兄を尊んだ。その、何か汚されない在り方に心を奪われた。

 やっと思い出した。

 遙瀬空は、兄である遙瀬橙弥が好きだった。

 だけどそれはいけないこと。汚れてしまうことだったから。

 そのことを……ずっと忘れていた。

 綺麗なモノに汚れて欲しくなかったから、

 ずっと大切にしていたい想いが在ったから、

 敢えてそれを口にはせずに、箱に仕舞って鍵をした。

 その箱も心の奥のずっと深いところに隠して忘却の彼方。

 どこにあるかも解らないのに、

 わたしは大切なそれを禁忌にして、ずっと遠くから眺めていた。


 それはきっと、ずっと見えなかった心の奥。

 それがきっと、探し続けた大切な宝物。

 ――――亡くしてしまった、あの日の恋慕。


 それはきっとわたしの原風景。遙瀬空のはじまりの物語きおく




 ……




「結局は、全部逃避だったんですよ」

 今日も午前の授業が終わってから、わたしは屋上に来ていた。

 暦がお弁当を食べようと言い出すから、それに付き合ってから。予定よりも一時間近く遅い到着だったのだけれど、予想通り先客はそこにいてわたしを迎え入れてくれた。

「兄のことが好きだなんて、イケナイことですから。わたしは遙瀬空を正当化するために、そんな大事なことを忘れて逃げていたんです」

 わたしをキレイだと言ってくれた兄の言葉が、今更嘘になってしまわないように。大好きな人の言葉を真実として保つためには、わたしにとってその感情は邪魔だったのだ。

 だけどそんなの、ちょっと考えれば気が付く簡単な矛盾だ。

 綺麗なモノが汚れてしまわないように、だけどどうして。どうして汚れないようにしたのか。それは兄が言ってくれたから。大好きな兄が言ってくれたことだから。でもわたしにとって、綺麗であるために兄が好きだという事実はイケナイ思考で――ほら、行動が目的を否定してる。

 つまり、遙瀬空は長い間破綻していた。

「家を離れたのも、橙弥から逃げていたんですね。あのまま一緒に暮らしてたら、わたしの方がどうかしてしまうと思ったから。臆病なわたしの、身勝手な逃走でした」

「でもさ、空ちゃんは帰ってきたでしょ?」

 向かい側のフェンスに凭れる、御桜先輩はにこにこ笑顔で言ってくる。

 なんだか、悔しいな。この人は全部初めから知ってたみたいにわたしの話を聞いて、知った風に相槌を入れてくるのだ。そんな風に対応されてしまうと、わたしが無意味に一人相撲してバカを見てたみたいじゃないか。

 ……そう、本当に悔しいのは、それが比喩でなくて事実だということなのだ。

 御桜先輩はわたしの考えなんてお見通し、と言わんばかりの笑顔。いつも、底知れない無表情の笑みを湛えている。彼女自身が意識してそれをしているのか、或いは無意識の産物なのか。どちらにしろ、他人を惹き付ける彼女の笑顔は羨ましくあった。わたしは、気を抜けば他人を遠ざけてしまうから。

 だけどわたしだって知ってる。

 御桜先輩の笑顔は人を寄せ付けるけど、決して自分の中には踏み込ませない境界的役割をしているのだと。

「帰ってきた……か。ええ、そうですね。だけどそれだって中途半端なんですよ。自分の気持ちを忘れたい為に家を出たのに、他人行儀にして、これなら少しくらい兄妹らしくないかな。なんて思ってたんですから。ほんとう、バカみたいですよ」

 中学三年間、実家を離れて過ごした。それがわたしの逃避の最たる行為だったのだけれど、一緒にいれば壊れてしまう、と思ってたはずがいつしか逆になっていたのだ。一緒にいないと壊れてしまう。長い間……三年間別の家で生活していただけで、わたしの中から兄の姿が消えていく気がして、それが耐えられなかった。

 近くにいれば遠ざけるのに、離れれば近くにあることを望む。

 破綻した在り方を続けてきたわたしは、受け入れるのか突き放すのかを選択出来ずにいただけ。自分の心が見えない、なんていうのも自分への言い訳に過ぎないと気付いた。

 御桜先輩はそのことを知っていた。わたしでさえ気付いていない、わたしの虚言を看破していた。

 だから廊下で会ったときに、あんなことを言ってきたんだ。本当、悔しいけど全部正しい。わたしが自身を騙しているということは、兄を騙していることと同義だから。遙瀬空が遙瀬橙弥を好きであるという事実は間違いないんだから――。

「御桜先輩は……わたしが嘘を吐いてるっていってましたよね」

 冬の風が吹いていく。

 厚い雲が張り詰めた灰色の空は、だけど今日ばかりはわたしと心象を共有していないらしい。

 御桜先輩は笑顔で頷く。そんなこと、今更答えるまでもないというように。

「でも、それって悪いことなんですか?」

 自分でもどうかしてると思うけど、わたしは彼女にそれを訊かずにはいられなかった。

 昔のことを思い出したからか、自分の中で答えを出した疑問なのに他人の意見を求めたくなって。こんなことは初めてだけど――わたしは自分の回答が正しいかどうか、自信がなかったのだ。

「うーん……悪いことだね。なんにしても、人に嘘を吐くのはいけないよ」

「そうですよね」

 閻魔様に舌を抜かれるよー、なんて軽口を御桜先輩は返してくる。閻魔様は別として、わたしも同じ意見だ。やはり嘘はよくない。今度のことでわたしは痛感した。誰に対しても、勿論自分に対しても嘘を吐くということはその存在を否定することだから。

「だからね」

 御桜先輩は空を見上げている。わたしではなく、曇っている方の空。

 風に流される髪を押さえながら、憂愁の色を帯びた横顔が遠くを見詰めていた。この人にしては珍しく、言葉に区切りを作って焦らすように間を置く。心なし、次の句が口に出しにくいみたいに見えた。

 或いは。

 彼女本人が、それを望んでいないように。

 吹き始めた風が大人しくなってから、御桜先輩は言った。

「だからね、空ちゃん。一番悪いのはわたしなんだよ」

「御桜、先輩?」

 それは、憂いを含んだ笑顔だった。

 ……憂いを含んだ、笑顔の形をした無表情だった。

 泣きそうな瞳を無理矢理笑わせて、自身の内に秘めた感情を塞ぎこむように。御桜先輩は努めて平静に、いつもの笑顔を崩すことはなかった。それが、自分を騙すということなのに。彼女は、それを知っているはずなのに……。

「えっと……」

 なんていうか、その、どうしていいか解らない。

 御桜先輩が黙り込んでしまっては、わたしはどうフォローしていいものか解らないのだ。こんな苦しいだけの重たい空気、背負いたくない。というか、わたしでは手に負えない。

 それでも、

 わたしは言った。

 これから先、揺ぎ無い誓いを宣言するように。

 いつかのように、もう二度と見失ってしまわないように。

 遙瀬空が大切に秘めながら否定し続けた、その想いを。

「――わたしは、負けませんよ、先輩」

 わたしの言葉は、告白に似た、宣戦布告。

 御桜流深はわたしにとって、最大の恋敵になったのだから。

「橙弥は渡しませんよ。わたし、もう自分に嘘を吐くのは止めたんだから」

 御桜先輩は、わたしの宣戦布告にいつもの笑みで返事をしてきた。

 ――うん、知ってるよ。彼女の笑顔は、そう語っているようで。同時に、わたしには絶対に負けないという確信みたいな自信みたいなものがあって、ああ、もう……癪に障る。

 改めて認識するのだ。遙瀬空にとって、御桜流深は明確な敵だと。

 憎らしい、恨めしい、腹立たしい、恋敵。

 きっ、とわたしは御桜先輩を睨み返す。自分の言葉を撤回する気は全くない。

 何度でもいう。わたしは絶対に負けない。

 遙瀬橙弥が、遙瀬空の兄だったからこそ、わたしは橙弥が好きだった。その気持ちが禁忌だとも、わたしが否定してきたものだとも理解した上で受け止める。だってそれは、どんなに否定しても逃げても、紛れもない真実だから。

 そんな意志を篭めて――わたしも、御桜先輩に微笑み返す。

「それでは失礼します、御桜先輩」

 ぺこり、と一礼する。

 どうしてだろう。忌々しい仇敵に宣戦布告をしたはずなのに、わたしの頬は緩みっぱなしだ。それを隠すためにお辞儀してみたけれど、後十分は顔を上げられそうにない。

 治まり切らない頬の緩みをいつまでも隠しているわけにはいかず、仕方ないので顔を上げる。御桜先輩は、それを察しているのかフェンスの向こう側を眺めていた。

 広い空。灰色の雲。

 彼女が見ているのはどこか解らないし、それはわたしには関係のないことだ。

 突き詰めれば遙瀬空と御桜流深が初めて言葉を交わしてから、まだ二日しか経過していない。そんな短い時間の間で築かれた関係なんて高が知れているだろう。これから先、わたし達がまた会話をすることがあるかは解らない。

 解らないけれど、わたしはその背中に再会を密かに誓う。

 今度会うときは、この関係に決着が着いた時。わたしが橙弥を我が物にしてからだ。

 泣き出しそうな空模様の下、やっぱりわたしは笑っていた。本当に、自分でも何がそんなに嬉しいのかまるで解らない。だけど確かなことは、今までわたしを縛っていたシガラミはもうない。自分が禁忌にしていた想いだって、今なら胸を張って間違ってないといえる。

 どれだけ歪な形でも、わたしは兄である橙弥が好きだ。

 さてと。と息を吐く。

 背を向けた屋上を一度も振り返らず、立ち止まらずに階段を下りていく。足取りはだんだん早くなっていって、気がつけばわたしは走り出していた。


 さあ今日も、国語科準備室に行こう。

 大好きな人たちに会う為に。




(禁忌破綻の空色/了)

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